第010話 刃こぼれ
次の日も、迷宮に潜った。
朝、塔の螺旋階段を下りる。
ギルドの窓口で、入ることを告げる。
柵の前でフィーネに手を振られ、「行ってきます」と返して石段を下りる。
一階層でヴュールラッテを追いかけ、噛まれ、転び、ときどき倒す。
日が傾く頃に地上へ戻って、買い取りの窓口に魔石を並べる。
二日目は、銅貨五枚。
ヴュールラッテの動きは、少しだけ読めるようになってきた。
飛びかかる直前に、後ろ足がぐっと沈む。
そこで半歩ずれれば、噛まれずに済む。
気づいたのは、すねの噛み跡が三つ目に増えた後だったけれど。
その日、もう一つ覚えたことがある。
壁に張り付いた、手のひらほどの黒い塊。
平たい殻が何枚も重なり、縁から細い脚がのぞいている。
石のこぶかと思って近づいたら、のそりと動いた。
「マウアーアッセルか。ほっとけほっとけ、割に合わねえ」
通りがかった冒険者が、笑いながら追い越していく。
噛みついてもこないし、逃げ足も遅い。
ただ、殻が恐ろしく硬い。
打ち下ろすたびに、がつん、と手首まで衝撃が返ってくる。
十回叩いて、ようやく一匹。
なるほど、割に合わない。
それでも一匹は一匹で、魔石は魔石だ。
刃に細かな欠けが並び始めていたが、気に留めなかった。
銀貨九枚の量産品なのだから、こんなものだろう。
三日目の朝。
通路の奥の下り階段へ、見覚えのある三人組が歩いていく。
「今日も二階層な」
「一階層じゃ稼ぎになんねえしな」
初日に、ヴュールラッテを片手間に片づけていた少年たちだ。
その背中が暗がりに消えるのを見送ってから、カイは壁の黒い塊のほうへ足を向けた。
昼を過ぎても、魔石はまだ一つしか拾えていなかった。
行き止まりの通路で、マウアーアッセルと向き合う。
もう何度、刃を打ち下ろしたか分からない。
がつん。
がつん。
殻の表面に、白い筋が走る。
あと少しだ。
これを割れば、二つ目になる。
短剣を振りかぶった、その時。
右のふくらはぎに、焼けるような痛みが走った。
「っ……!」
振り返ると、ヴュールラッテが脚に食らいついている。
一匹じゃない。
その後ろに、もう一匹。
通路の角から、さらに一匹。
壁際の岩陰からも、灰色の影がするすると這い出してくる。
四匹。
いや、五匹。
いつから、そこにいた?
殻を叩く音に夢中で、何も聞こえていなかった。
脚の一匹を振り払おうと、短剣をめちゃくちゃに振り回す。
刃はヴュールラッテをかすめもせず、背後の壁をしたたかに叩いた。
がちん。
嫌な音が、手のひらに響く。
返す刃がマウアーアッセルの殻に当たって、また弾かれる。
左腕に、別の一匹が飛びついてくる。
袖ごと歯が食い込み、振りほどこうと体をよじった拍子に、足がもつれた。
背中から、石の床に叩きつけられる。
息が詰まる。
起き上がろうとした胸の上に、灰色の重みが乗ってくる。
黄ばんだ前歯が、目の前で開く。
すねに、脇腹に、腕に、熱いものが次々と突き立つ。
袖に、じわりと赤い染みが広がっていく。
——やられる。
こんな、一階層の、鼠みたいな魔物に?
こんな所で?
