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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
始まりのシャール

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第014話 群れ方

「無理はしないこと!」


柵の前で、フィーネが人差し指を立てた。


「はい。昨日、聞きました」


「昨日も言ったし、今日も言うのー。いってらっしゃい!」


「行ってきます」


門番に名前を告げて、石段を下りる。

背中に、いつもより長くフィーネの視線が刺さっている気がした。




一階層の通路を、奥へ奥へと進む。


湿った石の通路も、うっすら光る天井も、もう見慣れた景色だ。

途中でヴュールラッテを一匹片づけて、それきり寄り道はしない。


やがて、下り階段が見えてくる。


通路の奥、少しすぼまった所に口を開けた、石の段。

あの三人組の背中が、何度も吸い込まれていった暗がりだ。


一段目に足を乗せる前に、短剣の柄を握り直した。



段を下りきった瞬間、空気が変わった。


ひやりとする。

首筋を、冷たい手でなでられたような感じだ。


見上げると、天井が遠い。

一階層なら手を伸ばせば届きそうだった所が、ここでは大人二人分ほども上にある。

通路の幅も、倍近く広い。


一歩、踏み出してみる。


こつ、と靴底の音が、思ったよりずっと遠くまで響いていった。

響いた音が、どこかの壁に当たって返ってくる。


広い、ということは、逃げ場が多いということだと思っていた。

違う。

どこから何が来るのか、分からないということだ。


振り返る。


下りてきた階段が、ちゃんとそこにある。



階段の見える範囲を、壁伝いに少しずつ歩く。


途中で、二人組の冒険者が追い越していった。

迷いのない足取りで、そのまま広い通路の奥へ消えていく。


最初に出くわしたのは、見慣れた灰色の影だった。


ヴュールラッテだ。

二階層にもいるのか。


拍子抜けしたのと同時に、肩から少しだけ力が抜ける。

後ろ足が沈むのを待って、半歩ずれて、突く。

一階層と、やることは変わらない。


床に残った黒い石を拾い上げて、カイは手のひらの上で転がした。


大きい。


一階層のものより、一回りほど。

小指の先ほどだったのが、親指の先くらいはある。


これなら、買い取りの額も上がるはずだ。


袋に落とすと、ほかの石とぶつかって硬い音がした。


ただ、まだ「群れで動く魔物」には出会っていない。




唸り声が聞こえたのは、昼を少し過ぎた頃だった。


低く、喉の奥で転がすような音。

広い通路の先、光の届きにくい暗がりから。


短剣を構える。


暗がりから、それが歩み出てきた。


狼だ。


いや、狼にしては小さい。

膝より少し高いくらいの背丈に、くすんだ茶色の毛。

細長い鼻面の下で、黄ばんだ牙がのぞいている。


一頭。

その後ろから、二頭目。

三頭目。


三頭は横に並んだまま、ぴたりと足を止めた。


真ん中の一頭が、頭を低くする。


吠えた。


狭い一階層では聞いたことのない大きさの声が、高い天井にぶつかって、何重にもなって降ってくる。

耳の奥がびりびりと震えた。


来る。


短剣を、真ん中の一頭に向ける。

飛びかかってくるなら、こいつだ。

後ろ足を見ろ。沈んだら、ずれろ——。


真ん中の一頭は、吠え続けている。

なのに、踏み込んでこない。


なぜだ。


そう思った時、左の視界の端で、何かが動いた。



体当たりは、脇腹に来た。


息が詰まる。

足が床から浮いて、背中から石の床に叩きつけられた。

受け身を取ろうとついた右肘が、ごつ、と嫌な音を立てる。


床を転がった先で、もう一頭の爪が振り下ろされた。

とっさに身をよじる。

服の裾が、ざっくりと裂けた。


正面では、真ん中の一頭がまだ吠えている。


