第016話 数週間
ターフェルの裏手は、樽と木箱に囲まれた狭い空き地だった。
軒先に吊るしたランプが一つ、地面に丸い明かりを落としている。
表の喧騒が嘘のように静かで、聞こえるのは厨房の裏口から漏れる、皿を洗う水音くらいだ。
「がんばれー、カイー!」
木箱の上から、フィーネの声が飛んでくる。
膝の上には、ロッテが「余り物だから」と置いていった焼き菓子の皿。
「はいはい、にぎやかな見物人だね」
ヴィルマが笑って、手にした棒切れを肩に担いだ。
ただの薪の切れ端に見える。
「じゃ、構えてみな。いつも潜ってる時みたいに」
カイは短剣を抜いて、構えた。
「来な」
床を蹴って、短剣を突き出す。
切っ先が届くより先に、ヴィルマの体がひょいと横へ流れた。
空を突いたカイの脇腹を、棒の先がこつんと叩く。
「もう一回」
今度は、さっきより低く踏み込んだ。
それでも、手首を軽く払われただけで、刃先はあらぬ方へ逸れていく。
三度目は、踏み込んだ右足の甲を、上から棒でつつかれた。
慌てて足を引こうとして、引けないことに気づく。
体の重さが、全部その一本に乗ってしまっている。
「はい、そこまで」
ヴィルマは棒切れを下ろして、カイの足元を指さした。
「足が地面に張りついてる。踏み込んだら、それっきり戻れない。避けられたら、次の一歩が出ないだろ?」
言われてみれば、その通りだ。
突いた後、いつも体が前に流れて、立て直すのに一呼吸かかっている。
「それと、目。相手を追いすぎ。あたしの棒を目で追って、体ごと引っ張られてる」
「……全部、見えてたんですか」
「三回もやりゃね」
ヴィルマは、自分の足で地面を軽く叩いてみせた。
「踏み込んだら、すぐ戻れるところに足を置く。突くのは、その後。ほら、足だけやってみな」
短剣を構えたまま、右足を一歩、前へ出す。
体重を乗せきらないうちに、つま先で地面を押して、元の位置へ引き戻す。
言葉にすればそれだけのことが、やってみると思うようにいかない。
何度目かで膝が伸びきって体が前に残り、すねを棒でぴしゃりとはたかれた。
「戻りが遅い。前に出る時に、もう戻ることを考えときな」
戻ることを考えながら、前に出る。
頭では分かっても、足がなかなか言うことを聞かない。
ランプの下で同じ動きをなぞるうちに、シャツが背中に張りつき、額から落ちた汗が地面に小さな染みを作っていった。
それでも、終わる頃には、踏み込んだ右足が半拍だけ早く戻ってくるようになっていた。
「カイ、すごーい! なんか、さっきと全然ちがーう!」
「どこが違うか、言えるかい?」
「えっ。……なんとなく!」
「だろうね」
ヴィルマが、からからと笑った。
それから数日後の夜、ヴィルマは棒切れを木箱に立てかけて言った。
「今日は、一番大事な話をするよ」
カイは短剣を下ろした。
構えも足運びも、まだ形になりかけたところだ。
「引き際。いつ帰るか、だ」
ヴィルマは、カイの顔をまっすぐ見た。
いつものからっとした笑みが、少しだけ奥に引っ込んでいる。
「勝てそうだから続ける、ってのは、駄目な考え方さ。帰り道の分まで、自分に残ってるか。それだけで決めな」
「帰り道の分……」
「そ。で、それを測るのに、体の合図を三つ覚えておくんだ」
ヴィルマは、指を一本立てた。
「一つ目、呼吸。立ち止まっても、息が戻ってこなくなったら」
続けて、中指を起こす。
「二つ目、足。階段を見て、上るのが億劫だな、と思ったら」
「三つ目、刃。短剣が、さっきより重く感じたら」
立てた三本の指が、カイの目の前に突きつけられる。
「一つでも出たら、その日はそこで終わり。どんなに稼げそうでも、だ。……それと、もう一つ」
「はい」
「まだいける、と思ったら。その時が、帰る時さ」
呼吸と、足と、刃。
カイは、ヴィルマの三本の指を見つめたまま、その三つを口の中で一度ずつなぞった。
「……ヴィルマさんは、それを誰に教わったんですか」
「ん? 昔、ちょっとね」
ヴィルマは、笑ってはぐらかした。
その目が、ほんの一瞬だけ、厨房の裏口のほうへ流れる。