誰か、と思う。
けれど、声にならない。
行き止まりの通路に響くのは、自分の荒い息と、甲高い鳴き声だけ。
誰も、来ない。
腕で顔をかばったまま、息を一つ、長く吐いた。
落ち着け。
村に魔物が出た時、ルッツは正面で牙を受け止め、その間にグレタが背後へ回り込んだ。
一人が前を受け持てば、もう一人が後ろを取れる。
自分には、後ろを任せられる相手がいない。
なら、背中は。
胸の上の一匹を腕で払いのけ、床を転がる。
這うようにして後ろへ下がると、背中がごつりと固いものに当たった。
壁だ。
行き止まりの、狭い角。
ここなら後ろからは来られないし、横からも一度に一匹しか入れない。
壁に背中を押しつけたまま、欠けた短剣を両手で握り直す。
一匹が、跳ぶ。
後ろ足が沈むのが、見えた。
半歩、横へ。
空を噛んだ灰色の脇腹に、刃を突き立てる。
キ、と短い悲鳴。
次。
二匹目は、正面から来る。
振りかぶらずに、刃先を突き出すだけ。
一度目は外れて、手の甲を噛まれる。
二度目で、刺さる。
次。
三匹目には、すねをもう一度持っていかれた。
四匹目は、欠けた所に刃が引っかかって、なかなか抜けない。
格好のいい戦い方なんて、どこにもない。
噛まれては突き、突いては噛まれる。
一匹ずつ。
一匹ずつだけを、見る。
五匹目が通路の奥へ逃げていくと、壁に背中を預けたまま、ずるずると床に座り込んだ。
石の床に、小さな黒い石が四つ。
マウアーアッセルは、とうに岩の隙間へ逃げていた。
白い筋の入った殻ごと。
膝の上の短剣に目を落とす。
刃の真ん中が、えぐれていた。
親指の爪ほどの幅で、縁がぎざぎざにめくれ上がっている。
壁を叩いた、あの音だ。
マウアーアッセル一匹に夢中になって、魔石一つ分を欲張って。
その結果が、これか。
笑おうとして、うまく笑えなかった。
四つの魔石を拾い集めて、袋に落とす。
壁に手をついて立ち上がると、噛まれたすねがずきりと痛む。
来た道を戻るのは、行きの倍も長く感じた。
足を引きずって、石段を一段ずつ上っていく。
柵の外に出ると、日はもう傾きかけている。
「カイ!?」
ギルドの前の段差から、フィーネが跳ね上がった。
「ちょ、ちょっと、どうしたのそれ! 血、血が出てる!」
「大丈夫です。全部、ヴュールラッテなので」
「全部って何!? 全部ってことは、いっぱいってことでしょー!」
腕をつかまれ、袖をまくり上げられる。
並んだ噛み跡に、フィーネが、ひっ、と小さく息をのむ。
「もー! 座って! そこ座って!」
有無を言わさず段差に座らされた。
フィーネはケープの内側から手巾を引っぱり出し、近くの水場まで駆けていって、濡らして戻ってくる。
ぎこちない手つきで、腕の血を拭い始める。
「痛い? ここ痛い?」
「平気です」
「平気な顔じゃないよー。うわ、すねもだ。ここも。ここも!」
「本当に、見た目ほどじゃないので」
「それ、昨日も一昨日も言ってたよねー?」
返す言葉がない。
ぶつぶつ文句を言いながら、フィーネは噛み跡を一つずつ拭っていく。
手巾を持つ指先が、少しだけ震えている。
されるがままになりながら、カイは短剣のことを黙っていた。
翌朝、塔を出たところで切り出した。
「すみません、神様。寄る所があるので、先にギルドへ行っていてもらえますか」
「ん? いいよー。柵のとこで待ってるねー」
ひらひらと手を振って、フィーネは大通りのほうへ歩いていった。
カイは、裏通りへ向かう。
交差した剣のかすれた看板は、三日前と同じ場所にぶら下がっていた。
扉を押すと、鉄と油の匂い。
店主は、やはり奥の作業台に座っている。
「……来たか」
顔も上げずに言われた。
鞘ごと差し出した短剣を、店主が抜いて窓の光にかざす。
大きな欠けを指先でなぞり、根元に並んだ細かい欠けまで、ゆっくりと目を動かしていく。
「硬い物を、正面から叩いたな」
「……マウアーアッセルに、何度か。それと、壁に」
「何度か、じゃない。毎日だ」
言葉に詰まった。
その通りだ。
刃が欠けていくのは、安物のせいだと思っていた。
「叩けば、刃は欠ける。安物でも、高い物でもだ」
それで、話は済んだらしい。
加護のことは、一言も出てこない。
「研げますか」
「研ぐだけならな。銀貨一枚」
銀貨一枚。
銅貨にして、十枚。
昨日、命からがら持ち帰った魔石を全部売っても、まだ届かない。
新しい短剣を買う金なんて、どこを探してもない。
路銀袋から銀貨を一枚つまみ出して、作業台に置いた。
店主が砥石を引き寄せ、水をかける。
しゃっ、しゃっ、と刃が石の上を往復する音。
特別なことをしている風には見えないが、手つきに迷いがない。
やがて布で拭われた短剣が、こちらへ差し出される。
欠けは、消えていた。
ただ、受け取った刀身は前より少しだけ薄い。
「ありがとうございます」
頭を下げて、扉に手をかけた時だった。
「殻は継ぎ目を狙え」
振り返ると、店主はもう作業台の上の部品に目を戻していた。
その日の稼ぎは、銅貨三枚。
ギルドの前に戻ると、柵の脇の段差でフィーネが手を振っていた。
「おかえりー! 今日はかじられてない?」
「……少しだけです」
「少しはかじられてるんだー」
並んで、塔への道を歩き出す。
夕方の大通りには、屋台がいくつも出ている。
肉の焼ける匂いが、風に乗って流れてくる。
串焼きの屋台の前で、足が止まった。
一本、銅貨三枚。
この街に来た日から、値段は変わっていない。
広場で座り込んでいた自分に、フィーネが押しつけてきたのと同じ串だ。
路銀袋の口を開ける。
「二本、ください」
焼き上がった串を受け取って、その一本を差し出した。
「どうぞ、神様」
フィーネが、ぱちぱちと瞬きをする。
「えっ、くれるの? いいの? やったー!」
両手で串を受け取るなり、さっそくかぶりついた。
「んー! おいしい! なんで串焼きって、人に買ってもらうとこんなにおいしいんだろうねー」
「……そういうものですか」
「そういうものだよー。ほら、カイも早く食べなよ。冷めちゃうよー?」
頬をいっぱいにふくらませて、フィーネが笑う。
これでいい。
少しずつでも、こうして返していければ。
自分の串にかじりつくと、肉の脂が口の中に広がった。
うまい。
うまい、けれど。
もう片方の手が、路銀袋の上から中身を探っている。
銀貨が三枚。
銅貨が、いくらか。
明日の朝のパン代を引いて。
また刃が欠けたら?
