第008話 始まりの名前
翌朝、塔の螺旋階段を下りるのは、上るよりはいくらか楽だった。
それでも下に着く頃には、膝が少し笑っていた。
これを毎日上り下りするのか。
前を行くフィーネは、朝から鼻歌まじりだった。
階段を一段飛ばしで下りていき、塔の外に出たところで、くるりと振り返る。
「いい天気だねー。登録日和だよー」
「登録に、天気は関係あるんですか」
「気分の問題!」
昨夜の「名前ならもう考えてある」が、まだ頭の隅に引っかかっていた。
訊くべきか、訊かずにおくべきか。
悩んでいるうちに、フィーネはもう石畳の道を歩き出していた。
ギルドの本部は、街のほぼ真ん中にあった。
大通りのシャールの本拠地よりも、ひと回りもふた回りも大きい。
灰色の石を積み上げた、飾り気のない四角い建物だ。
正面の大扉は開け放たれていて、朝だというのに、ひっきりなしに人が出入りしている。
そして、そのすぐ横に。
地面が、大きく口を開けていた。
石で縁取られた、巨大な穴。
幅の広い石段が、その奥へと下っていく。
入り口の周りは鉄の柵でぐるりと囲われ、柵の切れ目には、槍を持った門番が二人立っていた。
装備を固めた冒険者たちが、門番に何かを見せては、一人、また一人と石段の奥へ消えていく。
カイは、足を止めた。
迷宮。
この街に来て、六日目。
ずっと足の下にあると分かっていながら、近づくことすらできなかった場所だ。
それが今、手を伸ばせば届きそうなところで、ぽっかりと口を開けている。
石段の奥から、ひやりとした風が吹き上がってきた。
土と、湿った石の匂い。
知らず知らず、拳を握っていた。
「カイー? こっちだよー」
フィーネの声で、我に返る。
カイは入り口から目を引きはがして、ギルドの大扉をくぐった。
中は、外以上の賑わいだった。
壁一面の掲示板に、依頼の紙がびっしりと貼られている。
奥の窓口には、袋を抱えた冒険者たちが列を作っていた。
袋の中身をカウンターに広げては、職員と何やら値段の話をしている。
あちこちから、昨日はいくら稼いだだの、あそこの層はもう駄目だだの、景気のいい声や愚痴が飛び交っていた。
フィーネは迷わず、空いている受付の窓口へ向かった。
「おはようございまーす。シャールの登録をお願いしたいんだけどー」
「新規のご登録ですね。かしこまりました」
窓口の女性職員が、慣れた手つきで書類を取り出す。
「では、主神様のお名前を伺えますか」
「フィーネだよー」
職員の手が、ほんのわずかに止まった。
「……フィーネ様、ですね。では、眷属の方の加護を確認させてください」
来た、とカイは思った。
この六日間で、何十回と聞かれてきた問いだった。
答えも、そのあとに来る顔も、もう嫌というほど知っている。
「加護は、ありません」
職員が、目を瞬かせた。
「……え?」
「加護の儀で、つかなかったんです。この神様とは、契約だけしています」
「加護が、ない……」
職員は書類とカイの顔を交互に見て、それから曖昧に微笑んだ。
「しょ、少々お待ちくださいね」
そう言い残して、奥へ引っ込んでいく。
カウンターの奥で、職員たちが額を寄せ合い始めた。
声は抑えられていたが、切れ切れに聞こえてくる。
「加護なし、って……そんな人いるの?」
「主神は、あの、加護を与えられない神様の……」
「前例は?」
「ないよ、そんなの。どう扱えば……」
「担当は誰が持つんだ」
笑う者は、一人もいなかった。
ただ、誰も手を挙げない。
困ったように顔を見合わせては、目をそらす。
その繰り返しだった。
カイは、カウンターの木目に目を落とした。
慣れている。
この光景には、もう慣れているはずだった。
隣を見ると、フィーネはカウンターに頬杖をついて、掲示板の依頼をのんびり眺めていた。
まるで聞こえていないかのような顔だ。
……いや、たぶん本当に、気にしていないのだろう。
やがて、奥の輪がもぞもぞと動いた。
年かさの職員が、一番端に立っていた若い女性職員の背中に、そっと手を添える。
添える、というより、押した。
押された職員は、半歩よろめいて輪の外に出た。
振り返って何か言いかけたが、先輩たちはもう、それぞれの机に散っていくところだった。
なんというか。
ものすごく、申し訳ない。
