第018話 まだ帰れる
ギルドの柵の前には、まだ人影もまばらだった。
一階層の通路を、足早に抜けていく。
飛びかかってくるヴュールラッテを払い、壁のマウアーアッセルには目もくれない。
二階層も、階段から階段へ、まっすぐに。
ケッセルヴォルフの群れを一度やり過ごしたきり、何にも出くわさずに三階層へ下りた。
三階層の空気は、相変わらず重い。
暗い。
壁の光はところどころで途切れ、湿った土の匂いが喉の奥に張りつく。
足音は、響く前にどこかへ吸い込まれていく。
いつもなら、階段の見えるこのあたりで引き返していた。
振り返ると、上り口の明かりが、薄闇の中にぼんやりと浮かんでいる。
階段の見える所まで、とヴィルマに言われたのは、初めて三階層に下りる前のことだ。
あれから何度も、合図を守って帰ってきた。
一本先の通路なら、走ればすぐに階段まで戻れる。
明かりに背を向けて、カイは一本先の通路へ足を踏み入れた。
通路の先は、足元がぬかるんでいた。
壁から染み出した水が、床のくぼみに泥だまりを作っている。
その泥が、ぼこりと盛り上がった。
這い出てきたのは、人の膝ほどもある、泥まみれのヒキガエルのような魔物だった。
濁った目玉が二つ、のっそりとこちらを向く。
跳んだ。
けれど、遅い。
後ろ脚が沈み込むのが、跳ぶずっと前から見えている。
横へ一歩ずれてかわし、すれ違いざまに脇腹へ刃を走らせる。
ぬるり、と。
手応えが、刃ごと横へ逃げた。
厚い皮の上を、ぬめりに乗って滑っただけだ。
残ったのは、浅い線が一本きり。
二度、三度。
斬りつけるたびに、刃先が泥の膜に取られて流れる。
握りまでぬめりが伝ってきて、そのたびに指へ力を込め直さなければならない。
相手は相変わらず鈍く、跳びかかりは何度でも見てからかわせる。
危なくはない。
ただ、終わらない。
同じ傷を何度もなぞるうちに、ようやく刃が皮の下まで沈んだ。
魔物の体が崩れて消え、泥の上に魔石が一つ残る。
拾い上げて、思わず手のひらで転がした。
大きい。
ケッセルヴォルフのものより、さらに一回り。
今まで見た中で、一番だ。
(時間はかかる。でも、危なくはない)
それで、この大きさなら。
魔石を袋に落として、短剣のぬめりを袖で拭った。
次に来たのは、頭の上からだった。
天井の暗がりで、何かがはらはらと動く。
手のひらほどの灰色の羽が、いくつも舞い降りてくる。
蛾だ。
一匹目を、短剣の一振りで叩き落とす。
二匹目も三匹目も、刃が触れただけであっけなく落ちる。
弱い。
けれど、羽ばたくたびに、細かな粉が煙のように舞い上がった。
喉が、いがらっぽい。
咳き込みかけて、袖で口を覆う。
片手で口を押さえたまま、群れを散らすように短剣を振るう。
最後の一匹が床に落ちて消える頃には、あたりに灰色の靄がうっすらと漂っていた。
靄から抜け出して、壁に手をつく。
息が、戻らない。
立ち止まってから、もういくらか経つ。
それでも胸は浅く上下して、吸っても吸っても、奥まで空気が入ってこない。
——一つ目、呼吸。
ヴィルマの声が、頭をよぎる。
けれど、喉の奥には、まだ粉のざらつきが残っている。
咳をすると、灰色の混じった唾が出た。
息が苦しいのは、これを吸ったからだ。
走り回って疲れたのとは、違う。
もう一度、深く吸う。
さっきよりは、少しだけ奥まで入るようになっている。
鱗粉のせいだ。
疲れじゃない。
カイは、通路の先へ歩き出した。
次の日も、その次の日も、三階層へ下りた。
一本先の通路から、もう一本先へ。
迷宮を出る時刻が、少しずつ遅くなる。
ギルドの柵をくぐる頃には、いつも空が赤い。
段差の上のフィーネは、手を振るより先に、伸び上がってこちらを探すようになった。
泥のヒキガエルを、何体も狩った。
三体目あたりから、短剣を振り上げる腕が、妙に重い。
——三つ目、刃。
握りを確かめると、指がぬるりと滑った。
刃にも、泥の膜がうっすらとこびりついている。
これだけ汚れていれば、重くもなる。
その夜は、いつもより念入りに短剣を研いだ。
