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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
始まりのシャール

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第020話 折れた

塔からギルドへ向かう石畳は、まだ薄青い色をしている。

店の戸はどこも閉まったままで、通りにいるのはパンの籠を担いだ男と、水桶を提げた女くらいだ。


今日は、七日に一度の休みの日。


忘れていたわけではない。

目を覚ました時から、ずっと分かっている。


——明日は、休んでほしい。

——七日に一度は、何があっても休むこと。


昨夜のフィーネの声と、ヴィルマの声が、頭の中で重なる。


それでも、足は迷宮のほうへ向いていた。


一日休めば、一日分の稼ぎがそのまま消える。

三階層の魔石は大きい。一日の差は、前よりずっと大きいのだ。

それに、休みを決めたのは、無理をしないためのはずだ。

無理をしていないのなら、休まなくてもいいのではないか。


……そういう理屈で、合っているだろうか。


合っている、と思うことにした。

奥へは行かない。それさえ守れば、何も起こらない。


ギルドの横の、迷宮の入り口が見えてくる。

柵の前で、ふと、背中のほうに暗い部屋の気配がよみがえった。

毛布にくるまったまま、動かなかった背中。

返ってこなかった、いってらっしゃい。


首を振って、柵をくぐる。




三階層の空気は、今朝も重い。


泥だまりの並ぶ、いつもの通路。

口元の布を引き上げて、短剣を抜く。


ところが、いくら歩いても、泥だまりは静かなままだ。

天井を見上げても、灰色の羽は降りてこない。


ここ何日も、同じ辺りで狩り続けてきたのだ。

減っていても、おかしくはない。


……困ったな。


しばらく歩き回って、ようやく一匹のシュラムクレーテが泥から這い出した。

ぬめる皮に、二度、三度と刃を滑らせる。

四度目で浅く通ったが、とどめには足りず、シュラムクレーテは身をよじって通路の先の泥だまりへ逃げ込んだ。


「待て……!」


追う。

せっかくの、今日の最初の一匹だ。


泥に足首まで沈めて、ぬかるみを掻き回す。

ようやく沈んでいく背中に刃を入れた時、頭の上で、ばさばさと乾いた音がした。


ネーベルモッテの群れだ。


布の上から息を止めて、短剣を振り回す。

右へ、左へ、また右へ。

灰色の粉が舞い、壁の光がぼやけて、自分がどちらを向いているのかも、だんだんあいまいになっていく。


最後の一匹を払い落とした時には、通路は粉の霞に沈んでいた。


足元に散らばった小さな魔石を拾い集め、泥だまりの底から、シュラムクレーテの大きな一つを探り当てる。

それだけが、手のひらに重たい。


顔を上げると、通路はどこも同じに見える。

暗くて、湿っていて、足音がどこかへ吸い込まれていく、三階層のいつもの景色だ。


いつもの辺りだ。

たぶん、あっちが階段の方角。


歩き出してすぐ、右手の壁際に、大きな岩が突き出していた。

上のほうが斜めにえぐれた、獣の顎のような形をしている。


……こんな岩、あっただろうか。


あったのだろう。

三階層の岩は、どれも似たような形をしている。


天井から、細い根のようなものが何本も垂れ下がっていた。

首をすくめて、その下をくぐる。


立ち止まって、壁に手をつく。


息が、戻らない。

吸っても吸っても、胸の底まで届かない。


鱗粉だ。

さっき、あれだけ浴びたのだから。


短剣を握り直すと、ずしりと手首に来る。


ぬめりだ。

泥に沈みかけたシュラムクレーテに、あれだけ刃を滑らせたのだから。


布の下で一つ咳をして、カイはまた歩き出した。




通路の先の暗がりで、何かが動く。


最初は、岩の影だと思った。

けれど、その影は、ゆっくりと伸び上がっていく。


背中を丸めたまま、二本の足で立っている。

背丈は、カイより頭一つぶん高いくらいか。

だらりと下がった前脚が、やけに長い。膝のあたりまで届いている。

その先に、細く長い指のようなものが見えた。


