第007話 誓いの言葉
眷属。
その一言が、頭の中で何度も跳ね返っていた。
眷属になれば、シャールに入れる。
シャールに入れば、迷宮に入れる。
この五日間、どれだけ頭を下げても手に入らなかったものが、いきなり目の前に差し出されている。
なのに、すぐには頷けなかった。
カイは、フィーネに向き直った。
背筋を伸ばし、一度だけ息を整える。
「……俺は、加護を受けられません。眷属になっても、強くはなれないかもしれません。それでも、いいんですか」
声が、少し固くなった。
確かめておかなければいけないことだった。
あとになって、こんなはずじゃなかった、と言われるのは嫌だ。
……いや、違う。
言われるのが嫌なのではない。
言われた時に、またどこかで居場所がずれるのが、怖いのだろう。
フィーネは、きょとんとした。
「え? うん、知ってるよー。さっき聞いたし」
首が、こてんと傾く。
どうしてそんなことを訊くのか、本気で分からない、という顔だった。
「……で、なってくれるの?」
それで、おしまいだった。
さっき呼び止めた時は、あれほど言い淀んでいたくせに。
今度は、間すら置かない。
カイが五年間抱えてきた問いは、この人にとっては問いですらないらしい。
迷宮に入れる。
それは、確かに大きい。
けれど、頷きたい理由はそれだけではない気がした。
加護がないと打ち明けた自分に、「で?」と返してくる神様。
その隣なら、もう少しだけ前に進めるかもしれない。
「はい。……お願いします」
「ほんと? やったー!」
フィーネは、その場で小さく跳ねた。
それから、ぽんと手を打つ。
「じゃあ、ここでやっちゃおっか」
「え。ここで、ですか」
「うん。場所が決まってるわけじゃないしー。気が変わらないうちに、ね?」
カイは、広場を見回した。
ランプの灯りの下を、仕事帰りの人々が行き交っている。
屋台の呼び声も、まだ途切れていない。
石段の前で向かい合う二人に、目を留める者は誰もいなかった。
……まあ、いいか。
カイは、石畳に片膝をついた。
ひやりとした冷たさが、膝から這い上がってくる。
背筋を伸ばして、顔を上げた。
見下ろすフィーネの顔が、ほんの少しだけ強張っている。
言葉は、探すまでもなかった。
村で、何度も聞いた言葉だった。
「私は、あなたを神と仰ぎ、その名を共に背負います」
淀みなく、最後まで出た。
自分でも驚くほど、声は震えていない。
フィーネが、すっと背筋を伸ばした。
それだけで、周りの空気が変わった気がした。
くるくるとよく動いていた表情が、静かに凪いでいく。
琥珀色の瞳が、まっすぐにカイを見下ろしていた。
ランプの火を映したその顔は、さっきまで串焼きをかじっていた少女と、同じ人のものとは思えない。
「私は、あなたを眷属と認め、その歩みを——」
語尾の伸びない、澄んだ声。
ああ、この人は本当に神様なんだ。
カイが初めてそう思った、その時だった。
「……みと、ど……」
声が、途切れた。
フィーネの唇は、まだ動いている。
続きの形を作ろうとして、作れないまま、小さく開いては閉じる。
音には、ならなかった。
カイは、顔を上げた。
フィーネは、ぱちぱちと瞬きをしていた。
口元に、片手を浮かせたまま。
今のは何だったのか、自分でも分からない。
そんな顔に見えた。
それも、ほんの一呼吸のことだ。
「〜〜っ、もう! 長いんだよー、これ!」
フィーネは、両手をぶんぶんと振り回した。
「誰が考えたの、こんなに長いの! 途中で舌がもつれちゃうよー!」
ひとしきり騒いでから、ごほん、と咳払いをひとつ。
両手を腰に当てて、胸を張る。
「えっと、だから……うん! よろしくね、カイ!」
カイは、片膝をついたまま固まった。
「……今ので、いいんですか?」
「いいの! 神様がいいって言ってるんだから!」
言い切られてしまった。
張り詰めていたものが、ふっとほどける。
肩から、勝手に力が抜けていった。
村で毎年見てきた誓いは、もっとこう、厳かなものだった気がするのだけれど。
……まあ、この人らしいと言えば、らしいのかもしれない。
「じゃ、仕上げね」
フィーネはしゃがみ込んで、カイの胸元へ指先を伸ばした。
