第011話 お休みの日
朝の光が、窓から斜めに差し込んでいる。
毛布をたたんで、短剣を腰に差す。
いつもと同じ支度だ。
違うのは、腕を上げるたびに、体のどこかがずきりと鳴ることくらい。
ヴュールラッテに囲まれた日の噛み跡は、まだ一つも塞がりきっていない。
あれから毎日潜っているのだから、当たり前といえば当たり前か。
左腕に巻いた古布を締め直すと、内側から赤茶色の染みがじわりと浮いてくる。
見なかったことにして、袖を下ろした。
「カイー、それ」
寝台のほうから、寝ぼけた声が飛んでくる。
フィーネが、毛布にくるまったままこちらを見ていた。
ほどいたままのアプリコット色の髪が、あちこちに跳ねている。
視線の先は、カイの左腕だ。
「血、にじんでるよー」
「平気です」
「えー。今日は休もうよー。ね?」
「大丈夫です。動けますから」
背負い袋を肩にかけて、扉へ向かう。
その扉の前に、フィーネが立っていた。
いつの間に寝台を降りたのか、裸足のままだ。
両手を広げて通せんぼをするわけでもない。
ただ、扉とカイの間に、すっと立っている。
「神様、通してください」
「カイ」
名前を呼ばれただけなのに、足が止まった。
「頑張ってるのは、分かってる。でも、カイが傷つくのは嫌なんだ」
大きな声ではない。
まっすぐ見上げてくる琥珀色の目が、少しも笑っていない。
一日休めば、その分だけ稼ぎが減る。
路銀袋の中身は、もう数えるまでもないくらい軽い。
二階層のことを考えるなら、なおさら一日だって惜しい。
言い返す言葉なら、いくらでもあるはずだった。
口を開きかけて——そのまま、閉じる。
この人のこんな顔を、初めて見た。
「……今日だけ、です」
やっと絞り出すと、フィーネの肩から、ふっと力が抜けた。
「うん」
それから、ぱん、と両手を打ち鳴らす。
「よーし! じゃあ手当てしよっか! 座って座ってー!」
「じっとしててねー。ちゃんと治るように、しっかり巻くからー」
木箱の中から古い布を引っぱり出してきて、フィーネは張り切って裂き始めた。
床に座らされたカイの左腕に、それをくるくると巻いていく。
くるくる。
くるくる。
まだ、くるくる。
「……神様」
「んー?」
「巻きすぎです」
肘から手首までが、白い布の筒になっている。
曲げようとしても、肘がぴくりとも動かない。
「えー、ちゃんと治るようにだよー」
「これだと、パンもちぎれません」
「じゃあ、私がちぎってあげるー」
「そういう問題じゃないです」
フィーネは頬をふくらませながら、しぶしぶ布をほどき始めた。
三分の一ほどほどいたところで、ようやく肘が曲がる。
すねの噛み跡でも、脇腹の打ち身でも、同じやり取りが繰り返された。
「ねえ、ポーションって、こういうのも治るんだよね?」
「治りますけど、高いので。これくらいなら、寝ていれば治ります」
「ふーん……」
唇をとがらせたまま、フィーネはすねの布を結ぶのに取りかかる。
出来上がったのは、妙に大きなちょうちょ結びだった。
指摘するのは、やめておいた。
口の端が勝手にゆるみそうになって、慌てて引き結ぶ。
「さて!」
最後の結び目を作り終えると、フィーネは勢いよく立ち上がった。
「せっかくのお休みなんだから、街に行こうよー。グラナート、案内してあげる!」
「休むんじゃなかったんですか」
「歩くのは休みのうちだよー。迷宮に潜らなければ、ぜーんぶお休み!」
そういう理屈なのだろうか。
反論を考えているうちに、手首をつかまれて、螺旋階段を引っぱり下ろされていた。
グラナートに来て、もう十日あまりになる。
それなのに、カイが知っている道は驚くほど少ない。
塔とギルドを結ぶ大通りと、武器屋のある裏通り。
それから、シャールを回って断られ続けた本拠地の並び。
フィーネの歩く道は、そのどれとも違っていた。
洗濯物が頭の上ではためく路地を抜け、パン屋の裏の細い石段を下りる。
猫しか通らなそうな塀の隙間に、迷いなく体を滑り込ませる。
抜けた先が、いつもの大通りのすぐそばだったりする。
「ここ通ると、ギルドまでちょっと近いんだよー」
「……知りませんでした」
「でしょー?」
得意げに胸を張るフィーネの後ろで、カイは自分のすねの布が塀に引っかかっていないか確かめた。
少し開けた辺りに、古い井戸が一つあった。
