第013話 銀貨一枚
次の日も、体は軽かった。
その次の日も。
ヴュールラッテが後ろ足を沈めれば、どちらへ跳ぶかがなんとなく分かる。
マウアーアッセルは、継ぎ目に刃先を差し込めば一度で済む。
夕方になっても、膝が笑わない。
買い取りの窓口で受け取る銅貨は、八枚から九枚になり、また一枚増えた。
一枚ずつ。
本当に、一枚ずつだ。
ただ、減った日は一度もなかった。
三日目の昼、通路の広くなった所で、ヴュールラッテの群れに出くわした。
三匹。
物陰から、もう一匹。
前なら、それだけで頭が真っ白になっていた。
今は、まず後ろを見る。
少し戻った所に、岩が張り出して通路が細くなった場所があったはずだ。
そこまで下がって、張り出した岩に背中を預ける。
これで、横から回り込まれることはない。
一匹目が跳ぶ。
後ろ足の向きを見て、半歩ずれて、突く。
二匹目は跳ぶのが早すぎて、刃先をかすめて床に落ちた。
その隙に、三匹目が脇から来る。
腕で払いのけて、床に転がったところを突く。
四匹目には、袖を少し破られた。
噛まれたのは、布だけだ。
最後の一匹が逃げていった後、カイは岩に背中をつけたまま、長く息を吐いた。
膝は震えていない。
手のひらも、汗で滑ってはいない。
床の魔石を拾っていると、少し離れた所から、慌てた声が聞こえてきた。
「おい、そっち行った!」
「分かってるって! くそ、ちょこまかしやがって」
カイと同じ年頃の二人組が、一匹のヴュールラッテを追いかけ回している。
剣が空を切り、もう一人の振り回した棍棒が、壁を叩いて鈍い音を立てた。
あれは、刃が欠ける。
ほんの少し前の自分を見ているようで、思わず目を逸らす。
拾った魔石を袋に落として、カイは通路の奥へ歩き出した。
背中のほうで、ようやくヴュールラッテを仕留めたらしい二人の歓声が上がる。
振り返りはしなかった。
慣れてきたのだと思う。
ヴュールラッテの癖も、マウアーアッセルの継ぎ目も、囲まれた時の下がり方も、潜った日数の分だけ体が覚えてきたのだ。
初めて潜った日には、四つの魔石に一日かかった。
あの日の自分に今の手応えを教えたら、たぶん信じないだろう。
その日、買い取りの窓口に並べた魔石は、九つだった。
職員が石を一つずつ確かめ、手元で何かを数える。
押し出されてきたのは、銅貨が二枚。
それと、銀色の硬貨が一枚。
「銀貨一枚と、銅貨二枚です」
すぐには、手が伸びなかった。
銅貨とは、色が違う。
重さも、たぶん違う。
窓口の明かりを受けて、縁の刻みがかすかに光っている。
この街に来てから、銀貨は袋から出ていく一方だった。
安宿の宿代に、短剣の代金に、研ぎ代に。
研ぎ代。
刃こぼれした短剣を抱えて武器屋に行ったあの朝、作業台に置いた銀貨一枚。
あれと同じものが、今、一日で手元に戻ってきた。
指先でつまみ上げて、手のひらに乗せる。
そのまま、ぎゅっと握り込んだ。
隣の窓口では、同じ年頃の冒険者が、銀貨を何枚もまとめて革袋に流し込んでいる。
あちらにとっては、数えるのも面倒な一枚だろう。
けれど、カイにとっては、この街に来て初めて自分の手で稼いだ一枚だった。
職員に頭を下げて、窓口を離れる。
気づけば、足が速くなっていた。
柵の脇の段差に、アプリコット色の頭が見える。
「神様」
呼ぶと、フィーネがぱっと顔を上げた。
「あっ、おかえりー! 今日はどこかじられた?」
「どこも。それより、これを」
握っていた手を、フィーネの前で開いてみせる。
フィーネは、きょとんとカイの手のひらをのぞき込んだ。
「……銀貨?」
「今日の分です。初めて、一日で銀貨になりました」
一拍。
「えっ」
もう一拍。
「えーっ! すごい! すごいすごい! カイ、すごいじゃん!」
弾かれたように立ち上がったフィーネが、カイの両肩をつかんで揺さぶる。
「ちょ、神様、落ちます、銀貨が」
「だって銀貨だよ!? 銀貨! カイが自分で取ってきたんだよー!」
ギルドから出てきた冒険者たちが、何事かとこちらを見ている。
門番まで、槍を持ったまま首を伸ばしていた。
「あの、声が」
「いいのー! うれしいんだもん!」
銀貨一枚でここまで喜ぶ神様が、この街にほかにいるだろうか。
フィーネが喜んでいるのは、たぶん銀貨のことではない。
カイの手のひらではなく、カイの顔ばかり見ているのだから。
なんだか、耳が熱い。
「……ありがとうございます」
「なんでカイがお礼言うのー? 変なのー」
けらけら笑うフィーネに背を向けて、カイは銀貨を路銀袋にしまった。
