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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
始まりのシャール

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第015話 銀貨一枚の使い道

二階層に下りるようになって、数日が過ぎた。


階段の近くで狩るのにも、少しずつ慣れてきている。

ケッセルヴォルフの吠え声が聞こえたら、まず左右の壁を見る。

それを覚えてからは、一度も転ばされていない。


稼ぎも、一階層だけの頃よりは落ち着いてきた。

明日のパン代を指で数えずに済む日が、少しずつ増えている。




夜の塔の部屋で、カイは路銀袋の隠しを探った。


指先に、一枚だけ別にしてある硬貨が触れる。


取り出して、ランプの火にかざす。

初めて一日で稼いだ、あの銀貨だ。


いざという時のために、と取っておいた。

刃こぼれした時のため。

潜れない日が続いた時のため。


けれど、ここ数日の稼ぎなら、この一枚がなくてもどうにかやっていける。


だったら。


寝台のほうに目をやる。

フィーネは毛布の上に寝転がって、足をぱたぱたさせながら鼻歌を歌っている。


毎朝、柵の前まで送ってくれる。

毎夕、段差の上で待っていてくれる。

傷を拭いて、布を巻きすぎて、果実水を買ってきて、木の器を二つ並べて。


この街に来てから、自分はこの人に、何かを返せただろうか。


串焼きを一本。

それきりだ。


銀貨を握り込んで、カイは一人でうなずいた。




次の日の帰り道。


夕焼けの大通りを並んで歩きながら、カイは何度か口を開きかけては、閉じた。


「カイ、どうしたのー? さっきから金魚みたいになってるよー」


「……神様」


「んー?」


「今日の夕飯、外で食べませんか」


フィーネの足が、ぴたりと止まった。


「……外で?」


「はい。その、いつもお世話になっているので。お礼というか」


目がまんまるになる。

それから、みるみるうちに輝きだした。


「えっ、ほんとに!? 外で!? カイと!? 行く行く、行くー!」


その場でぴょんぴょん跳ねるので、すれ違った荷車の男がぎょっとして振り返った。




ギルドからの帰り道に、いつも冒険者が出入りしている飯屋がある。


入ったことはない。

けれど、前を通るたびに、肉と香草の焼ける匂いが鼻をくすぐっていた。


「ここ、いっつもいい匂いするよねー。入ったことないけど!」


フィーネが、扉の上の古びた看板を見上げる。


扉を押した瞬間、熱気と声が一緒になって押し寄せてきた。


広い店内に、長い卓がいくつも並んでいる。

その全部が、迷宮帰りらしい冒険者たちで埋まっていた。

笑い声、皿の鳴る音、どこかの卓の乾杯。

奥の厨房からは、湯気と油のはぜる音が絶え間なく流れてくる。


思わず、一歩下がりかけた。


「いらっしゃい! 二人?」


帳場の向こうから、よく通る声が飛んでくる。


カイと同じ年頃の、少し年上に見える娘だった。

片手で客の勘定を受け取り、もう片方の手で次の客を席へ指さしながら、こちらにも目を向けている。


「は、はい。二人です」


「奥の壁際なら空いてるよ。注文は? 先にお代ね」


壁に掛かった品書きを見上げる。

読める字と、読めない料理の名前が並んでいる。


その中に、「日替わり」の文字と値段を見つけた。


頭の中で、そっと計算する。


二皿で、ちょうど銀貨一枚。


「日替わりを、二つお願いします」


路銀袋の隠しから、銀貨を取り出す。

帳場に置く指先に、少しだけ力が入った。


娘は銀貨をつまみ上げて、ちらりとフィーネを見た。


「あれ。あんたの連れ、街外れの塔の神様じゃない?」


「そうだよー。こんばんはー」


「どうも、いつも前を通ってますよね」


娘は商売用の笑顔のまま、銀貨をきっちりと銭箱にしまった。


「はい、確かに。日替わり二つ!」




壁際の席に、向かい合って座った。


カイは店の入り口が見えるほうを選んだ。

背中に、壁の固さが当たる。


「おう! 日替わり二丁、上がったぞ!」


厨房から、腹の底に響くような声がした。


のっしのっしと出てきたのは、岩のような大男だった。

太い腕に皿を二枚ずつ乗せ、客の間を器用にすり抜けてくる。


どん、と目の前に置かれた皿を見て、カイは固まった。


山だった。


焼いた肉が、皿の縁からはみ出している。

その下に、芋と豆の煮込みが、これでもかと盛られている。

添えられたパンは、拳二つ分はありそうだ。


