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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
始まりのシャール

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第017話 隣の卓

目を覚ますと、窓の外はもう明るかった。


毛布にくるまったまま、天井の梁を眺める。

今日は、迷宮に潜らない日だ。

七日に一度は、何があっても休むこと。

ヴィルマの指南を受けると決めた時に、最初に言い渡された約束事の一つだ。


寝台のほうから、ごそごそと物音がする。


「カイ、おはよー。私ね、今日はちょっと頼まれごとがあってー」


フィーネはもう身支度を済ませて、片方だけの髪飾りを留め直していた。


「夕方には帰るからね。お留守番、よろしくー」


「はい。いってらっしゃい」


何の頼まれごとなのかは、聞かなかった。

フィーネが街のあちこちで何かと頼られているのは、もう知っている。


「いってきまーす!」


軽い足音が、塔の階段をぱたぱたと下りていく。

いつもとは逆だな、と思って、少しおかしくなった。

毎朝送り出されているのは、カイのほうだ。


一人になった部屋で、短剣の手入れをした。

刃に油を引いて、布で拭う。

握りの革の擦れ具合を、指でなぞって確かめる。

研ぎに出すほどの欠けは、どこにもない。


それが済むと、やることがなくなった。


窓から街を見下ろす。

秋の日差しが、屋根の連なりを白っぽく照らしている。

迷宮に潜らない昼は、ずいぶん長い。


腹が鳴った。


そういえば、昼のターフェルには、まだ一度も行ったことがない。




昼のターフェルは、夜とはまるで別の店だった。


迷宮帰りの冒険者の、汗と土の匂いがしない。

卓を埋めているのは、前掛けをつけたままの職人や、買い物籠を足元に置いた女たち、杖を椅子に立てかけた年寄りだ。

大声で笑う者もいなければ、酒杯を打ち鳴らす者もいない。

皿と匙の触れ合う音が、店中でのんびりと鳴っている。


「あれ、カイ?」


帳場のロッテが、勘定の手を止めて目を瞬いた。


「珍しい。今日は休み?」


「はい。七日に一度の」


「ああ、ヴィルマとの約束ね。いつもの?」


「お願いします」


「はーい。奥の隅なら空いてるから、そこ座って」


言われた席は、壁際の一番奥だった。


「ロッテ! 煮込み三つ、上がったぞ!」


「聞こえてる!」


厨房からの大声に怒鳴り返して、ロッテはもう次の客の相手に戻っている。


店の中を見回しても、知った顔は一つもない。

夜の常連の冒険者たちは、今ごろ迷宮の中だ。

カイが加護なしだと聞いて目を丸くした髭面の男も、ここにはいない。

誰もこちらを見ないし、誰も声をかけてこない。


奥の卓では、ラウホが年寄りの客に小鉢を差し出して、何やら熱心に話し込んでいた。

今日の味見役は、あちらに回ったらしい。


運ばれてきた日替わりは、昼も夜も変わらず山盛りだった。

匙で煮込みをすくって、口に運ぶ。

窓から入る日差しが、卓の木目をあたたかく照らしている。


悪くない。

たまには、こういう昼も。


隣の卓には、年寄りが三人座っていた。

杖をついてきた白髪の老人と、膝に籠を乗せた小柄な老婆と、腕まくりをした恰幅のいい老人。

顔なじみ同士らしく、さっきから天気だの腰の具合だのと、とりとめのない話を続けている。

言葉の端々に、この街で長く暮らしてきた人の気安さがにじむ。



「そういや、聞いたかい」


籠の老婆が、少しだけ声をひそめた。


「街外れの塔の神様。眷属ができたんだってさ」


匙が、止まった。


「聞いた聞いた。孫が言ってたよ。神様が、男の子を連れて歩いてたって」


「よかったねえ、ほんとに」


杖の老人が、しみじみと目を細める。


「うちの死んだ親父がな、よく言ってたんだ。塔の神様は、いつ見ても誰も連れてないって。親父の代から、ずっとだよ」


「ねえ。やっと、だよ」


カイは、皿に目を落とした。

口の端が、勝手にゆるみそうになる。


(……よかった、って)


自分が褒められたわけでもないのに、耳の後ろがくすぐったい。


「でもねえ」


恰幅のいい老人が、腕を組んだ。


「この前、塔の前を通ったんだがね。相変わらず、あの塔の上に住んでるんだよ。前と、なんにも変わっちゃいない」


「眷属ができたら、普通はもうちょっとましな所に越すもんだろうにねえ」


「神様ってのは、眷属に養ってもらうもんだからな」


「その眷属の子が、まだ駆け出しらしいのさ。稼ぎも、まだまだだって」


老婆が、籠の持ち手をそっと撫でる。


「やっとシャールができたってのに、あれじゃあ、前と同じじゃないか」


「……気の毒になあ」


杖の老人が、長いため息をついた。


匙を持った手が、動かない。


煮込みの湯気が、少しずつ細くなっていく。


「それより、芋だよ。また値が上がっててさあ」


「ああ、今年は長雨だったからなあ」


話は、もう別のところへ移っていた。

三人とも、隣の卓に座っているのが誰なのか、気にも留めていない。

留める理由が、そもそもないのだ。


頭の中で、何日か前の夜に数えたものが、ひとつずつ並び直していく。


飯代のことは、もう心配しなくていい。

短剣を研ぎに出す銀貨も、袋の底を探らずに出せる。

店じまいの後には、ヴィルマが裏で待っていてくれる。


これで十分だ、と思った。


……誰にとって?