頭は、狼だ。

尖った耳と、突き出た鼻面。

光の途切れた暗がりで、二つの目だけが鈍く光っている。


狼に似ているが、二本足で立つ。


イルゼの淡々とした声が、耳の奥でよみがえる。


ファウストヴォルフ。

奥のほうで、確認されることが多い魔物。


背中が、すっと冷えた。


視線を外さないまま、横目で壁を見る。

獣の顎のような岩が、すぐ後ろにある。


ここは、いつもの辺りではない。


いつから。

どこで。


考えている暇はない。


戦わずに、引き返す。

そう決めていたはずだ。


息を殺して、半歩、下がる。

背中は見せない。目も逸らさない。

ファウストヴォルフは、長い前脚を垂らしたまま、首だけをわずかに傾けている。


もう半歩。

もう一歩。


岩を回り込み、相手の姿が暗がりに沈んだところで、くるりと背を向けて駆け出した。


いや。

駆け出そうとした。


足が、前に出ない。


踏み出した右足が、泥に埋まったように重い。

左足が、それについてこない。

もつれて、つんのめって、壁に肩をぶつける。


階段は、どっちだった。

いつもなら、走ればすぐのはずなのに。

その「すぐ」が、果てしなく遠い。


——二つ目、足。階段を見て、上るのが億劫だな、と思ったら。


昨日。

座り込んだ後、膝がすぐには伸びなかった。

泥に足を取られたせいだと、そう思った。


——言い訳を探し始めたら、それが合図だよ。


鱗粉のせい。

ぬめりのせい。

泥のせい。


出ていたのだ。

三つとも、とっくに。


背後で、ぴちゃり、と泥を踏む音がした。


ぴちゃり。ぴちゃり。

急いでいない。けれど、確かに近づいてくる。


この足では、逃げきれない。


壁から肩を引きはがして、振り返る。

短剣を、構えた。




狼なら、知っている。


二階層で、ケッセルヴォルフの群れを相手に、何度も転ばされて覚えたのだ。

狼は、低く跳ぶ。

狙うのは、足か、喉。

跳ぶ直前に、後ろ足に力がたまる。そこを見ていれば、かわせる。


ファウストヴォルフの、後ろ足を見る。


力は、たまらない。


二本足のまま、すたすたと、人が歩くように間合いを詰めてくる。

そして、跳ぶ代わりに、長い前脚が横から薙ぐように振られた。


低くかわそうと身を沈めたところへ、その腕が横ざまに肩を打つ。


「ぐっ……!」


泥の上を、ごろごろと転がった。

肩から背中へ、じんと痺れが広がっていく。


低く身を沈めれば、あの長い腕にとっては、ちょうどいい高さになる。

跳びかかってくると思ったから、低くかわした。

狼だと思ったから。


……こいつは、狼の戦い方をしない。


泥に手をついて起き上がりながら、相手を見上げる。


ファウストヴォルフは、すぐには追ってこない。

首を傾けて、こちらを見ている。


……いや。

見ているのは、自分の顔ではない。


右手だ。

握った短剣が揺れるたびに、二つの目が、ぴたりとその先を追っている。


なんだ、こいつ。


考えがまとまる前に、相手が踏み込んできた。


今度は、見えた。

前脚が振りかぶられる、その一瞬だけ、胴が開く。


右足で泥を蹴って、懐へ飛び込む。

下から、斜めに斬り上げた。


手応えがあった。


刃が、鼻面から片目の上へ、一筋に走る。

ファウストヴォルフが、のけぞった。

喉の奥から、濁った唸り声が漏れる。


鼻面の皮が裂けて、黒っぽい血が一筋、片目の上まで流れていく。

斜めに走った、まっすぐな傷。


入った。


もう一太刀。

のけぞった頭めがけて、短剣を振り下ろす。


その刃を、手がつかんだ。


長い指が、刃に巻きつく。

骨ばった指の一本一本が、刃の腹にも、刃先にも、ためらいなく食い込んでいく。


引けない。

押しても、びくともしない。


ゆっくりと、手首がねじられた。


ぎ、と刃が鳴る。


何度も研ぎ直して、すっかり薄くなった刃だ。


きぃん、と甲高い音が、通路に響いた。


手の中が、急に軽くなる。


握っているのは、柄と、指二本ぶんほど残った刃だけ。

その先は、ファウストヴォルフの手の中にある。


あ、と思う間もなかった。


もう片方の前脚が、横から来る。