中から、ブルーノが鍋を洗う音がしていた。
「さ、足運び。今日はあと百回ね」
「ひゃ……はい」
そうして、日々が回り始めた。
昼は迷宮に潜って、帰りにギルドで魔石を売る。
夜はターフェルで夕飯をすませ、店じまいを待って、裏でヴィルマに足運びを見てもらう。
塔に帰り着く頃にはくたくたで、毛布にくるまったと思ったら、もう窓の外が白んでいる。
ヴィルマに直された足運びは、迷宮で少しずつ効いてきた。
ケッセルヴォルフに刃を突き入れた後、前に流れかけた体を、右足一本で引き戻せる。
そのわずかな間があるだけで、二頭目に背中へ回り込まれる前に向き直れる。
二階層の、階段から見えない奥のほうへも、少しずつ足を延ばせるようになっている。
三つの合図は、毎日守った。
息が戻りにくくなったら、その日はそこで帰る。
日々の飯代と短剣の手入れ代は、もう稼ぎの中からまかなえる。
路銀袋の底を指で探る癖も、いつの間にか出なくなっている。
ターフェルの帳場で「いつもの」と言えば、日替わりが出てくる。
それも、もう当たり前のことになった。
「あんた、その裾。縫い目がひどいことになってるよ」
勘定を受け取りながら、ロッテがカイの足元をあごで指した。
ケッセルヴォルフの爪に裂かれた所を、塔の部屋で自分で縫い合わせた跡だ。
糸が波打っていて、我ながら見られたものではない。
「……自分で縫ったので」
「見れば分かるわよ。今度ヴィルマに縫い方も教わりなさい。剣より先に」
それから、日替わりの皿の端に、パンを一つ余分に乗せる。
「お代はもらったけど、それは数に入ってないから」
「……ありがとうございます」
「お礼はいいの。冷めないうちに食べて」
一つ年上だからと、ロッテは何かにつけてカイの身なりに口を出してくる。
「今日のも、頼めるかな」
穏やかな声とともに、小鉢が卓の上に置かれる。
ラウホの気まぐれな一皿の味見役は、いつの間にかカイの役目になっている。
匙ですくって、口に入れる。
「……おいしいです。でも、最後に少し、苦いのが残ります」
「どのあたりで?」
「飲み込んだ、後です」
ラウホは、ふむ、と顎に手を当てた。
「焦がした皮だな。……君の舌は、まったく嘘をつかないね」
面白がるように笑って、小鉢を下げていく。
当たりの日もあれば、一口目で匙が止まる日もある。
どちらの日も、ラウホは楽しそうだった。
フィーネも、時々一緒に来た。
来れば決まって、日替わりの皿を前に目を輝かせる。
肉を頬張っては足をばたつかせ、煮込みの汁を最後の一滴までパンで拭う。
そのたびに、厨房のブルーノが満足げに鼻を鳴らしている。
ある日の夕方、ギルドの窓口に立つと、イルゼの手元にはもう、アンファングの書類が一枚、用意されていた。
「アンファング、カイ・アッシュグレイ。本日の帰還を記録します」
羽根ペンは、すでにインクを含んでいる。
あれ、と思った。
前は、束の中から探していたような気がする。
けれど、イルゼの顔はいつも通りで、何も変わったところはない。
たまたま、上のほうにあったのだろう。
カイはそれ以上考えずに、今日の階層を告げた。
短剣の握りの革は、いつの間にか、カイの指の形に沿って擦れていた。
朝の空気が、少しだけ冷たくなっている。
「合図を守れるなら、三階層の入り口までは、いいよ」
ある晩、足運びの百回を終えたところで、ヴィルマが言った。
「入り口まで、ですか」
「階段の見える所まで。で、合図が一つでも出たら、即、上がる。守れるかい?」
「守ります」
「よし」
翌日、カイは二階層の奥の階段を下りた。
三階層の空気は、二階層よりもさらに重かった。
暗い。
壁や天井の光はところどころで途切れ、湿った土の匂いが喉の奥に張りつく。
自分の足音が、響かずに、どこかへ吸い込まれていく。
最初に出てきたのは、ケッセルヴォルフだった。
二階層で見たものより、一回り体が大きい。
三頭のうち一頭が足を止めて吠え、残りの二頭が左右の壁際へ散っていく。
