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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
始まりのシャール

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第022話 窓辺

朝、目を覚まして身を起こすと、手が勝手に腰へ伸びる。


鞘が、空っぽだった。


そうだ、と思い出す。

木箱の上に目をやれば、二つの器とランプの隣に、折れた柄が転がっている。


あれから、三日が経った。


肩と背中の打ち身は、思っていたより早く色が引いている。

腕の傷も、もう布を巻かなくていいくらいだ。

とはいえ、短剣がなければ、迷宮には潜れない。

ヴィルマの指南も、休みのままだ。


つまり、やることがない。


朝から晩まで塔の部屋にいるのは、ここへ来て初めてのことだった。

窓の外を眺めて、毛布を畳み直して、また窓の外を眺める。

暇というのは、こんなに長いものだっただろうか。



フィーネも、ずっと塔にいた。


朝はパンを買ってきてくれる。

昼には、井戸で汲んだ水を桶に足してくれる。

カイが腕を動かすたびに、ちらりとこちらを見る。


世話は、いつもどおり焼いてくれている。

けれど、言葉が少ない。


「パン、半分こね」


「はい」


「お水、ここ置いとく」


「ありがとうございます」


それで、話が終わってしまう。

ぽんぽんと次の話へ飛んでいく、あのおしゃべりが、どこにもない。


カイのほうも、何を話せばいいのか分からなかった。


どうして、とは、聞かれなかった。


あの夜から、それがずっと胸のどこかに引っかかっている。

聞かれたら、答えなければならない。

聞かれないから、答えられない。


言わなければいけないことがあるのは、分かっていた。




四日目の夕方。


窓の開く音がして、顔を上げた。


「カイ、ちょっと来て」


窓辺で、フィーネが手招きしている。


隣に並んで、窓の外へ目を向ける。


西の空が、一面の橙色に染まっていた。

街の屋根という屋根が、その色を映して、縁だけを金色に光らせている。

通りの向こうの煙突も、市場の天幕も、どれも同じ色に溶けている。


この時間のここからの眺めが、街で一番だと、フィーネは言っていた。

あの日は、素直にそう思えなかった。


今は、ただきれいだと思う。


しばらく、二人とも黙っていた。


「ねえ、カイ」


窓枠に手を置いたまま、フィーネが言った。


「カイは、これから、どうしたい?」


どうして、ではなかった。

これから、だった。


答えようとして、口を開きかける。

けれど、その前に。


「……答える前に、話さなきゃいけないことがあります」


フィーネが、こちらを向く。

何も言わずに、小さく頷いた。


息を一つ吸って、窓の外に目を戻す。


「少し前の、休みの日。神様が、頼まれごとで出かけてた日です。俺、一人で、昼のターフェルに行ったんです」


話し始めると、思っていたよりすんなりと言葉が出てきた。


「隣の卓に、お年寄りが三人いて。塔の神様に、やっと眷属ができたって、喜んでくれてたんです。ずっと一人だったから、よかったって」


「……うん」


「でも、暮らしは前と何も変わってないって。眷属は駆け出しで、稼ぎが少ないらしいって。あれじゃ前と同じだ、気の毒にって」


窓枠の上で、フィーネの指がかすかに動いた。


「悪気は、なかったと思います。俺がその眷属だってことも、知らなかったし。すぐに、芋の値段の話になってました」


それでも。


「……俺のせいで、神様が、気の毒がられてるんだと思いました」


声が、少しだけ低くなる。


「だから、稼がなきゃって。合図さえ守っていれば、大丈夫だって。……それで、あんなことに」


言ってしまえば、それだけの話だ。

何日も一人で抱えていたのが、嘘みたいに短い。


なのに、口は止まらなかった。


「村にいた頃も、そうだったんです」


自分でも、どうしてそんな話を始めたのか分からない。


村の畑は、加護のある者にとっては軽い仕事だった。

麦の袋を、みんなは両肩に担いで鼻歌まじりに運んでいく。

カイがようやく一袋運ぶ間に、周りは三袋を積み終えている。

誰も責めなかった。

ただ、いつも、半人前だった。


村に魔物が出た時もそうだ。

二人の幼なじみの前に飛び出して、鍬を振り上げて、振り下ろす前に弾き飛ばされた。

倒したのは、ルッツとグレタだった。

自分は、地面に転がって見ていただけだ。


「この前も、同じでした」


窓の外の光が、少しずつ赤みを増していく。


「知らない冒険者に助けてもらって、ヴィルマさんに送ってもらって。神様のところに、帰ってきただけで」


全部、誰かに守られて。


窓枠を握る手に、力がこもった。


「……強く、なりたいんです」


言葉にしてから、少し驚く。


ああ、そうか。

稼ぎたかったのは、本当だ。

けれど、その下に、ずっとこれがあったのだ。