石の縁に、文字のようなものが彫られている。
すり減って、半分ほどは苔に埋もれていた。
カイには、どこで区切って読むのかさえ分からない。
「『この水は、渇く者すべてのもの』」
隣でフィーネが、すらすらと読み上げた。
「……読めるんですか」
「まあねー。古い言葉だから、もう読める人あんまりいないけど」
古い言葉。
アンファングという名前を出した時も、フィーネはそう言っていなかっただろうか。
どこで覚えたのか訊こうとした時には、フィーネはもう次の路地へ跳ねていっていた。
声をかけられたのは、その少し先だった。
「あら、フィーネちゃん」
戸口で豆の筋を取っていた年配の女の人が、手を止めて顔を上げる。
「この前は手紙を書いてくれて、ありがとうね。息子から返事が来たのよ。元気でやってるって」
「ほんと? よかったー!」
フィーネが、自分のことのように両手を合わせる。
女の人は目尻のしわを深くして、カイのほうにも会釈をくれた。
角を曲がると、今度は子どもたちだ。
「あっ、フィーネだ!」
「フィーネー!」
どこから湧いてきたのか、五、六人がわっと駆け寄ってくる。
袖を引っぱる子、ケープの裾にぶら下がる子、背中によじ登ろうとする子。
「この前、妹を連れてきてくれて、ありがとうって、母ちゃんが!」
「ねえ、また鬼ごっこしよ!」
「今日はだめー。お客さん、案内してる最中なのー」
「えー!」
「えーじゃないのー。はい、順番に下りてねー」
背中の子をひょいと下ろし、裾の子の頭を撫で、フィーネは慣れた手つきで一人ずつさばいていく。
子どもたちの視線が、じろじろとカイに集まった。
「この兄ちゃん、だれ?」
「私の眷属だよー」
「けんぞく!?」
「フィーネ、けんぞくいたの!?」
なぜか、ものすごく驚かれている。
手を振って子どもたちと別れた後も、行く先々で似たようなことが起きた。
荷車を引いた男が「この前は道を教えてもらって助かった」と帽子を上げる。
井戸端の女たちが、通りすがりに手を振ってくる。
その誰一人として、フィーネを「欠陥品」とは呼ばなかった。
ずいぶん、親切な人なんだな。
困っている人がいれば手紙を書き、迷子がいれば家まで送り届ける。
神様は働かないものだと思っていたけれど、この人はきっと、頼まれれば何でも引き受けてしまうのだろう。
家の前の長椅子で日向ぼっこをしていた老人が、目を細めてこちらを見上げてきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
「おや、神様。……そっちの坊主は」
「おじいちゃん、こんにちはー。この子はね、カイ」
「カイ・アッシュグレイです」
頭を下げると、老人はしばらくカイの顔を眺めて、それから、しわだらけの顔をくしゃりとほころばせた。
「そうかい。あんたが、この神様の眷属かい」
「……はい」
「そうかい、そうかい」
何度もうなずいて、老人は膝を打つ。
「いやあ、めでたい。わしがこんな背丈の洟垂れだった頃から、この神様はちっとも変わらんでなあ。いつ見かけても、一人で、にこにこ歩いとった」
一人で。
「それが、とうとう一人じゃなくなったかい。いや、長生きはしてみるもんだ」
「もー、おじいちゃん。余計なこと言わないのー」
フィーネは、少しだけ照れたように笑った。
それだけで、話はもう別のところへ流れていく。
腰の具合はどうだとか、孫がどうしたとか。
カイは、その横顔から目を離せずにいた。
この老人が、子どもだった頃から。
塔のてっぺんの、何もない部屋。
あの窓から見下ろした、小さな粒のような街の灯り。
窓枠に頬杖をついていた、フィーネの横顔。
あの景色を、この人は、どれだけの間、一人で見ていたのだろう。
「カイー? 行くよー?」
呼ばれて、我に返る。
老人に頭を下げて、跳ねるように歩き出した背中を追いかけた。
帰り道、市場の端の露店で、フィーネの足がぴたりと止まった。
台の上に、木の器が並んでいる。
削り跡の残る、素朴なカップだ。
色も形も、どれも少しずつ違う。
「ねえねえ、これかわいくない?」
フィーネが一つ手に取って、くるりと回してみせる。
それから、もう一つ。
「カイの分もいるでしょー」
「え、いや、俺は——」
「おじさん、これ二つちょうだい!」
止める間もなかった。