砥石に水を垂らし、刃に残ったぬめりを、一筋も残さず落としていく。
買い取りの窓口に置く袋は、日に日に重くなった。
受け取る銀貨の手触りも、前とは違う。
三日目の帰り道、カイは段差の上のフィーネに言った。
「少し、寄るところがあるので。先に帰っててください」
「えー、どこ行くのー?」
「すぐ帰ります」
閉まりかけた市場の店先で、二つの品を選ぶ。
硝子の火屋がついた、真鍮のランプ。
それから、綿を厚く詰めた、生成りの布張りのクッション。
「わー、明るいー!」
新しいランプに火を入れた途端、フィーネが声を上げた。
前の小さなランプの、頼りない灯りとはまるで違う。
硝子の中で炎がまっすぐに立ち、部屋の隅々まで白っぽい光が届いている。
壁の石の継ぎ目まで、くっきりと見える。
「それと、これ。神様の分です」
クッションを差し出すと、フィーネは目を丸くして受け取った。
両腕で抱えて、ぎゅうと顔を埋める。
「ふかふかだー! これ、窓のとこに置こ。ここに座って、夕焼け見るの」
窓辺にクッションを据えて、さっそく腰を下ろす。
ぽすぽすと二度弾んでから、フィーネは満足げにカイを見上げた。
その顔が、ふと止まる。
「……でも、カイ。高かったんじゃない?」
「大丈夫です」
すぐに答えた。
フィーネは、少しだけ首をかしげる。
けれど、それ以上は聞かずに、またクッションに顔を埋めた。
明るくなった部屋を、カイは見回した。
壁際の寝台。窓の下の毛布。木箱と、その上の二つの器。
そこに、ランプとクッションが加わっている。
もう、前と同じではない。
「アンファング、カイ・アッシュグレイ。本日の帰還を記録します」
四日目の夕方、窓口のイルゼは、いつものように羽根ペンを走らせた。
書き終えると、手元の記録を一枚めくる。
「ここ四日間、帰還の時刻が、一日ごとに遅くなっています」
淡々とした声だった。
「買い取りの魔石も、三階層のものに変わりました。大きさから見て、階段付近より奥のものと思われます」
「……はい」
思わず、背筋が伸びる。
イルゼは記録を閉じると、引き出しから一枚の紙を取り出した。
「こちらを」
差し出された紙には、細く几帳面な文字が、行をそろえて並んでいた。
シュラムクレーテ。皮が厚く、表面のぬめりで刃が滑る。刃を傷めやすいため、こまめに手入れをすること。
ネーベルモッテ。群れで飛ぶ。羽の鱗粉を吸うと、息が苦しくなる。口元を布で覆うこと。
あの泥のヒキガエルと、灰色の蛾のことだ。
「それから、口頭で一点」
イルゼが、紙から目を上げる。
「三階層をある程度奥へ進むと、ファウストヴォルフという魔物が出ます。狼に似ていますが、二本足で立ちます。三階層の中では、少し強い部類です」
「強い……」
「記録を見る限り、現在のアンファングには荷が重いと判断します。遭遇した場合は、戦わずに引き返すことをお勧めします。奥のほうで確認されることが多い魔物です」
「……分かりました。ありがとうございます」
頭を下げても、イルゼの表情は少しも動かない。
「規則ですので」
隣の窓口では、大柄な冒険者が魔石の代金を受け取って、そのまま出ていくところだった。
その手に、紙は一枚も握られていない。
ギルドを出てから、もう一度紙を広げた。
三階層まで来た冒険者には、こういうものを渡す決まりになっているらしい。
刃を傷めやすい。
やっぱり、短剣が重かったのは、ぬめりのせいだ。
鱗粉を吸うと、息が苦しくなる。
あれも、疲れではなかった。
それに、ファウストヴォルフ。
奥のほうに出る。戦わずに、引き返す。
なら、奥へ行かなければいい。
出会ったら、背を向けて階段へ戻ればいい。
線は、はっきりしている。
その手前でなら、今のやり方を続けても大丈夫だ。
紙を丁寧に畳んで懐にしまい、市場で目の詰まった布を一枚買った。
翌日の夜、指南に少し遅れて、ターフェルの裏の空き地に着いた。
「遅いよ。ほら、構えな」
ヴィルマが、棒切れを肩から下ろす。
踏み込んで、突く。
かわされて、右足で地面を押して下がる。
もう一度。
三度目で、ヴィルマが棒を下ろした。
