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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
始まりのシャール

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第021話 おかえり

迷宮の入り口の柵をくぐると、白い光が目に刺さった。


昼を少し過ぎた頃だろうか。

石畳の上を、荷車や人が当たり前のように行き交っている。

ついさっきまでいた暗がりが、嘘のようだ。


「このまま、ギルドだ」


髭面の男が、カイの脇を抱え直した。


「お前を拾ったことも、あの魔物のことも、届けとかなきゃならねえ」


返事をする前に、もう足は窓口のほうへ向いていた。



「アンファングの担当は、どこだ」


男が窓口で声を張ると、カウンターの向こうの机から、黒髪をきっちりとまとめた職員が立ち上がった。


イルゼだ。


灰青色の目が、カイの上をなぞっていく。

泥にまみれた服。

腕に巻かれた、赤黒く染みた布。

右手に握ったままの、短剣の柄。


羽根ペンの先が、ほんの一瞬だけ、紙の上で止まった。


「……アンファング、カイ・アッシュグレイ。本日の帰還を記録します」


声は、いつもと何も変わらない。


「場所をお願いします」


「三階層、です」


「三階層の、どの辺りですか」


答えに詰まった。

どの辺り、なのだろう。

気づいた時には、もう見覚えのない岩の前にいたのだ。


「階段から、ずいぶん歩いた先だ。三階層の、真ん中を越えた辺りだな」


髭面の男が、横から口を挟んだ。

イルゼは小さく頷いて、ペンを走らせる。


「遭遇した魔物は」


「……ファウストヴォルフです」


「怪我の程度は」


「肩と背中を打って、腕を少し」


「武器は」


右手を、窓口の台の上に出した。

柄と、指二本ぶんだけ残った刃。


イルゼは、それをしばし見てから、また紙に目を戻した。


「破損。……刃先は」


「迷宮の中に、置いてきました」


「それと、その魔物な」


髭面の男が、台に肘をつく。


「顔に、新しい傷があった。鼻面から、片目の上にかけてだ。坊主がつけたらしい」


「承知しました」


イルゼの手元で、ペンの音が少しだけ長く続く。


それから、イルゼは顔を上げた。


「以前、奥へは行かないと伺っていました」


責める声ではなかった。

書類の項目を一つ、読み上げるのと同じ調子だ。


「……行かない、つもりでした」


「承知しました。ですが、記録には、実際に行った場所しか書けません」


ペン先が、紙の上を短く動く。


三階層・奥。


逆さまに見えたその文字から、目を逸らすことができなかった。


叱られたほうが、まだ楽だったかもしれない。

怒鳴られたら、すみませんと頭を下げられる。

けれど、書かれた文字には、何を言えばいいのか分からない。


イルゼは書類を揃えて、端を一度、台の上でとんと叩いた。


「最後に一点。次に迷宮へ入る前に、必ずこの窓口に寄ってください」


「……それも、規則ですか」


「規則ですので」


イルゼの表情は、少しも動かない。


背後で、髭面の男たちが黙ったまま、そのやり取りを見ていた。




「ターフェルに寄ってけ。どうせ通り道だ」


ギルドを出たところで、髭面の男が言った。


断る力も、もう残っていない。

両脇を支えられたまま、見慣れた通りを歩く。


昼の客が引けて、夜の仕込みが始まる前の、静かな時刻だった。

戸を押すと、帳場で帳面をつけていたロッテが顔を上げる。


「いらっしゃ——」


声が、途中で消えた。


握っていたペンが、帳面の上にころりと転がる。


「ヴィルマさん!」


呼ぶのとほとんど同時に、厨房からヴィルマが出てきた。

濡れた手のまま、カイの頭からつま先までを一息に見る。


「三階層で拾った」


髭面の男が、手短に言った。


「ファウストヴォルフにやられて、短剣を折られてた。顔に傷のあるやつだ。……あとは頼むわ」


「ああ。ありがとね」


男は頷くと、カイの肩をひとつ叩いた。


「じゃあな、坊主」


言い残して、仲間と一緒に出ていった。



ヴィルマは何も言わずに、カイを手近な椅子に座らせた。


腕に巻かれた布の結び目を、手早くほどく。

傷を水で洗い、ロッテが持ってきた清潔な布で巻き直していく。

ためらいのない、慣れた手つきだ。

きつすぎず、緩すぎず、最後に結び目を軽く引いて確かめる。


その間、ヴィルマの目が、ちらりとカイの右手に落ちた。


折れた柄は、まだ指の中にある。


手当てを終えたヴィルマは、カイの前にしゃがんだまま、顔を上げた。

いつものからりとした笑いは、どこにもない。


「今日は、休みの日だろ」


答えられない。

七日に一度は、何があっても休むこと。

指南を受けると決めた日に、最初に言い渡された約束だ。


ヴィルマは、それ以上何も言わなかった。

膝を払って立ち上がり、その目が、ふと厨房の裏口へ向く。

すぐに、戻る。



厨房から、のしのしと足音がした。


ブルーノが、湯気の立つ椀を片手に出てきた。

カイの前に立って、折れた柄と、カイの顔とを、順に見下ろす。


怒鳴られる、と思った。


けれど、ブルーノは声を張らなかった。


「……戻ってこられたんなら、上等だ」


聞いたことのない、低い声だった。


「稼ぎなんてもんは、後からいくらでも取り返せる」


ことり、と椀が卓に置かれる。

具のたっぷり入ったスープだ。

ブルーノはそれきり背を向けて、厨房へ戻っていった。


稼ぎなんてもんは。


湯気の向こうで、別の卓の声がよみがえる。