飯代は、自分の腹を満たすための金だ。

研ぎ代は、自分の短剣のための金だ。

ヴィルマに教わっているのも、自分が生きて帰るためだ。

指を折って数えたものは、どれもこれも、自分のための数でしかない。


フィーネの暮らしは、出会った日から、何一つ変わっていない。


不意に、村の広場がよみがえった。


入れ替わり立ち替わり、肩を叩いて笑いかけてくれた大人たち。

カイに気づいた途端、声を落とした子どもたち。

誰も、責めはしなかった。

それでも、どの目も、少しだけ気の毒そうで、遠慮がちだった。


あの目を、今度はフィーネが向けられている。


自分のせいで。



皿には、まだ半分以上残っていた。


煮込みはすっかりぬるくなって、表面にうっすらと脂が浮いている。

匙を握り直し、一口ずつ、黙って口に運んだ。

ターフェルの皿は、残さない。

味は、ほとんど分からない。

最後のひとかけのパンで皿を拭ってから、ようやく席を立つ。


「ごちそうさまでした」


帳場で勘定を済ませようとすると、ロッテが顔を上げて、そのまま眉を寄せた。


「……何。今日の、口に合わなかった?」


「え?」


「すっごい顔して食べてたわよ、あんた。ここから見えてたんだから」


「おいしかったです」


笑ってみせる。

ちゃんと笑えているかどうかは、自分では分からない。


「何でもないです。ちょっと、考えごとをしてただけで」


ロッテは、何か言いたそうに口を開きかけた。


「ロッテちゃん、お勘定お願い!」


「はーい、ただいま!」


入り口のほうからかかった声に、ロッテは振り返りざま、もう一度だけカイの顔を見る。

小さく首をかしげて、それから、呼ばれたほうへ小走りに去っていった。


昼下がりの通りは、人で賑わっていた。

荷車の軋む音に、呼び込みの声。どこかで子どもが笑っている。

その中を、塔のほうへ歩く。

すれ違う人の誰も、カイのことなど知らない。

それなのに、顔を上げて歩くことが、どうしてもできなかった。




夕方の塔の部屋は、相変わらずだった。


西日が照らすのは、壁際の寝台と、窓の下に敷いた毛布と、木箱が一つ。

その木箱の上に、木の器が二つ並んでいる。

フィーネが初めてここへ連れてきてくれた夜から、部屋の中で変わったのは、その器くらいのものだ。


数日前の夜と、何も違わない。

同じ部屋だ。

なのに、石の床から這い上がってくる冷えが、やけに足にこたえる。


「たっだいまー!」


階段を駆け上がる足音とともに、フィーネが戸口から顔を出した。

頬が、ほんのりと赤い。


「おかえりなさい」


「聞いてよカイー。今日行ったおばあちゃんちの猫がね、私の膝から全然降りてくれなくてさー。帰ろうとしたら足が痺れてて、立てなくて」


寝台にぽすんと腰を下ろして、フィーネはけらけらと笑う。


「そしたら、隣の家の子たちまで集まってきちゃって。猫と子どもに囲まれて、もう、大変だったんだからー」


ちっとも大変そうではない顔で、両手をぱたぱたと振っている。


「……楽しそうですね」


「うん、楽しかった!」


迷いのない返事だった。


それから、フィーネはふと窓のほうへ顔を向けた。


西の空が、橙色に染まり始めている。

街の屋根の向こうへ、日が沈んでいくところだ。


「ほら、見て見て。この時間のここからの眺め、街で一番なんだよー」


窓枠に頬杖をついて、フィーネは目を細める。


「下の通りの人たちは、こんなの見られないんだから。ちょっと得してるよね、私たち」


いつもなら、そうですね、と笑って隣に並べたはずの言葉だった。


今は、うまく聞こえない。

この部屋に、眷属の稼ぎで増えたものは一つもない。

それを分かっていて、明るく言ってくれているのではないだろうか。

自分が、気にしないように。


噂のことを話せば、きっとフィーネは笑う。

気にしないでよー、と、手をひらひら振って。

それが分かるから、言えなかった。


「……そうですね」


フィーネの隣に立って、窓の外へ目を向ける。

沈みかけた日が、やけに目にしみた。




夜。


寝台のほうから、フィーネの静かな寝息が聞こえてくる。


毛布にくるまったまま、カイは暗い天井に目を開けていた。


眠れない。


頭の中で、何度も同じ計算をなぞる。

今の稼ぎで回っているのは、自分の飯代と、短剣の手入れ代だけだ。

それ以上を稼ぐには、どうすればいいのか。


三階層は、まだ階段の見える所までしか行っていない。

もっと奥へ行けば、魔石は大きくなるはずだ。

一階層から二階層へ下りた時も、そうだった。

潜る時間を延ばせば、その分、数も増える。


けれど、ヴィルマの三本の指が、目の前に浮かぶ。


呼吸と、足と、刃。


一つでも出たら、その日はそこで終わり。


……そうだ。

合図を守ればいい。

息が戻らなくなったら、帰る。

階段が億劫に思えたら、帰る。

短剣が重くなったら、帰る。

裏を返せば、合図が出るまでは、まだ帰らなくていいということだ。


約束は、破らない。

守ったまま、その手前まで、やれるだけのことをやればいい。


筋は、通っている。

そう思えたところで、ようやく、胸のつかえが少しだけ下りた。




窓の外は、まだ薄暗かった。


音を立てないように毛布を畳み、短剣を腰に差す。

背負い袋の口を締めたところで、寝台の上の毛布がもぞりと動いた。


「……んぅ……カイ……? もう、朝ぁ……?」


「今日は、少し早く出ます」


「そっかぁ……」


毛布の端から、手だけがにゅっと出てくる。


「いってらっしゃいー……」


ひらひらと揺れる手に、小さく頭を下げた。


戸を閉めて、塔の階段を下りる。

冷えた石の段が、一段ごとに足音を返してくる。


合図が出るまでは、やれる。

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