「やめ」
「え」
「戻りが遅い。前に出た足が、帰ってくるのに一拍かかってる。三日前のカイのほうが、まだましだったよ」
棒の先が、カイの足元を軽く叩く。
「どこまで潜ってる?」
「三階層です」
「奥?」
「奥には、行っていません。合図も、守ってます」
嘘ではない。
ファウストヴォルフが出るような奥には、一度も足を向けていない。
息が苦しかったのは鱗粉のせいで、短剣が重かったのはぬめりのせいだ。
合図は、一つも出ていない。
ヴィルマは、しばらく何も言わなかった。
「カイ。一つ、覚えときな」
いつもより、少しだけ低い声だった。
「合図ってのはね、出たかどうか迷った時には、もう出てるもんさ。あれは違う、これのせいだって、言い訳を探し始めたら、それが合図だよ」
「……はい」
大事な話だ、と思った。
けれど、自分のは言い訳ではない。
ぬめりも鱗粉も、本当にそこにあったのだから。
ヴィルマの目が、ふっと裏口のほうへ流れた。
戸の隙間から、厨房の明かりが細く漏れている。
中で、重い足音が一つ、床を鳴らした。
ヴィルマは、何も言わない。
やがて、棒切れをひょいと担ぎ直した。
「今日はここまで。帰って寝な」
「え、でも、足運びがまだ」
「寝な」
いつもの、からっとした声に戻っている。
カイは頭を下げて、空き地を後にした。
今日は早く眠れる、と、少しほっとしながら。
新しいランプの明かりは、夜更けになっても、部屋の隅まで届いていた。
寝台の上で膝を抱えたまま、フィーネは部屋を見回した。
硝子の中でまっすぐに立つ炎。
窓辺のクッション。
木箱の上の、二つの器。
嬉しい。
嬉しい、はずなのに。
壁際で、カイが眠っていた。
研ぎかけの短剣を膝に乗せたまま、背中を壁に預けて、首をかくんと傾けている。
砥石から垂れた水が、床に小さな染みを作っていた。
寝台を降りて、そっと近づく。
短剣の柄に添えられた手に、豆がいくつも並んでいる。
前に手当てをした時より、増えていた。
脇に置かれた口元の布には、灰色の粉がうっすらとこびりついている。
明るい光の下で見る寝顔は、思っていたよりずっと疲れていた。
朝は、まだ暗いうちに出ていく。
帰ってくるのは、空が赤くなってから。
いつかの朝のことが、頭に浮かぶ。
傷に血をにじませたまま出ていこうとするカイの前に立って、止めた朝。
言わなきゃ。
でも、言ったらきっと、カイは困った顔をする。
すみません、と頭を下げて、それでも次の朝には、また出ていく。
その顔まで、ちゃんと目に浮かぶ。
カイの膝から、短剣をそっと持ち上げる。
起こさないように、ゆっくりと。
鞘と並べて脇に置き、窓の下から毛布を取ってきて、肩にかけた。
カイは、身じろぎもしない。
「……がんばりすぎ」
小さな声が、明るい部屋に落ちる。
「……明日、ちゃんと言お」
フィーネは、ランプの火を少しだけ絞った。
目を開けると、肩に毛布がかかっていた。
壁にもたれたまま、眠ってしまったらしい。
膝の上にあったはずの短剣は、鞘と並んで脇に置かれている。
寝台のほうからは、フィーネの静かな寝息が聞こえていた。
窓の外は、まだ薄暗い。
短剣を手に取る。
昨夜研ぎ上げた刃は、絞ったランプの火を受けて、きれいに光っている。
欠けは一つもない。
何度も研ぎ直してきたせいで、刀身は買った頃より少し薄くなった。
それでも、刃筋はまっすぐだ。
持ち上げた手に、ずしりと重みがかかった。
……重い。
ここには、泥もぬめりもない。
研いだばかりの、乾いた刃だ。
一瞬だけ、手が止まった。
寝起きだからだ。
壁にもたれて、変な格好で寝たせいだ。
イルゼの声が、耳の奥によみがえる。
奥のほうで確認されることが多い魔物です。
奥へは行かない。
それさえ守れば、大丈夫だ。
短剣を、鞘に収める。
寝台の毛布が、規則正しく上下している。
起こせば、きっと寝ぼけた声で見送ってくれる。
起こさなければ、そのぶん早く三階層に着ける。
背負い袋を肩にかけて、戸口のほうへ一歩踏み出す。
そこで、足が止まった。
(……起こさずに、行こうか)