若い職員は、書類の束と羽根ペンを抱えて、まっすぐ窓口へ歩いてきた。
年は、十七か十八くらいだろうか。
黒髪をうなじの低い位置できっちりとまとめていて、ほつれた毛が一本も見当たらない。
白いシャツに、黒のベスト。
灰青色の目が、カイとフィーネを順番に見た。
そこには、押し付けられた不満も、困惑も浮かんでいなかった。
彼女は静かに椅子を引いて腰を下ろし、書類をカウンターに揃えて置いた。
「担当のイルゼです。登録の手続きを引き継ぎます」
それだけだった。
「よろしくねー、イルゼちゃん!」
フィーネが、ぱっと身を乗り出した。
イルゼは顔色ひとつ変えず、羽根ペンをインク壺に浸した。
「さん、でお願いします」
「えー、イルゼちゃんのほうがかわいいのにー」
「さん、でお願いします」
二回目も、一言一句、同じ調子だった。
カイは、なぜか背筋を伸ばしていた。
「では、項目を順に確認します」
イルゼは書類の一番上に、ペン先を置いた。
「主神のお名前。フィーネ様」
「はーい」
「眷属のお名前、年齢、出身地をお願いします」
「カイ・アッシュグレイです。十五歳です。エッシェ村から来ました」
「カイ・アッシュグレイ。十五歳。エッシェ村」
さらさらと、迷いのない字が書類に並んでいく。
読み上げる声に、抑揚はほとんどない。
「眷属の加護の有無について」
カイは、膝の上で手を握った。
「……ありません」
イルゼは、ペン先を止めなかった。
「加護の有無は、登録の要件に含まれていません。記載のみ行います」
それで、終わりだった。
聞き返しもしない。
眉も下げない。
「なし」と一言書き入れて、ペン先はもう次の項目へ移っている。
カイは、少しの間ぽかんとしていた。
断られない。
書類が、止まらずに進んでいく。
この六日間、何十回と止まってきたところを、するりと通り抜けてしまった。
「本拠地の所在をお願いします」
「街外れの塔だよー。昔の見張り塔の、てっぺんの部屋」
イルゼのペンが、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だ。
灰青色の目が、フィーネの顔に向けられる。
そして何も言わないまま、また書類に戻った。
「街外れ、旧見張り塔、最上階」
そう書き入れる字も、さっきとまったく同じ速さだった。
カイは、おそるおそる手を挙げた。
「あの……登録には、費用はかかるんでしょうか」
路銀の袋の中身が、頭をよぎる。
銀貨十数枚で足りるのかどうか、さっきからずっと気になっていたのだ。
「不要です」
「……そうですか。ありがとうございます」
「規則ですので」
礼を言われるようなことではない、という意味らしかった。
イルゼは書類の端を揃え直してから、顔を上げた。
「なお、ギルドの担当は眷属個人ではなく、シャールごとに一名が付きます。今後、こちらのシャールの手続き、報告、買い取りに関するご相談などは、すべて私がお受けします」
「すべて、イルゼさんが」
「はい。業務ですので」
「イルゼちゃん、頼もしいねー」
「さん、でお願いします」
三回目だった。
丁寧語と丁寧語が、真顔のまま行ったり来たりしている。
フィーネだけが楽しそうで、カイは笑っていいのかどうかも分からなかった。
「では、最後の項目です」
イルゼのペン先が、書類の一番下の欄に移った。
「シャール名をお願いします」
とうとう、この欄が来てしまった。
カイの耳に、昨夜の得意げな笑い声がよみがえった。
名前ならもう考えてあるんだー、という、あの弾んだ声。
何か、止める口実はないだろうか。
「あの……名前に、何か決まりのようなものは」
長さでも、使ってはいけない言葉でもいい。
そういう規則がひとつでもあれば、まだ望みはある。
「シャール名は、主神が自由に定めるものです」
イルゼが、淡々と答えた。
望みは、あっさりと断たれた。
隣で、フィーネががたりと身を乗り出す。
「待ってましたー!」
琥珀色の瞳が、きらきらと輝いている。
どうやら昨夜からずっと、この瞬間を待っていたらしい。
嫌な予感が、確信に変わっていく。
「ふっふっふー。ずーっと考えてたんだー。いい? 発表するよー?」
フィーネは胸を張って、高らかに宣言した。