体が浮いて、壁に叩きつけられた。

腕を、何かの爪がかすめていく。


背中から、ずるずると泥の上に崩れ落ちた。




天井の光が、にじんでいる。


息を吸おうとすると、背中が軋んだ。

腕が熱い。袖が、じわりと湿っていく。


右手は、まだ柄を握っている。

指が、開かない。開き方を忘れたみたいに。


立たなければ。


膝に力を入れる。

泥の中で、足が少し滑っただけだった。


足元の泥に、何かが落ちる鈍い音がした。

ファウストヴォルフが、握っていた刃先を放り捨てたのだ。


鼻面から片目の上へ、血の筋を垂らしたまま、こちらへ歩いてくる。

一歩ずつ。

急ぐ様子は、やっぱりない。


ああ、これは。


かすんだ頭に、なぜか、塔の部屋が浮かんだ。


暗い部屋。

戸口で振り返った時の、毛布にくるまった背中。

自分の耳に届くかどうかの声で言った、いってきます。


返事は、なかった。


当たり前だ。

聞かなかったのは、自分のほうなのだから。


……神様。


あと二歩、というところで、足音が途切れた。


ファウストヴォルフが、ぴたりと止まっている。

長い前脚を、垂らしたまま。


振り上げない。

尖った耳が、ぺたりと後ろへ伏せられていく。

傷の下の目が、じっと、こちらを見下ろしている。


一歩、退いた。


どうして、と思ったかどうかも、よく分からない。

にじんだ視界の中で、狼の頭が、遠くなったり近くなったりしている。


「——おい、誰かいるぞ!」


通路の向こうから、声がした。


揺れる明かり。

泥を跳ね上げて駆けてくる、いくつもの足音。


ファウストヴォルフが、ぴくりと耳を立てる。

くるりと背を向けて、暗がりの奥へ走り出した。


途中で、一度だけ。

立ち止まって、肩越しに、こちらを振り返る。


それから、その姿は暗がりに溶けて、見えなくなった。




「おい、坊主。おい、しっかりしろ」


頬を、軽く叩かれる。

目を開けると、ランプの明かりの向こうに、髭面があった。


どこかで見た顔だ。


男のほうも、カイの顔をのぞき込んで、目を丸くした。


「……お前、ターフェルの……」


思い出す。

閉店間際のカウンターで、加護なしで三階層まで、と声を上げた、あの冒険者だ。


「なんで、こんなとこにいる」


答えようとして、声が出なかった。


男の後ろで、仲間らしい二人が通路の奥を照らしている。


「見たか、今の」


「ああ。ファウストヴォルフだな。顔に、新しい傷があった」


「鼻んとこから目の上まで、ばっさりな。……坊主がやったのか、あれ」


髭面の男は返事をせずに、カイの腕の傷を布で手早く縛った。

それから、背中に腕を回して、ぐいと体を起こす。


「追うなよ。こいつを上に運ぶのが先だ」


仲間の一人が、反対側の肩を支える。

両脇から持ち上げられて、ようやく足が地面についた。


歩き出しながら、髭面の男が、ふう、と長く息を吐いた。


「三階層の入り口までって話じゃなかったのか。この辺は、駆け出しが一人でうろつく場所じゃねえぞ」


何も、言い返せない。


大丈夫です、と言った。

フィーネにも、ヴィルマにも、自分にも。

守っているつもりだった。


右手の中には、まだ、折れた短剣の柄がある。

刃先は、あの暗がりの泥の上に置いてきた。




階段が、見えてきた。


いつも上っている、三階層からの階段だ。

見慣れた石の段が、上へ、上へと続いている。


一段目に、足をかける。


重い。

膝が、持ち上がらない。

両脇から支えられて、ようやく次の段に足が乗る。


一段。

また一段。


——階段を見て、上るのが億劫だな、と思ったら。


それなら、知っている。


今朝、塔の螺旋階段を下りた時から。

ギルドの柵をくぐって、迷宮の最初の段に足をかけた時から。


ずっと、出ていた。


「もうちょいだ、坊主。踏ん張れ」


髭面の男の声が、すぐ横で聞こえる。


右手の柄を、握りしめる。

手のひらに、短く折れた刃の重みだけがある。


見上げた階段の先に、地上の光が、白く小さくにじんでいた。


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