「あの、これ、日替わり……ですよね」


「おう、日替わりだ。食え食え、坊主。冷めたらもったいねえぞ」


「父さん!」


帳場から、さっきの娘の声が飛んできた。


「その皿、私がもう多めにしてあったでしょ! なんでまた足してるの!」


「ああ? 細っこいのが来たから、足したんだよ」


「足したら損でしょ! ちょっと、声も大きい!」


「お前の声のほうがでけえだろうが!」


店の常連らしい冒険者たちが、げらげらと笑っている。

いつものことらしい。


フィーネはといえば、皿の山を前に、目をきらきらさせていた。


「いただきまーす!」


肉を一切れ、口に運ぶ。


ぴたり、と動きが止まった。


「……んー!」


頬を押さえて、足をばたばたさせる。

飲み込むより先に、もう次の一切れにフォークが伸びている。


「カイ、これ、すっごいおいしい! お肉がね、外がかりっとしてて、中がじゅわーって!」


「はい」


「お芋もおいしい! 豆もおいしい! 全部おいしいー!」


口の端に煮込みの汁をつけたまま、フィーネは本当に、全部を順番においしそうに食べていく。

パンをちぎって汁に浸しては、目を細める。

一口ごとに、幸せそうな声が漏れる。


カイも、自分の肉にかじりついた。


うまい。

塔の部屋で食べる硬いパンとは、比べものにならない。


けれど、それよりも。


向かいで、頬をいっぱいにふくらませているフィーネの顔のほうが、ずっと目に残った。


銀貨一枚。

使ってよかった。




「やあ。ちょっと、味を見てもらえるかな」


皿が半分ほど減った頃、穏やかな声が降ってきた。


卓の脇に、四十くらいに見える男が立っている。

手には、湯気の立つ小鉢がいくつも乗った盆。

前掛けをしているが、客をさばく店の者とは、どこか雰囲気が違う。


「今日はいい豆が入ってね。燻した果物と一緒に煮てみたんだ。よかったら」


差し出された小鉢を、カイとフィーネは一つずつ受け取った。


匙ですくって、口に入れる。


……なんだろう、これは。


甘いような、煙たいような。

豆の味が、どこにも見当たらない。


フィーネも、匙をくわえたまま首をかしげている。


男も、自分の小鉢を一口すくって、口に運んだ。


もぐ、と一度だけ噛む。


「……駄目だ、これは」


誰よりも先に、そう言った。


「燻しが強すぎる。果物の皮まで燻したのが間違いだ。煙が豆の甘さを全部上から塗りつぶしてしまっている。火から下ろすのも遅い。二つ間違えると、こうなる」


さっきまでのゆったりした話し方が嘘のように、早口で言い切る。


「すまないね、下げるよ。これは私が全部片づけるから——」


「ラウホ!」


厨房から、雷のような声が落ちてきた。


「てめえ、また勝手に俺の鍋使いやがったな! 得体の知れねえもん煮込むんじゃねえ!」


「いや、ブルーノ。今日の豆は本当に良くて」


「豆が良くても、てめえが煮たら台無しだろうが!」


「父さんも、ラウホ様も!」


帳場の娘が、両手を腰に当てて割って入った。


「二人とも、お客さんの前で騒がない! ラウホ様は、厨房のものを使う時は先に言う! 父さんは、声!」


大男と穏やかな男が、そろって口をつぐむ。


カイは、匙を持ったまま瞬きをした。


「ラウホ……様?」


娘が、こちらを振り返る。


「あ、言ってなかったっけ。この人、うちの主神。私たち、店のみんな、ラウホ様の眷属なの。この店ごと、シャールってわけ」


「店ごと、ですか」


「そ。ターフェルっていうの。ちなみに私はロッテ。厨房のでかいのが、父さんのブルーノ」


鍛冶やポーションのシャールがあるのは知っていた。

けれど、飯屋まで。

この街には、そういう形もあるのか。


ラウホと呼ばれた男は、下げた小鉢を盆に戻しながら、フィーネに目を向けた。


「君は、塔の神様だったね。前をよく通っているのを見かける」


「うん、フィーネだよー。ここ、いっつもいい匂いするから、ずっと気になってたんだー」


「それは光栄だ。日替わりは、どうだい」


「すっごくおいしい! さっきのは、ちょっとあれだったけど」


「あれは忘れてくれ」


ラウホは苦笑して、肩をすくめた。


「料理は私の道楽でね。店の仕事とは別だよ。食べたいものを、食べたい時に作る。……だから、外れる時は盛大に外れる」


それだけ言うと、ラウホは盆を持って、隣の卓へ味見を勧めに行ってしまった。


神様同士の会話にしては、あまりにも普通だ。

欠陥品の、という言葉は、どこにも出てこなかった。




「いやー、いい食べっぷりだねえ、二人とも」


空になった皿を、ひょいと横から持ち上げる手があった。