転がりながら、見えた。


左の壁沿いに一頭。

右の壁沿いに一頭。

二頭が、カイの背中側へ回り込もうとしている。


真ん中の一頭は、吠えるだけ。

吠えて、こちらの目を引きつけて。

その間に、残りの二頭が輪を閉じる。


——一階層のヴュールラッテとは、群れ方が違います。


イルゼの声が、頭の中で鳴った。


ヴュールラッテは、数で押してくる。

四方から、好き勝手に飛びかかってくる。


こいつらは違う。

囲みに来ている。


あの行き止まりで、ヴュールラッテに囲まれた日のことを思い出す。

囲まれてから、壁を探したのでは遅い。

囲まれる前に、輪のどこかを崩すしかない。


本命は、正面じゃない。



肘の痛みを無視して、床に手をついて跳ね起きる。


正面の一頭が、ひときわ大きく吠えた。


見ない。


右へ。

壁沿いに回り込もうとしていた一頭へ、こちらから踏み込む。


回り込む途中だった茶色い体が、一瞬だけ足を止めた。

こっちから来るとは思っていなかったのかもしれない。


その一頭が、身を沈める。

低い。

跳ぶ先は、カイの足元だ。


腰を落として、刃先を下に向ける。


飛び込んできた鼻面を、半歩ずれてかわす。

すれ違いざま、首の付け根に刃を突き入れた。


短い悲鳴を上げて、茶色の体が床を転がる。


次。


振り向くと、左の一頭はもう、カイの背中があった所まで来ていた。

間に合わない、と一瞬思う。


けれど、そいつの前足の運びが見えた。

右前足に体重が乗る。

左から、跳ぶ。


右へ、一歩。


牙が、さっきまで肩のあった空を噛んだ。

着地したところへ、脇腹めがけて短剣を突き出す。

浅い。

二度目で、深く入った。


二頭目が、動かなくなる。



残ったのは、正面の一頭だけだった。


吠え声が、止んでいる。


左右を見回すように、茶色の頭が揺れた。

そこには、もう仲間はいない。


一頭では、囲めない。


唸り声を上げて、まっすぐ突っ込んでくる。


さっきの二頭より、ずっと分かりやすい。

真正面からの、一直線の跳躍。


壁を背にする必要もない。

待って、引きつけて、ずれる。


ずっと吠え続けていた喉元に、刃が吸い込まれた。




広い通路に、自分の荒い息だけが響いている。


石の床に、黒い石が三つ。

ヴュールラッテのものより、さらに一回り大きい。


それを見下ろしているうちに、膝ががくがくと震え始めた。


今さらだ。

戦っている間は、少しも震えなかったのに。


壁に手をついて、立ったまま息を整える。

肘が、心臓の音に合わせてずきずきと疼く。

背中も痛い。

裂けた裾から、冷たい空気が入ってくる。


それでも、立っていられる。


短剣を目の前にかざしてみた。


欠けは、ない。

刃先から根元まで、研ぎ直してもらった時のままだ。


戦えた。


転ばされて、肘を打って、裾を裂かれて。

格好のいい勝ち方では、なかった。


三頭とも、自分で倒した。


前に一度、囲まれたことがあったからだ。

あの日、あの行き止まりで、囲まれるのがどういうことか、体で覚えた。

だから今日は、囲まれ方が分かった。



三つの魔石を拾い集めて、袋に落とす。


顔を上げると、広い通路が奥へ続いていた。


この先には、何があるのだろう。

あの三人組も、さっきの二人組も、迷わず奥へ進んでいった。

奥へ行けば、もっと魔物がいる。

この大きさの魔石が、もっと拾える。


足が、一歩、そちらへ向きかけた。


肘が、ずきりと鳴る。


無理はしないこと。

いつでも一階層へ引き返せる範囲で。


二つの声が、続けて聞こえた気がした。


前の自分なら、たぶん奥へ行っていた。

一つでも多く、と欲をかいて、マウアーアッセル一匹に夢中になって、刃を欠いたように。


「……ここで欲をかいたら、また扉の前に立たれるよな」


それは、ちょっと困る。


「よし。今日は、ここまで」


口に出した声が、高い天井に小さく響いて、消えた。