フィーネが銅貨を何枚か渡すと、店主は器を二つ、手早く布でくるんでくれる。
「……すみません、払わせてしまって」
「いいのいいの、安いんだからー。それに、毎朝お水飲むのに、手ですくうわけにいかないでしょー?」
言われてみれば、塔の部屋には、器の一つもなかった。
塔の部屋に戻ると、フィーネは包みをほどいて、木箱の上に器を置いた。
一つ。
少し間を空けて、もう一つ。
「うん。いい感じー」
満足げにうなずいて、フィーネは寝台に倒れ込む。
今日一日、あれだけ跳ね回っていたのだから無理もない。
寝台と、木箱と、毛布だけだった部屋。
その木箱の上に、木の器が二つ、並んでいる。
夜。
寝台のほうから、規則正しい寝息が聞こえてくる。
カイは毛布からそっと抜け出した。
短剣を手に取り、音を立てないように扉を開ける。
螺旋階段を、壁に手をつきながら下りていく。
包帯の巻かれた腕は、昼間よりはずいぶん楽になっていた。
塔の外に出ると、月が出ている。
ひと気のない城壁際の空き地に、自分の影だけが長く伸びていた。
今日だけ、と言った。
だから、迷宮には行っていない。
これは、潜るのとは違う。
……たぶん。
鞘から短剣を抜く。
月の光を受けて、薄くなった刀身が白く光った。
叩けば、刃は欠ける。
安物でも、高い物でも。
あの店主の声を思い出しながら、構える。
振りかぶって、思いきり打ち下ろす——のではなく。
手首を返し、刃先を斜めに立てて、殻と殻の間に滑り込ませるように。
すっ、と突き出す。
違う。
今のは、たぶん殻の真ん中に当たっている。
もう一度。
今度は、もう少し浅く。
刃を当てるというより、隙間に置いてくる感じだろうか。
ゆっくりと、何度も繰り返す。
噛み跡が引きつれて痛むたび、少しだけ動きを小さくした。
あと少し。
あと少し、何かがつかめそうな——。
「休めって言ったでしょー」
背中から、声がした。
手が止まる。
振り向けない。
塔の入り口のほうから、ぺた、ぺた、と足音が近づいてくる。
裸足の音だ。
「いや、これは、その……」
「その?」
「潜っては、いないので……振っているだけというか……」
言えば言うほど、言い訳にしか聞こえない。
自分でもそう思うのだから、相手にはなおさらだろう。
背後の足音が、すぐ後ろで止まった。
叱られる。
そう思って、首をすくめた、その時。
背中に、とん、と柔らかいものがぶつかった。
細い腕が、後ろから腹のあたりに回ってくる。
ぎゅう、と締めつけられる。
「……だって、私の眷属、カイしかいないんだからね」
いつもの、からかうような軽い声。
なのに、体が石みたいに固まって動かない。
背中に、ぴたりと額が押し当てられている。
回された腕の温かさが、服越しに伝わってくる。
何か言わなければと思うのに、頭の中が真っ白で、言葉が一つも出てこない。
胸元の一点が、じわりと熱を持った。
顔が熱い。
耳まで熱い。
こんなことをされて、平気な顔でいられるわけがない。
だから、胸のあたりまで熱いのも、きっとそのせいだ。
フィーネは、何も言わなかった。
額をカイの背中に当てたまま、じっとしている。
その沈黙が何なのか、考える余裕など、今のカイにはどこにもなかった。
——あれ?
額の向こうから伝わってくるのは、カイの鼓動と、体温。
そのはずだった。
なのに、今。
その奥のほうで、何かが。
フィーネは、目を開けたまま、しばらく動けずにいた。
何だろう。
分からない。
分からないまま、フィーネはそれ以上、考えないことにした。
「はい、おしまい!」
ぱっと、背中から重みが離れる。
振り向くと、フィーネはもういつもの顔で、腰に手を当てていた。
「もー、寝てると思ったら、いないんだもん。びっくりしたよー。ほら、戻るよ! 眷属は神様の言うこと聞くのー!」
「……はい」
短剣を鞘に収める間もなく、空いたほうの手首をつかまれる。
そのまま、螺旋階段を引っぱり上げられていく。
今日、二度目だ。
部屋に戻ると、フィーネはさっさと寝台にもぐり込んだ。
ほどなく、毛布の山が小さく上下し始める。
カイは窓の下の毛布にくるまって、天井を見上げた。
窓から差し込む月の光が、木箱の上の二つの器を、淡く照らしている。
まだ、顔が熱い。
きっと、照れているせいだ。
そう思いながら目を閉じても、胸元の熱だけは、いつまでも引かなかった。