吠える一頭には目もくれず、右の壁沿いを回り込もうとする一頭へ、先に踏み込んだ。
体が大きいぶん、跳ぶ前の溜めも長い。
沈んだ肩の下へ刃を差し入れ、引き抜いた勢いのまま、右足で地面を押して下がる。
体が前に残らない。
裏の空き地で何度もすねをはたかれた足が、ひとりでに元の位置へ戻ってきていた。
左から来た二頭目に、向き直る間が、ちゃんとある。
それから何度か群れを相手にして、袋の中の魔石が少しずつ重なっていった。
膝に手をついたところで、ふと気づく。
息が、戻ってこない。
立ち止まってから、もうしばらく経つのに、肩がまだ上下している。
まだ、やれる気がした。
腕にも力は残っているし、短剣も重くない。
——まだいける、と思ったら。
カイは、背を伸ばした。
その時が、帰る時だ。
階段に足をかけて、上り始める。
腿には、まだ重さが来ていない。
この分なら、地上まで余裕を持って帰り着けるだろう。
ちょうどよかった。
三階層に立って、ちゃんと帰ってこられる。
それが、何よりの手応えだ。
その夜、ターフェルは閉店間際で、客はまばらだった。
フィーネは日替わりを平らげると、眠くなったと言って一足先に塔へ帰っている。
「三階層、行ってきました。入り口までですけど」
帳場の近くで報告すると、ヴィルマが皿を拭く手を止めて、にっと笑う。
「合図は?」
「息が戻らなくなったので、帰りました」
「上出来」
「お、坊主、三階層か」
カウンターの端で酒を飲んでいた冒険者が、気安く声をかけてきた。
店で何度か見かけたことのある、髭面の男だ。
「そりゃ大したもんだ。主神様も、さぞ加護の伸びを喜んでるだろ」
カイは、少しだけ迷った。
隠していたつもりはない。
ただ、ここで話す機会がなかっただけだ。
「いえ。俺には、加護がないんです」
店の中が、しん、とした。
男の手が、酒杯を持ったまま止まっている。
「……加護なしで、三階層まで?」
からかう響きは、どこにもなかった。
ただ、目を丸くしている。
「あんた」
帳場から、ロッテの呆れた声が飛んできた。
「そういうことは、先に言いなさいよ。毎日うちでご飯食べてたくせに」
「すみません。言う機会が、なくて」
厨房の奥から、のしのしと足音がした。
ブルーノが、無言で皿を一枚、カイの前に置く。
焼いた肉が、山盛りになっている。
「あの、もう夕飯は」
ブルーノは何も言わずに、厨房へ戻っていった。
「なるほど。それで、あの舌か」
奥の卓で茶をすすっていたラウホが、のんびりと言った。
「ラウホ様、加護と舌は関係ないでしょ」
「そうかな。そうかもしれない」
ヴィルマだけが、黙っていた。
笑みが消えて、カイの顔を、まっすぐに見ている。
ほんの、一呼吸か二呼吸。
それから、ふっと、いつもの顔に戻った。
「なら、なおさら合図は守りな」
それだけ言って、また皿を拭き始める。
カイは、山盛りの皿を前に、どう返していいか分からないまま、小さく頭を下げた。
夜の塔の部屋は、相変わらずだった。
ランプの火が照らすのは、壁際の寝台と、窓の下に敷いた毛布と、木箱が一つ。
その木箱の上に、木の器が二つ並んでいる。
フィーネが初めてここへ連れてきてくれた夜から、部屋の中で変わったのは、その器くらいのものだ。
「でねー、今日のお肉、いつもとたれが違ったの! ちょっと甘くて、なんか、果物みたいな」
毛布にくるまったフィーネが、寝台の上から今日の皿の話をしている。
寝台に入ってからずっと、この話ばかりだ。
「明日も行くー。ブルーノさんに、たれのこと聞くんだー」
「はい」
相づちを打ちながら、カイは天井を見上げた。
飯代のことは、もう心配しなくていい。
短剣を研ぎに出す銀貨も、袋の底を探らずに出せる。
店じまいの後には、棒切れを持ったヴィルマが裏で待っていてくれる。
朝は柵の前で送り出され、夕方には段差の上で手を振られる。
これで、十分だ。
窓の外では、夜の街の灯りが、静かにまたたいている。
フィーネの話し声が、少しずつ途切れがちになって、やがて寝息に変わった。
カイも、目を閉じた。