とん、と。
服の上から、軽く触れられる。
その一点が、ふっと熱を持った。
熱いというほどではない。
陽だまりに置いた石を、そっと押し当てられたような温かさ。
それは少しずつ引いていき、触れられた場所にだけ、ほのかな温もりが残った。
誓いの言葉は、途中で崩れてしまったのに。
それでも、何かがちゃんと結ばれた。
そう思えるだけの熱だった。
「……見ても、いいですか」
「うん。私も見たい」
カイは、襟元を指で少しだけずらした。
鎖骨の少し下に、見慣れない模様が浮かんでいた。
細い線で描かれた、ひとつの円。
けれどその輪は、一か所だけ、ぷつりと途切れている。
輪の真ん中には、小さな火がひとつ。
炎と呼ぶには小さすぎる、熾火の粒のような赤い点だった。
紋様は、それだけだった。
フィーネが、顔を寄せてのぞき込んでくる。
「……これ、私の?」
短い一言だった。
カイは、何と答えればいいのか分からなかった。
だから黙って、襟元を押さえたまま、そのまま見せておいた。
フィーネは、しばらく何も言わなかった。
瞬きも忘れたように、じっと胸元の模様を見つめている。
広場のざわめきが、どこか遠くで鳴っていた。
やがて、その口元がふにゃりと緩んだ。
「……あはは。紋様まで欠けてるんだー」
いつもの笑い方だった。
「さすが私。こういうとこ、徹底してるよねー」
輪の真ん中の小さな火については、どちらも何も言わなかった。
カイは襟を直して、立ち上がった。
膝の埃を払いながら、ふと考える。
これから、この人のことを何と呼べばいいのだろう。
あなた、では他人行儀だ。
フィーネさん、というのも何か違う。
村の皆は、ミルデ様のことを何と呼んでいたか。
いや、眷属が自分の神を呼ぶなら——。
「……ありがとうございます。神様」
フィーネが、ぴたりと動きを止めた。
「……今、なんて?」
「神様、と」
「もう一回」
「……神様」
「えへへ……」
フィーネは、ケープの裾をきゅっと握った。
頬を指でかいて、目をそらして、それからまたカイを見る。
「神様、だってー。……えへへ」
照れくさいのは、呼んだこちらのほうだ。
たった一言で、どうしてそこまで嬉しそうな顔ができるのだろう。
眷属は一人もいない、と言っていたのをカイは思い出していた。
「じゃあ、帰ろっか」
フィーネは、当たり前のようにカイの袖を引いた。
「え。……あの、俺は宿が」
「宿? あー、路地のとこだっけ。いいよいいよ、眷属なんだから、うちに住めばいいよー」
あっさりと言われた。
うちに住む。
神様の家に、眷属が。
それは、シャールの本拠地に住み込むということだろうか。
大通りで見てきたシャールの建物を思い浮かべると、それほどおかしな話でもない気がしてくる。
それに、正直に言えば、宿代が浮くのは大きかった。
路銀の袋の中身は、もう銀貨十数枚しかない。
路地の安宿で、荷物を引き取った。
もともと、背負い袋ひとつぶんしかない荷物だ。
宿の主人は、カイの後ろでにこにこと手を振るフィーネを一瞥して、何も言わずに鍵を受け取った。
フィーネに連れられて着いたのは、街の外れだった。
城壁にほど近い、ひと気のない一角。
そこに、古びた石の塔がぽつんと建っていた。
蔦の這う壁に、ところどころ欠けた石。
見上げると、てっぺんの小さな窓にだけ、ぼんやりと夜空が映っている。
「……ここ、ですか」
「うん。昔の見張り塔なんだってー。誰も使ってないから、住んでるの」
「それは、その……大丈夫なんですか」
「大丈夫だよー? 今まで一回も怒られたことないし」
それは大丈夫の根拠になるのだろうか。
中に入ると、石の螺旋階段が上へ上へと続いていた。
フィーネは鼻歌まじりに、軽い足取りで上っていく。
カイは荷物を背負い直して、その後を追った。
最初は段数を数えていたが、百を越えたあたりで諦めた。
ぐるぐると同じ景色が続いて、今どのあたりにいるのかも分からなくなってくる。
「ついたよー」
息が上がりかけた頃、ようやく木の扉が現れた。
フィーネが扉を開けて、手探りで小さなランプに火を入れる。
橙色の灯りに照らされた部屋には、ほとんど何もなかった。
