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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
始まりのシャール

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第012話 いつもより

目を開けると、天井の石組みがやけにくっきりと見えた。


窓の外は、もう白んでいる。

毛布の中で、そろりと寝返りを打ってみる。


痛くない。


いや、まったく痛くないわけではない。

脇腹の打ち身は押せば鈍く響くし、すねの噛み跡もまだ引きつれる感じが残っている。

ただ、昨日の朝のような、腕を上げるたびに体のどこかがずきりと鳴る感じがない。


体を起こしてみると、驚くほどすんなりと起き上がれた。



左腕の布をほどく。


フィーネが三分の一ほど巻き直した、あの白い筒の名残だ。

結び目がやたらと固くて、ほどくのに少し手間取った。


噛み跡は、まだそこにあった。

赤い点が並んでいて、触れればちゃんと痛い。

けれど、昨日の朝ににじんでいた赤茶色の染みは、もうどこにもない。

傷口の縁が、薄く乾いて閉じかけている。


もう少しかかると思っていた。


一日、休んだからだろうか。

村にいた頃も、熱を出した時に母さんが「寝るのが一番の薬」と言っていた。

たぶん、そういうことなのだろう。



「おはよー……」


寝台のほうで、毛布の山がもぞもぞと動いた。

跳ね放題の髪の間から、半分閉じた琥珀色の目がのぞく。


その目が、カイの腕に止まった。


「あっ、傷! どう? どう?」


さっきまでの眠そうな声はどこへ行ったのか、フィーネは毛布を跳ねのけて、裸足のまま駆け寄ってくる。

カイの腕をつかんで、顔を近づけた。


「……よくなってる」


「はい。思ったより」


「ほらー! 私の手当てが効いたんだねー!」


腰に手を当てて、胸を張る。

朝日を背負ったその顔は、これ以上ないくらい得意げだった。


「あれは、その……巻きすぎでしたけど」


「でも効いたでしょー?」


「……効いた、んでしょうか」


「効いたんだよー」


言い切られてしまった。

休んだおかげだと思います、とは、なんとなく言い出しにくい。

曖昧にうなずくと、フィーネは「でしょー」と満足そうに鼻を鳴らした。



それから、ふと。


フィーネが、黙った。


胸を張ったまま、笑みも消えないまま、じっとこちらを見ている。

カイの顔ではなく、その少し下のあたりを。


ほんの一呼吸か、二呼吸。


その視線に、昨夜の背中の重みが、急に思い出された。

細い腕の感触。

背中に押し当てられた額。


カイは、慌てて目を逸らした。

耳の先が、また熱くなってくる。


まだ、気にしているのだろうか。

それとも、気にしているのは自分だけか。


「——よしっ」


ぱん、と軽い音がして、肩を叩かれた。


顔を戻すと、フィーネはもういつもの顔で笑っている。


「今日は行っていいよー。でも、無理はしないこと! また血だらけで帰ってきたら、今度は全身ぐるぐる巻きにするからねー」


「……それは、困ります」


「じゃあ、無理しないの!」


昨夜のことは、どちらも口にしなかった。

カイは短剣を腰に差して、木箱の上の器の片方で水を一杯飲んだ。




一階層の空気は、いつもと同じだった。


湿った石の匂い。

うっすらと光る壁と天井。

遠くで、誰かが魔物を追い回す声が響いている。


二日ぶりの通路を、短剣を抜いて歩く。


足が、軽い。


休んだ分、体が楽なのだろう。

いつもなら昼前には上がってくる息が、まだ落ち着いている。



曲がり角の先で、灰色の影が動いた。


ヴュールラッテだ。

一匹、こちらに気づいて、鼻をひくつかせている。


短剣を構えて、待つ。


ヴュールラッテが、身を低くする。

後ろ足が沈み、跳ぶ。


右——そう思った。


なぜそう思ったのかは、自分でもよく分からない。

ただ、沈んだ後ろ足の向きが、少しだけ左に開いて見えた。


ヴュールラッテが跳ぶ。

半歩、左へ。

灰色の体が、さっきまでカイのいた右側の空を噛む。


その脇腹に、刃を突き立てた。


キ、と短い悲鳴。

小さな体が床に転がり、黒い石を一つ残して消えていく。


「……よし」


思わず、声が出た。


最初の一匹は、すねと腕を噛まれて、床を転がりながらやっと倒した。

それに比べれば、ずいぶんましになったものだ。


ヴュールラッテの癖は、もう何日も見てきた。

目が慣れてきたのだろう。



もちろん、全部がうまくいくわけではない。


二匹目には、突きを二度外して、手の甲をかすめられた。

三匹目を追いかけた時は、石の出っぱりにつまずいて、膝から盛大に転んだ。

立ち上がって振り向いた時には、ヴュールラッテはもう岩の隙間に逃げ込んでいる。


通りがかった同じ年頃の少年が、ちらりとこちらを見て、何も言わずに通り過ぎていった。

その手には、もう魔石が三つも四つも握られている。


膝の土を払いながら、苦笑する。


変わらない。

自分が素人なのは、何も変わっていない。