階段の近くでヴュールラッテをもう何匹か片づけてから、一階層へ戻る段に足をかける。




ギルドに戻ってきたのは、まだ日の高いうちだった。


買い取りの窓口に、魔石を並べる。


一階層のものと、二階層のもの。

大きさの違いは、並べてみると一目で分かる。


職員が石を一つずつ確かめて、硬貨を押し出してきた。


受け取った硬貨を袋に移すと、手のひらにずしりとした重さが残った。

一階層だけで一日を終えた日とは、袋の膨らみ方がまるで違う。



担当の窓口では、イルゼがいつものように羽根ペンを取った。


「アンファング、カイ・アッシュグレイ。本日の帰還を記録します。階層は」


「二階層です。階段の近くだけですが」


「承知しました」


ペン先が、紙の上を滑る。


「あの、それと。二階層で、群れの魔物と戦いました。三頭です。狼みたいな」


羽根ペンを持つ手はそのままに、イルゼは記録の欄の端へ視線を移した。

そこに、何かを短く書き添える。


「ケッセルヴォルフです」


「ケッセル……」


「ケッセルヴォルフ。二階層から出現します。三頭から四頭の群れで行動します」


それだけだった。

倒したのか、とも、怪我は、とも訊かれない。

イルゼはもう、次の欄に目を移している。


ケッセルヴォルフ。


口の中で、もう一度だけ繰り返した。

自分が倒した魔物の名前を、カイは今、初めて知った。




ギルドの外に出ると、いつもの段差の上で、フィーネが膝を抱えて待っていた。


「カイー! おかえ——」


手を振りかけたフィーネの声が、途中で止まる。


視線が、カイの裂けた裾に落ちた。

それから、右腕をかばうように体の脇につけている肘へ。


フィーネは段差を飛び降りると、まっすぐ駆けてきた。


「それ、どうしたの!? 裾、破れてる! 肘も! 痛いの!?」


「打っただけです。噛まれてはいません」


「打っただけって、打ったんでしょー!」


裾の裂け目をつまんで、フィーネが眉を寄せる。

それから、そっとカイの肘に指を添えた。

触れるか触れないかの、こわごわとした手つきで。


「血は、出てないね」


「はい」


「……ほんとに、無理してない?」


琥珀色の目が、まっすぐ見上げてくる。


少し迷った。


言わなくてもいいことかもしれない。

けれど、この人には、言っておきたかった。


「今日は」


言葉を探しながら、続ける。


「今日は、ちゃんと戦えた気がします」


フィーネが、ぱちりと瞬きをした。


眉は寄ったまま。

肘に添えた指も、離れないまま。


その顔が、ゆっくりとほころんでいく。


「……そっか」


「はい」


「そっかー。ちゃんと、戦えたんだ」


心配そうな目のまま、フィーネは嬉しそうに笑った。


「でも、帰ったら手当てね! それは絶対!」


「はい」


今度は、迷わずうなずけた。




塔への帰り道は、夕焼けに染まり始めていた。


並んで歩きながら、カイは頭の中で、昼の戦いをもう一度なぞっている。


真ん中の一頭が吠える。

その間に、左右の二頭が壁沿いに回り込む。


吠え声に目を奪われたから、横からの体当たりに気づかなかった。

なら、次は吠え声が聞こえた瞬間に、左右の壁を見ればいい。

回り込もうとする一頭を、輪が閉じる前に崩せばいい。


次は、転ばされる前に気づける。


たぶん。

いや、きっと。


「手当て、手当てー。帰ったら、手当てー」


隣で、フィーネが歌うように繰り返している。

妙な節がついていて、道行く人がちらりと振り返る。


「神様、それ、歌にしなくても」


「だって、忘れないようにだよー。カイ、すぐ大丈夫って言うんだもん」


返す言葉がなかった。


肘はまだ痛む。

背中も、明日の朝にはきっと青くなっているだろう。


それでも、明日もあの階段を下りるつもりでいる。


袋の中で、大きくなった魔石が、歩くたびにことりと鳴った。

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