「『フィーネ様と愉快な眷属たち』!」
沈黙が落ちた。
隣の窓口の冒険者が、ちらりとこちらを見た気がした。
様。
自分で、様。
そして、眷属たち。
眷属は、ここに一人しかいない。
「どう? かわいいでしょー! 覚えやすいし、楽しそうだし、私のシャールだってすぐ分かるし!」
ふざけている顔ではなかった。
心の底から、会心の名前だと思っている顔だった。
それが、一番まずい。
カイは、静かにフィーネのほうを向いた。
「神様」
「うん?」
「やめましょう」
「えっ」
「やめましょう」
イルゼが、ペン先を書類から浮かせたまま口を開いた。
「補足します。シャール名は、今後すべての書類に記載されます。依頼の受注票、買い取りの明細、迷宮の出入りの記録も含みます。変更には、別途申請と審査が必要です」
すべての書類。
受付で、窓口で、門の前で。
そのたびに「愉快な眷属たちの方ですね」と呼ばれる自分を想像して、カイは目を閉じた。
「えー……かわいいのにー」
フィーネは唇をとがらせて、カウンターに顎を乗せた。
「だめ?」
「だめです」
「ほんとにだめ?」
「ほんとにだめです」
「むー……」
フィーネは、しばらく黙り込んだ。
カウンターに顎を乗せたまま、ぼんやりと窓口の木目を見ている。
はしゃいでいた声が、すっと静まった。
指先が、カウンターの縁をとん、とん、と叩く。
「……じゃあ、アンファング」
ぽつりと、そう言った。
「アンファング?」
「うん。古い言葉でね、『始まり』って意味なんだー」
フィーネは顎を上げて、カイを見た。
「私たち、どっちも今日からでしょ? だから、始まり」
カイは、聞いたことのない言葉だった。
古い言葉、と彼女は言った。
どこで覚えたのだろう、と一瞬思う。
村の年寄りだって、そんな言葉は使っていなかった。
けれど、神様なのだ。
自分の知らないことを知っていても、不思議はないのかもしれない。
カイは、それ以上は訊かなかった。
アンファング。
始まり。
加護を受けられない人間と、加護を与えられない神様。
どちらも、今まで何ひとつ始められなかった。
その二人が、ここから。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「……それなら」
カイは、小さく頷いた。
フィーネの顔が、ぱあっと明るくなる。
イルゼは何も言わず、書類の欄に「アンファング」と書き入れた。
字の大きさも、速さも、さっきまでと少しも変わらなかった。
「アンファング……アンファングかー。えへへ。アンファング」
フィーネは口の中で、何度もその名前を転がしていた。
「紋章の欄は、空欄のままで構いません」
イルゼが、書類の隅を指し示した。
「紋章は後日の提出でも受け付けています」
「あ、紋章ならねー、私の顔をこう、大きく真ん中に——」
「後日でお願いします」
カイは、フィーネが言い終わる前に頭を下げていた。
「えー! まだ最後まで言ってないのにー」
「後日で、お願いします」
イルゼは、何事もなかったように書類の束を揃えた。
最後に大きな印をひとつ押して、羽根ペンを置く。
「以上で、登録を受理しました」
それから、彼女は改めてカイとフィーネに向き直った。
「アンファングの担当を務めます、イルゼ・リヒターです。今後とも、よろしくお願いいたします」
声も、表情も、最初に名乗った時と何ひとつ変わらない。
けれど、その一言で、何かが確かに決まったのだと分かった。
アンファング。
それが、カイの属するシャールの名前になった。
ギルドの大扉を出ると、朝の日差しがまぶしかった。
カイは、自然と横を見ていた。
本部のすぐ隣で、迷宮の入り口が変わらず口を開けている。
門番の前を、冒険者たちが通り過ぎていく。
さっきまでは、見ていることしかできなかった光景だ。
けれど、明日からは違う。
あの柵の内側へ。
あの石段の、その先へ。
自分も、下りていける。
握った拳に、じわりと汗がにじんだ。
「アンファング。ふふっ、アンファングだってー」
隣では、フィーネがまだ嬉しそうにその名前を口にしていた。
石段の奥から、また冷たい風が吹き上がってくる。
カイはそれを正面から受け止めて、深く息を吸い込んだ。
明日、あそこへ潜る。