昼を過ぎた頃、行き止まりの通路でマウアーアッセルを見つけた。


壁に張り付いた、手のひらほどの黒い塊。

重なった平たい殻の縁から、細い脚がのぞいている。


あの日と同じ、行き止まりだ。


足を止めて、まず後ろを振り返る。

通路の角。

壁際の岩陰。


何もいない。


少し考えてから、角が見える位置まで体をずらした。

これなら、マウアーアッセルに刃を向けたままでも、目の端で通路の入り口が見える。


マウアーアッセルの前に、しゃがみ込む。


殻は継ぎ目を狙え。

叩けば、刃は欠ける。


振りかぶらない。

平たい殻と殻が重なり合った、その縁。

わずかにのぞく、黒っぽい筋。


昨夜、塔の下で何度も繰り返した形を思い出す。

手首を返して、刃先を斜めに立てる。

隙間に、そっと置いてくるように。


すっ、と。


刃先が、殻の間に沈んだ。


がつん、という手応えはない。

硬い物を叩いた時の、あの手首までしびれる衝撃もない。

少し押し込むと、マウアーアッセルの細い脚がばたばたと宙をかいて、やがて動かなくなる。


黒い石が、ころりと床に落ちた。


「……一回で」


前は、十回叩いてようやく一匹だった。


殻の縁に沿って刃先を当てる、ただそれだけのことで。

あの店主は、本当に一言で済ませてくれたのだ。

それに、あの素振りも、少しは無駄じゃなかったのかもしれない。


刀身を目の高さにかざしてみる。

欠けは、一つもない。



その時、首の後ろが、ちり、とした。


振り向く。


通路の角から、灰色の影が一つ、床を蹴ったところだった。


考えるより先に、体が横へずれる。

飛びかかってきたヴュールラッテが、カイの肩をかすめて壁にぶつかった。

床に落ちてもがく背中に、刃を突き下ろす。


息を吐く。


一匹だけだった。

後から続く影も、鳴き声もない。


心臓が、遅れてどくどくと鳴り始めた。


前は、囲まれるまで気づかなかった。

殻を叩く音に夢中で、何も聞こえていなかった。

今日は、殻を叩いていない。

だから、聞こえたのだ。


あの日、さんざん痛い目を見たのだから、警戒もするようになる。

それだけのことだ。


拾った魔石を袋に落として、カイはもう一度、通路の角に目をやった。




日が傾く前に、地上へ戻った。


買い取りの窓口に、袋の中身を並べる。


小指の先ほどの、黒ずんだ石。

一つ、二つ、三つ。

四つ、五つ。


六つ。


並べ終えた自分の手を、思わず見下ろしてしまった。


窓口の向こうで、ギルドの職員が石を一つずつ確かめ、銅貨を数えて押し出してくる。


「銅貨八枚です」


八枚。


これまでで、一番多い。

銀貨一枚には、まだ届かない。

研ぎ代一回分にも、足りない額だ。


それでも、八枚は八枚だった。



担当の窓口に立ち寄ると、イルゼが書類の束から顔を上げた。


「アンファング、カイ・アッシュグレイ。本日の帰還を記録します」


羽根ペンが紙の上を走る。

買い取りの記録らしい紙を一枚めくって、イルゼは数字を書き写していく。


その手が、一瞬だけ止まった。


「魔石六個。本日は、いつもより多いですね」


「……たまたまです」


「そうですか」


それ以上は、何も訊かれない。

イルゼはもう、次の欄に目を移している。


ただ、書類の端に並んだ数字の列は、きっとあの灰青色の目に、毎日きちんと読まれているのだろう。




「カイー! おかえりー!」


柵の脇の段差から、フィーネが跳ね上がった。

駆け寄ってくるなり、カイの腕を取って、上から下まで眺め回す。


「かじられてない? 血、出てない?」


「手の甲を、少しだけです」


「やっぱりかじられてるー。でも、今日はちょっとだけだねー」


「それと、今日は六つ取れました。銅貨八枚です」


フィーネの目が、まんまるになった。


「えっ、すごい! いつもより多いじゃん!」


それから、えっへん、とあごを持ち上げる。


「ほらー、やっぱり私の手当てのおかげ!」


「……それも、あるかもしれません」


「それ『も』ってなにー! それ『が』でしょー!」


ぷんすかと頬をふくらませながらも、フィーネの足取りは跳ねるように軽い。

道行く人が、何事かと振り返るくらいに。




塔への帰り道は、夕焼けに染まっていた。


並んで歩きながら、カイは自分の右手を開いて、閉じてみる。


短剣を握っていた手のひらに、柄の革の跡がうっすらと残っている。


握り込むと、いつもより少しだけ、指に力が入る気がした。


……気のせいだろうか。


一日休んで、塔の下で刃の当て方をさらって、店主の言葉どおりに継ぎ目を狙った。

今日うまくいったのは、たぶんそのおかげだ。

一日うまくいったくらいで、浮かれるのはまだ早い。


手のひらを、もう一度ぎゅっと握る。


「カイ、遅いよー! 置いてっちゃうよー!」


少し先で、フィーネが大きく手を振っている。


「今、行きます」


返事をして、足を速める。


今日のは、たまたまだ。


けれど、もし明日も、同じだったら——。

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