第019話 聞かなかった
戸口の前で、カイは背負い袋の紐を握り直した。
黙って出ていくのは、やっぱり失礼な気がする。
毎朝、柵の前や塔の戸口で見送ってくれる人に、何も言わずに出ていくなんて。
背負い袋を下ろして、壁際に座り直した。
窓の外が白み始めた頃、寝台の毛布がもぞりと動いた。
「……ん。カイ、まだいたんだ」
「おはようございます」
「おはよー……」
身を起こしたフィーネの目が、脇に並べた鞘と短剣へ、それからカイの膝の上で畳まれた毛布へ流れる。
けれど、どちらも、そのことは口にしない。
「じゃあ、行ってきます」
背負い袋を担いで立ち上がると、フィーネが寝台から身を乗り出した。
「あのね、カイ」
「はい」
振り返って、まっすぐに見返す。
フィーネの口が、小さく開いたまま止まった。
ほんの、一呼吸。
「……今日も、気をつけてね」
「はい。奥には行きませんから」
「……奥?」
フィーネが首をかしげる。
その時にはもう、カイは戸を開けて、階段へ出ていた。
足音が、螺旋階段を下りて遠ざかっていく。
火の入っていないランプの横で、フィーネは毛布を握ったまま、閉じた戸を眺めた。
「……あーあ。言えなかったー」
昼のターフェルの戸を押すと、帳場のロッテが目を丸くした。
「あれ、神様? 一人?」
「うん。こんにちはー」
一人でこの店に来るのは、初めてだ。
いつもは隣に、カイがいる。
「ごめんね、お昼の忙しい時に。ちょっとだけ、聞きたいことがあって」
ロッテは客の勘定を一つ片づけてから、帳場の端に身を乗り出した。
「カイのこと?」
「……どうして分かったの」
「神様が一人で来て、聞きたいことって言ったら、それくらいしかないでしょ」
それから、少しだけ声を落とす。
「この前ね、あいつ、一人でお昼に来たのよ。休みの日だって」
「うん。私が出かけてた日だ」
「最初は普通だったの。でも、食べてる途中から、ずっと下向いちゃって。皿はきれいに空けてったけど、帰りに声かけたら、何でもないです、って笑うのよ」
帳場の上で、ロッテの指がとんとんと鳴る。
「あれ、何でもない顔じゃなかったわよ」
フィーネは、すぐには何も返せなかった。
あの日の夕方、カイはいつもより口数が少なかったかもしれない。
休みの日で気が抜けているのだと、あの時は思っていた。
「神様、来てたんだ」
奥から、皿を抱えたヴィルマが顔を出した。
ロッテから話を聞くと、皿を卓に置いて、濡れた手を布で拭う。
「ちょうどよかった。あたしも、神様に話そうか迷ってたとこさ」
帳場の脇の壁に、ヴィルマは背を預けた。
「ここ何日か、指南でのあの子、動きが重いんだ。前に出た足が、なかなか戻ってこない。昨夜なんか、三日前より悪かったよ」
「……」
「どこまで潜ってるのか聞いたらさ。三階層で、奥には行ってない、合図も守ってる、だって。お手本みたいな返事だろ?」
小さく、肩をすくめる。
「嘘をついてる顔じゃなかった。だから、余計に始末が悪い」
それから、ヴィルマはフィーネをまっすぐに見た。
「あたしは、迷宮の中まではついていけない。指南の場で言えることは、もう言った。……あの子を止められるとしたら、毎朝あの子の顔を見てる、神様くらいだろうね」
帳場の縁を、フィーネの指がきゅっと握る。
昨夜、言わなかった。
今朝も、言えなかった。
あのね、と言いかけて、まっすぐ見返されて、それだけで。
ふと、明るくなった塔の部屋が頭に浮かぶ。
真鍮のランプ。窓辺のクッション。神様の分です、と差し出された手。
……もしかして。
その先は、うまく形にならなかった。
「……うん。今日、ちゃんと言う」
「そうしな。今夜の指南は休みにするよ。あの子が来ても、追い返す」
ヴィルマが、からりと笑った。
厨房の奥から、のしのしと足音がする。
ブルーノが、布にくるんだ包みを一つ、無言で帳場に置いていった。
ほんのりと、温かい匂いが立つ。
「二人分だそうだよ」
厨房の奥から、ラウホののんびりした声が続いた。
「話をするなら、先に食べさせるといい。腹が減っていると、誰でも少しばかり頑固になるからね」
「ラウホ様、いいこと言ったふうにしないで。煮込み、焦げてる」
「おや」
フィーネは包みを両腕で抱えて、ぺこりと頭を下げた。
「ありがと、みんな」
三階層の、いつもの通路。
泥だまりから這い出たシュラムクレーテに何度も刃を滑らせて、ようやく沈める。