「稼ぐためとかじゃなくて。守られてばっかりは、もう、嫌なんです。加護がなくても……俺は、ちゃんと、強くなりたい」


フィーネは、一度も口を挟まない。

最後の一言まで、黙って聞いている。




先に聞こえてきたのは、小さな笑い声だった。


「……ふふ」


驚いて横を見ると、フィーネが口元に手を当てている。


「ごめん。笑うとこじゃないよね。でも、そっかー。前と同じ、かー」


窓枠に頬杖をついて、フィーネは夕日を見る。


「だって、ほんとのことだし。前と同じ。それで、私、ずっと平気だったんだよ」


困った人を見るような、柔らかい目だった。


「でもね、一個だけ、前と違うことがあるよ」


フィーネが、こちらに指を一本立ててみせる。


「カイがいること」


「……え」


「何百年も、ずーっと一人だったんだよ。帰ってきても、誰もいない部屋。そこに、カイが来てくれたの。眷属ができたって、私にとっては、すっごく大きいことなんだからね」


あまりにもあっさり言うので、すぐには返事ができなかった。


自分が、ここにいること。

そんなものは、稼ぎにも暮らしにも、勘定に入らないと思っていた。

隣の卓の三人が数えなかったものを、フィーネは、一番先に数えている。


「……俺、まだ何もしてないですよ」


やっと出てきたのは、そんな言葉だった。


「してるよー。毎日、ちゃんとここに帰ってきてるでしょ」


フィーネは笑って、また夕日のほうへ顔を戻した。


けれど、その笑みは、途中ですっと消えた。


「……そんなこと、ずっと一人で持ってたの」


窓枠に置かれた手に、力がこもる。


「何日も。私、毎晩となりにいたのに」


返す言葉が見つからない。


フィーネは、頬杖を外して、窓枠の上で両手を重ねた。


「私もね、言ってないことがあるの」


「……え」


「カイが一人で出てった朝。私、起きてたんだ」


息が止まった。


「いってきます、ちゃんと聞こえてた。……いってらっしゃい、言わなかった」


フィーネの指先が、窓枠の木目をなぞる。


「ごめんね」


あの朝の、動かなかった背中。

返ってこなかった声。


眠っているのだと、ずっと思っていた。


何か言わなければと思うのに、喉の奥で言葉がつかえる。


その間に、フィーネがぽつりと続けた。


「強くなりたい、かあ」


夕日の中で、琥珀色の目が細くなる。


「……私が、加護をあげられたら、よかったのにね」


それから、いつものように笑おうとした。


口の端が持ち上がって、途中で止まる。

笑い声の代わりに、小さく息が漏れただけだった。


「神様、それは——」


神様のせいじゃない。

そう言おうとした。


けれど、言い終わる前に、フィーネがくるりとこちらを向いた。


「話してくれて、ありがと」


さっきよりも、少しだけ明るい声だった。


「ちゃんと、聞いたよ。全部」


その顔を見たら、続きが言えなくなった。


前のままで全然よかった、とあの夜にフィーネは言った。

今なら、ほんの少しだけ、本当にそうなのかもしれないと思える。


ほんの、少しだけ。



日が、屋根の向こうへ沈んでいく。


橙色が紫に変わり、紫が藍に変わる。

街のあちこちに、ぽつぽつと明かりが灯り始める。


二人は、窓辺に並んだまま、それを眺めていた。




その夜、カイはすぐに眠った。


窓の下の毛布から、ゆっくりとした寝息が聞こえてくる。

ここ何日かの、浅くて重たい寝息とは違う。



フィーネは、寝台の上で身を起こした。


ランプの明かりを細くして、木箱の前にしゃがむ。


二つの器。

真鍮のランプ。

折れた短剣の柄。


柄を手に取る。

ねじ切れた折れ口が、明かりを受けて鈍く光った。


強く、なりたい。


カイの声が、耳の奥に残っている。


柄を膝に置いて、フィーネは自分の手のひらを見た。


加護は、あげられない。

何百年も前から、ずっとそうだ。


でも。


手のひらを、ゆっくりと握る。


柄を、元の場所にそっと戻した。

眠っているカイの顔を、もう一度だけ見てから、ランプを消す。




翌朝、目を覚ますと、フィーネはもう身支度を済ませていた。


青緑のケープを羽織って、編み上げのブーツの紐を結んでいる。


「あ、カイ。おはよー」


顔を上げたフィーネが、にっと笑う。


「おはようございます。……どこか、出かけるんですか」


「うん。今日はちょっと、頼まれごとがあってねー」


ブーツの紐をきゅっと結び終えて、フィーネが立ち上がる。

戸口へ向かう背中を見ているうちに、言葉が口からこぼれた。


「いってらっしゃい」


フィーネの足が、ぴたりと止まった。


振り返った顔が、ぱっと明るくなる。


「——いってきます!」


扉が閉まる。

螺旋階段を下りていく軽い足音が、だんだん遠ざかっていく。


一人になった部屋で、カイは木箱の上に目をやった。


二つの器と、ランプと、折れた短剣の柄。


窓から差し込んだ朝の光が、その上に落ちていた。

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