——稼ぎが少ないらしいよ。

——あれじゃあ、前と同じじゃないか。


正反対のことを言われている。

それは分かるのに、うまく飲み込めない。

胸のどこかに、引っかかったまま落ちていかない。


ロッテが、カイの前にパンの籠を置いた。

口を開きかけて、閉じる。

籠には、いつもの倍ほどのパンが盛られている。


匙を取って、スープを一口すすった。

温かい。

ほかのことはぼやけていても、その温かさだけは、はっきりと分かる。



「塔まで、送るよ」


食べ終えたところで、ヴィルマが前掛けを外した。


「一人で、帰れます」


「歩けるのは知ってるさ」


ヴィルマは、もう戸口に立っている。

カイが何を言っても、聞く気はないらしかった。




夕方の通りを、ヴィルマと並んで歩く。


ヴィルマは、ほとんど喋らない。

カイの歩幅に合わせて、ゆっくりと足を運んでいる。


街外れの塔の下まで来ると、ヴィルマは足を止めた。


「あたしは、ここまで。あとは、あんたの神様の番だ」


「……はい」


「指南は、その腕が治るまで休み。いいね」


言うが早いか、ヴィルマは来た道を戻っていった。

一度も、振り返らずに。



塔の扉を開けて、螺旋階段に足をかける。


今朝、まだ暗いうちに下りた階段だ。

あの時は、音を立てないように、一段ずつそっと足を運んだ。


今は、一段ごとに、足が重い。

けれど、その重さが何なのかは、もう知っている。


上るにつれて、考えてしまう。


扉の向こうで、フィーネはどんな顔をしているだろう。

怒っているだろうか。

呆れているだろうか。

だから言ったのに、と言われたら、何と返せばいいのだろう。


最後の段を上りきって、扉の前に立つ。


右手の柄に、目を落とした。

腰の鞘に差しておけば、ぱっと見には分からない。


少し迷ってから、柄を握ったまま、取っ手に手をかけた。




扉を開けると、ランプがついていた。


真鍮のランプの、橙色の明かり。

その下で、窓辺のクッションに座っていたフィーネが、顔を上げた。


琥珀色の目が、泥だらけの服から、巻き直された腕の布へ、それから右手の柄へと落ちていく。


フィーネの口が、何か言いかけたまま、止まった。


カイは、戸口に立ったまま、頭を下げた。


顔を、上げられない。

床の板目と、泥のこびりついた自分の靴だけが目に入る。


衣擦れの音がした。

フィーネが立ち上がって、こちらへ歩いてくる。


何を言われても、仕方がない。

そう思って、柄を握る手に力を込めた。


足音が、すぐ前で止まる。


「……おかえり」


それだけだった。


息が、詰まった。


今朝、暗い部屋で、自分の耳に届くかどうかの声で言った「いってきます」。

返事は、なかった。



フィーネはカイの袖を引いて、窓辺のクッションに座らせた。


巻き直された腕の布に、そっと指先が触れる。


「痛い?」


「だいじょ——」


そこで、声が止まった。


大丈夫です。

この何日か、何度その言葉を口にしただろう。

朝も、夜も。

フィーネに向かって、ヴィルマに向かって。


今日だけは、それが言えない。


「……少し、痛いです」


「……そっか」


返ってきたのは、短い一言だけだった。



黙っていられなくなって、カイは自分から口を開いた。


三階層で、魔物を追っているうちに、いつもよりずっと先まで行っていたこと。

気づいた時には、ファウストヴォルフが目の前にいたこと。

逃げようとしたのに、足が動かなかったこと。

短剣を、折られたこと。

冒険者に、助けてもらったこと。


「今日が休みの日だって、分かってました。分かってて、行きました」


床を見たまま、頭を下げる。


「……すみません」


フィーネは、黙って聞いていた。


だから言ったのに、とは言わなかった。

昨夜のように、どうして、とも聞かない。


それきり、何も言わない。


代わりに、そっと手が伸びてきて、カイの指から折れた柄を抜き取った。

いつの間にか、指はちゃんと開くようになっていた。


フィーネは柄を木箱の上に置くと、着替えを出して、泥だらけの上着を受け取る。

桶に水を汲んできて、布を浸して、固く絞る。


手は、休まずに動いている。

けれど、いつものおしゃべりが、どこにもない。


「顔、上げて。拭けないから」


「……はい」


冷たい布が、頬の泥をぬぐっていく。

言われて少しだけ上げた顔の、その先にあるはずの琥珀色の目を、カイは見られなかった。

見ていられるのは、フィーネの肩口の、ティールの布地だけだ。


どうして、とは、聞かれなかった。




窓の下の毛布にくるまった途端、体が泥の底へ沈んでいく。


ランプの明かりが、まぶたの裏でにじむ。

何か言わなければ、と思ったのが最後で、そこから先は覚えていない。



フィーネは、眠れなかった。


すぐそばから、カイの寝息が聞こえる。

深くて、重たい寝息だ。


ランプの明かりの中で、木箱の上を見る。


二つの器。

真鍮のランプ。

その隣に、折れた短剣の柄。


柄を手に取ると、思っていたよりずっと軽い。

指二本ぶんだけ残った刃の先が、ぎざぎざにねじ切れている。


今朝、戸の閉まる音を、毛布の中で聞いていた。

いってきます、も、ちゃんと聞こえていたのに。


いってらっしゃい、と言わなかった。


折れ口に、そっと指を触れる。

冷たくて、ざらりとしている。


眠っているカイのほうを見た。

泥を拭いた頬が、ランプの明かりに浮かんでいる。


柄を、そっと木箱の上に戻す。


それから、フィーネはランプの火を消した。

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