振り向くと、二十代半ばくらいの女の人が、からっとした笑顔で立っていた。

袖をまくった腕は、引き締まっている。


「特にそっちの神様。見てて気持ちよかったよ。親父さんも喜ぶさ」


「えへへー。だって、おいしかったもん」


「だろ?」


女の人は、皿を重ねながら笑う。


その目が、ふとカイの手に落ちた。


笑った顔は、そのままだった。

けれど、目だけが、すっと細くなる。


「あんた、迷宮に潜り始めて、まだ日が浅いだろ」


「……え」


「手のひら。豆がまだ新しい。潰れて、治りかけて、また潰れてる。握り方を誰にも直されてない手だ」


思わず、自分の右手を見下ろす。


「それに、その席」


女の人は、顎で壁を示した。


「店に入ってきた時、迷わず壁を背にして、入り口が見えるほうに座ったね。後ろを取られるのが怖い。それも、誰かに教わったんじゃなくて、一度痛い目を見て覚えたやつだ」


ヴュールラッテに囲まれた、あの行き止まりが頭をよぎる。


「仲間がいりゃ、背中は仲間に預ける。だから、そういう座り方はしない。……違うかい?」


言葉が出なかった。


何も言っていない。

迷宮の話など、一言もしていないのに。


「……違わない、です。シャールの眷属は俺一人で、迷宮にも、一人で入っています」


「私の眷属です!」


隣で、フィーネが胸を張った。


「カイっていうの。私のたった一人の眷属で、すっごく頑張ってるんだよー!」


「神様、それは今、言わなくても」


「言うのー!」


女の人は、一瞬だけ笑みを消した。


一人で、と、口の中で繰り返したように見えた。


「誰かに、戦い方を教わったことは?」


「ありません。村では、畑を耕していただけなので」


「そっか」


女の人は、重ねた皿を卓の端に置いた。


「あたしはヴィルマ。今はここで皿を運んでるけど、昔は潜ってたのさ。冒険者ってやつ」


「冒険者、だったんですか」


「昔の話さ。……で、だ」


ヴィルマは、卓に片手をついて、カイの顔をのぞき込んだ。


「一人で潜るのに、誰にも教わってないってのは、危なっかしすぎる。あたしでよけりゃ、少しくらいなら教えてやれるよ」


「え……」


「坊主」


厨房の奥から、声がした。


さっきまで店中に響き渡っていたのと、同じ声とは思えない。

低く、静かな声だった。


「稼ぐのは後回しでいい。帰ってくるやり方を、先に覚えろ」


ブルーノは、それだけ言って鍋に向き直った。


ヴィルマが、ほんの一瞬だけ黙った。

厨房のほうへ向けた横顔から、笑みが消えている。


けれど、次に振り向いた時には、もう元のからっとした顔に戻っていた。


「親父さんも、ああ言ってるしさ」


「でも、俺はアンファングの眷属で、ヴィルマさんはこちらのシャールの方ですよね。教えてもらっても、いいんでしょうか」


「うちの客なら、いいんじゃないか」


隣の卓から、のんびりした声が返ってきた。

ラウホが、別の客に小鉢を差し出しながら、こちらを見もせずに言う。


「主神様のお墨付きだ。決まりだね」


ヴィルマが、にっと笑う。


カイは、椅子から立ち上がって、深く頭を下げた。


「よろしくお願いします」


「よかったね、カイ! よかったねー!」


フィーネが、自分のことのように手を叩いている。


ヴィルマは重ねた皿を持ち上げて、肩越しに言った。


「明日から、店じまいの後に裏へおいで。腹ごなしにはちょうどいいだろ?」




店を出ると、外はすっかり夜になっていた。


通りのランプが、石畳を橙色に照らしている。

後ろの扉の向こうから、まだ笑い声が漏れてくる。


「おいしかったねー」


フィーネが、お腹をさすりながら言った。


「はい」


「お肉、おいしかったねー」


「はい」


「お芋も、豆も、パンも、おいしかったねー」


「はい。……さっきから、それ何回目ですか」


「だって、おいしかったんだもん」


ふにゃりと笑って、フィーネは夜空を見上げた。


「ああいうお店で、誰かと一緒にごはん食べたの、初めてだったなー」


「そうなんですか」


「うん。楽しかったー」


それきり、フィーネはまた鼻歌を歌い始めた。


カイは、腰の路銀袋に手をやった。


隠しの中は、空っぽになっている。

指先に触れるものは、もう何もない。


けれど、惜しいとは少しも思わなかった。


明日から、店じまいの後に裏へ。


ヴィルマの声が、まだ耳に残っている。


教わる。

誰かに、戦い方を。


この街に来て初めて、迷宮の外で、前に進む道が一本増えた気がした。

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