天井から降りてきたネーベルモッテの群れを、布で口元を覆ったまま散らす。
布の上から、二度、三度と咳き込んだ。
階段の近くまで戻って、壁際に腰を下ろす。
水筒の水を一口含んでから、立ち上がろうとした。
膝が、すぐには伸びない。
壁に手をついて、ゆっくりと体を押し上げる。
ふくらはぎには、乾いた泥がこびりついている。
泥に足を取られ続けたせいだろう。
三階層の床は、どこもかしこもぬかるんでいるのだから。
通路の奥の暗がりには、目を向けない。
今日も、奥には行っていない。
袋の重みを確かめて、カイは階段を上り始めた。
ギルドの柵をくぐると、段差の上でフィーネが手を振っていた。
両腕に、布の包みを抱えている。
「おかえりー! 今日はね、塔で食べよ」
「でも、ターフェルで指南が」
「今日は、お休みだって」
誰から、と聞く前に、フィーネはもう先に立って歩き出していた。
塔の部屋で包みを広げると、煮込みと、焼いた肉と、大きなパンが出てきた。
ターフェルの日替わりだ。
「これ……」
「食べてから、話すね」
ランプの明かりの下で、二人で食べた。
フィーネは、市場で見かけた犬の話をして、井戸端で聞いた天気の話をして、また別の話をした。
カイが何か聞こうとするより先に、話はぽんぽんと次へ移っていく。
最後のパンを飲み込んだところで、フィーネが匙を置いた。
「カイ。お願いがあるの」
今度は、言葉が途切れなかった。
「明日は、休んでほしい。それから、しばらくは、前みたいに階段の近くまでにしてほしいの」
「……え」
「今日ね、ターフェルに行ってきた。ヴィルマさんが言ってたよ。ここ何日か、動きが重いって」
匙を持ったまま、手が止まる。
「どうして、そんなに頑張るの?」
カイは、少しだけ考えてから口を開いた。
ちゃんと順を追って話せば、分かってもらえるはずだ。
「合図は、守っています。奥にも、行っていません。息が苦しくなるのは、ネーベルモッテの鱗粉のせいです。短剣が重いのも、シュラムクレーテのぬめりが残るからで……ギルドの注意書きにも、そう書いてありました」
一つずつ、指を折るように並べる。
「だから、大丈夫です」
フィーネは、言い返さなかった。
言い返す言葉を探すように、膝の上で指を組み替える。
「……あのね。私、困ってないよ」
ぽつりと、そう言った。
「ランプもクッションも、すっごく嬉しかった。ほんとだよ。でも、なくても平気だったの。前のままで、全然よかったんだよ」
前のままで。
耳の奥で、別の声がした。
——あれじゃあ、前と同じじゃないか。
——気の毒になあ。
口が、開きかけた。
この前、ターフェルで——。
そこで、閉じる。
言えば、フィーネはきっと笑う。
そんなの、気にしなくていいのにー、と。
そして、何も変わらないまま、話は終わる。
「明日も、行きます」
「カイ」
名前を、呼ばれた。
語尾の伸びない、短い声だった。
顔を上げれば、きっとあの目がある。
少しも笑っていない、まっすぐな琥珀色の目が。
それを見たら、たぶん、また頷いてしまう。
だから、ランプの火に目を落としたまま、顔を上げなかった。
「……大丈夫ですから」
フィーネは、それ以上何も言わない。
長い沈黙のあとで、小さな声が落ちた。
「……そっか」
立ち上がる気配がして、ランプの火が、ふっと消えた。
暗い部屋で、二人とも、背を向け合って横になった。
寝台のほうから、寝息は聞こえてこない。
カイも、眠れない。
寝返りを打って仰向けになり、見えない天井をただ見上げる。
窓の外は、まだ暗かった。
音を立てないように毛布を畳み、短剣を腰に差す。
背負い袋の紐を、ゆっくりと締める。
今日は、待たない。
戸口で、一度だけ振り返った。
寝台の上で、毛布にくるまったフィーネの背中が、こちらを向いている。
動かない。
「……いってきます」
自分の耳に届くかどうかの声で、そう言った。
戸を閉める。
戸の閉まる音が、暗い部屋に小さく響いた。
フィーネは、目を開けている。
眠ってなど、いなかった。
いってきます、も、ちゃんと聞こえていた。
いってらっしゃい、と返さなかっただけだ。
螺旋階段を下りていく足音が、少しずつ遠くなって、やがて聞こえなくなる。
木箱の上に、二つの器が並んでいる。
その隣で、火の消えた真鍮のランプが、薄闇の中に黙って立っている。