壁際に、古い寝台が一つ。
その足元に、木箱が一つ。
寝台の上には、毛布が数枚、無造作に重ねられている。
そして、窓が一つ。
フィーネは窓辺まで歩いていって、外を見下ろした。
「ここね、景色だけはいいんだよー」
カイも、隣に並んだ。
眼下に、グラナートの街が広がっていた。
石造りの屋根の連なりに、無数の灯りがまたたいている。
大通りの灯りも、さっきまでいた広場のランプも、ここからでは小さな粒にしか見えない。
窓枠に頬杖をついたフィーネの横顔の向こうで、その粒が、静かに揺れていた。
ずいぶん、遠い。
カイはそれ以上何も言わず、部屋の中に視線を戻した。
戻して、固まった。
寝台が一つ。
部屋が、一つ。
扉は、さっき入ってきたものしかない。
「……あの、神様」
「んー?」
「部屋は、ここだけですか」
「うん。そうだよー?」
「ほかには」
「ないよー。塔だしー」
塔だし、で片付けられてしまった。
カイは、こめかみを押さえた。
同じ年頃の女の子と、同じ部屋で寝起きする。
村だったら、間違いなく大騒ぎになる話だ。
母さんに知られたら、たぶん手紙で叱られる。
当のフィーネはといえば、まったく気にした様子もない。
それどころか、何か思いついたように、ぱっと振り返った。
「あ、そうだ。さっきの紋様、もう一回見せてー」
言うが早いか、ひょいと距離を詰めてくる。
カイの襟元に、指先が伸びてきた。
「ちょ、待っ……!」
カイは、慌てて一歩下がった。
両手で、襟をしっかりと押さえる。
「えー、なんでー? 私のなのにー」
「それとこれとは、話が別です」
「さっきは見せてくれたのにー」
「さっきは、さっきです」
フィーネは唇をとがらせたが、それ以上は追ってこなかった。
カイは、そっと胸を撫で下ろした。
寝る場所の話になると、フィーネは当然のように寝台を指さした。
「カイ、あっち使っていいよー。私はどこでも寝られるし」
「いえ。神様のベッドを取るわけにはいきません」
カイは毛布を一枚借りて、窓の下の床に広げた。
村では、刈り入れの時期に納屋の藁の上で寝たこともある。
それに比べれば、石の床くらい何でもない。
フィーネは「真面目だなー」と笑って、それ以上は言わなかった。
毛布を広げ終えて、カイはもう一度、部屋の中を見回した。
寝台と、木箱と、毛布。
それで、全部だった。
神様は、働かない。
眷属が働いて、神様の暮らしを支える。
大通りのシャールの立派な本拠地も、きっとそうやって成り立っているのだろう。
なら、眷属が一人もいなかった神様は。
誰にも支えてもらえないまま、ずっとこの塔の上で、一人で。
何もない部屋が、急に違う意味を帯びて見えた。
カイは、寝台に腰かけたフィーネの前に立った。
「神様」
「ん?」
「神様の分まで俺が稼ぎます」
フィーネは、きょとんとした。
「え? 別にいいよー。お腹すいたら、ちょっと働けばいいしー」
本当に、何でもないことのような口ぶりだった。
カイは、ぐっと拳を握った。
気を遣わせないように、わざと軽く言ってくれているのだ。
眷属になったばかりの自分に、負い目を感じさせないように。
それが分かるから、なおさら引き下がれない。
「いえ。稼ぎます。俺が、ちゃんと」
「えー……? ほんとに平気なんだけどなー」
フィーネは首をかしげながら、ふあ、と小さくあくびをした。
カイの決意は、それでますます固くなった。
ランプの火を落とすと、窓から差し込む街の灯りだけが残った。
カイは毛布にくるまって、石の床に横になった。
思っていたより、床は冷たくない。
ベッドのほうから、フィーネが寝返りを打つ気配がした。
「明日はギルドだね」
暗がりの中で、フィーネの声がした。
「シャールの名前も決めなきゃ」
「名前、ですか」
そうか。
二人だけとはいえ、シャールはシャールだ。
名前がなければ、登録もできないのだろう。
「ふっふっふー」
ベッドのほうから、妙に得意げな笑い声が聞こえてくる。
「名前ならもう考えてあるんだー」
カイは、毛布の中で目を開けた。
なぜだろう。
その弾んだ声を聞いた瞬間、ひどく嫌な予感がした。