ほかの硬貨とは混ざらないように、袋の内側の小さな隠しへ。
使い道は、まだ決めない。
次に刃こぼれした時のために。
いざという時のために。
一枚あるだけで、袋が少しだけ重く感じる。
「あ、そうだ」
袋の口を締めながら、思い出す。
「すみません、帰還の記録がまだでした。少し待っていてもらえますか」
「はーい。いってらっしゃーい」
いつもより何倍も機嫌のいい「いってらっしゃい」に送られて、カイはギルドの中へ引き返した。
担当の窓口では、イルゼがいつもと同じ姿勢で書類に向かっていた。
「アンファング、カイ・アッシュグレイ。本日の帰還を記録します」
羽根ペンが走る。
カイはカウンターの前で、少しだけ迷った。
外の騒ぎは、ここまで聞こえていただろうか。
イルゼの顔からは、まったく読めない。
「あの、イルゼさん」
「はい」
「二階層に下りても、いいと思いますか」
ペン先が止まった。
イルゼは返事をせずに、書類の束から数枚を抜き出す。
アンファングの記録だろう。
細い指が、紙の上の数字を一行ずつ下へなぞっていく。
その間、カイは黙って待った。
「ここ数日の記録を見る限り」
やがて、イルゼが口を開く。
「ここ数日は、一日も欠かさず入場しています。買い取りの数も、日ごとに増えています。担当として、二階層をお勧めしない理由は、現状ではありません」
「……本当ですか」
「記録の上では、です」
イルゼは書類を揃えて、束に戻した。
「ただし、最初は二階層に下りてすぐ、階段の近くにとどまってください。いつでも一階層へ引き返せる範囲で」
「はい」
「それから、二階層には群れで動く魔物がいます。一階層のヴュールラッテとは、群れ方が違います」
それだけ言うと、イルゼはもう羽根ペンを取り直していた。
どう違うのかは、言わない。
自分の目で確かめろ、ということなのかもしれない。
加護のない自分には、神様が胸元の紋様から読み取るような数字が何もない。
どれだけ強くなったのか、測るものさしがない。
それでも、この人は記録を見て判断してくれた。
毎日持ち帰った魔石の数を、一行ずつ、指でなぞって。
「ありがとうございます、イルゼさん」
「業務ですので」
顔も上げずに返されて、カイは小さく頭を下げた。
夜の塔の部屋で、ランプの火が小さく揺れている。
「明日から、二階層に下りようと思います」
寝台に腰かけて髪をほどいていたフィーネの手が、止まった。
ほんの一瞬だった。
眉が少しだけ下がって、琥珀色の目がカイを見る。
それから、ふっと笑った。
「そっか。イルゼちゃんは、なんて?」
「記録を見る限り、勧めない理由はない、と。最初は階段の近くにいるように言われました」
「ふーん。イルゼちゃん、ちゃんと見てくれてるんだねー」
フィーネは寝台からぴょんと飛び降りて、カイの前にしゃがみ込んだ。
人差し指を一本、カイの鼻先に突きつける。
「じゃあ、一個だけ約束ね。無理はしないこと!」
「……はい」
素直にうなずいていた。
扉の前に立っていた、あの朝のフィーネの顔を思い出す。
あの顔を、もう一度させたいとは思わない。
「よろしい!」
満足げにうなずいたフィーネが、今度は木箱のほうへ駆けていく。
ケープの内側から、口を紐で縛った小さな革袋を取り出した。
「じゃあ、お祝いの前祝いー」
「前祝い、ですか」
「二階層に行くお祝いの、前のお祝い! 帰りに屋台で買っといたんだー」
袋の口をほどくと、甘酸っぱい果物の匂いがふわりと広がる。
木箱の上の二つの器に、とろりとした赤い果実水が注がれていく。
一つを、カイに差し出した。
「はい、カイの分」
受け取った器は、まだ削り跡が指に引っかかる。
「かんぱーい!」
こつん、と。
木の器が、軽い音を立てた。
一口含むと、甘さの後から、少しだけ酸っぱさが追いかけてくる。
「おいしいでしょー?」
「……おいしいです」
「でしょー!」
ランプの火の中で、フィーネが器を両手で包んで笑っている。
果実水を飲み終えて、カイは窓の下の毛布にくるまった。
目を閉じても、なかなか眠気が来ない。
明日、あの階段を下りる。
一階層の通路の奥、三人組の背中が消えていった、あの暗がりの先へ。
群れで動く魔物。
どう違うのかは、まだ分からない。
木箱の上で、空になった二つの器が並んでいる。
寝台のほうから、フィーネの小さな鼻歌が聞こえてきた。
それがいつの間にか途切れて、静かな寝息に変わる頃。
カイも、ようやく眠りに落ちていった。