また囲まれて、潜れない日が出たら?
指先が、勝手に数え続ける。
「カイ、食べるの遅いー。いらないなら、もらっちゃうよー?」
「……あげません」
「ちぇー」
空になった串をくるくる回しながら、フィーネは夕焼けの道を軽い足取りで歩いていく。
鼻歌まで聞こえてくる。
それでいい、と思った。
次の朝、ギルドの窓口。
「アンファング、カイ・アッシュグレイ。本日も一階層ですね」
羽根ペンを走らせながら、イルゼが読み上げる。
少し迷ってから、口を開いた。
「あの、イルゼさん。二階層だと、魔石はもう少し高く売れるんでしょうか」
隣でカウンターに頬杖をついていたフィーネが、ちらりとこちらを見る。
イルゼのペン先が、止まった。
「はい。二階層の魔石は、一階層のものより買い取り額が上がります」
「……」
「ただし、担当として、現状では二階層はお勧めしません」
「理由を、聞いてもいいですか」
「記録上、アンファングの入場は本日で五回目です。すべて一階層。買い取りの数は、一日に二個から五個です」
書類から目を上げないまま、イルゼは続ける。
「判断の材料は、それだけです。ギルドは、冒険者の潜る階層を制限しません。決めるのは、各シャールです」
数字を並べられてしまうと、それ以上は訊けなかった。
「分かりました。ありがとうございます」
「規則ですので」
「イルゼちゃん、今日もきっちりだねー」
「さん、でお願いします」
その日も、一階層で日が暮れた。
夜の塔の部屋は、静かだった。
ランプの小さな火が、石の壁を橙色に揺らしている。
寝台のほうから聞こえるのは、フィーネの規則正しい寝息だけ。
窓の下の毛布に座り込んで、短剣を膝に乗せる。
古布で刃の汚れを拭うと、ランプの火を受けて、刀身が細く光った。
薄い。
研ぎ直してもらう前より、ほんの少し。
気のせいだと言われれば、そうかもしれないくらいの差。
それでも握るたびに、前とどこか違う気がする。
二階層の魔石は、買い取り額が上がる。
頭の中で、イルゼの声がもう一度読み上げられる。
お勧めしません、という声も、一緒に。
分かっている。
一階層のヴュールラッテにさえ囲まれて、床を転がったのだ。
あの行き止まりで背中が壁に当たらなかったら、どうなっていたか。
それでも、あの三人組は、もう二階層にいる。
殻は継ぎ目を狙え。
店主の声が、イルゼの声の上に重なった。
継ぎ目。
平たい殻が重なり合った、あの縁のところだろうか。
正面から叩くのではなく、隙間に刃先を差し込むように。
短剣を握り直し、手首を返して刃先を斜めに立てる。
誰もいない宙に向かって、そっと突き出してみる。
明日、試してみよう。
それでマウアーアッセルを早く倒せたら、一日の稼ぎが少しは増えるかもしれない。
増えたら、その次は。
二階層なら。
その考えが、どうしても頭から離れない。
寝台の上で、フィーネが小さく寝返りを打った。
むにゃむにゃと何か言ったが、言葉にはなっていない。
窓から入る街の灯りが、アプリコット色の髪を淡く照らしている。
薄くなった刃を、もう一度ランプの火にかざす。
もう少しだけ。
もう少しだけでいいから、強くなりたい。
この寝顔の前で、銅貨を数えなくて済むくらいには。




