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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
始まりのシャール

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第023話 頼まれごと

次の朝も、フィーネは出かけていった。


「今日もね、頼まれごとー」


「いってらっしゃい」


「いってきます!」


その次の朝も、同じだった。

ケープを羽織って、ブーツの紐を結んで、扉の前でくるりと振り返る。

いってらっしゃい、と言うと、フィーネは毎回、嬉しそうに笑う。


三日目の朝、ブーツの紐を結ぶ背中に、聞いてみた。


「あの、頼まれごとって、どこに行ってるんですか」


フィーネは、ちらりとこちらを振り返った。

人差し指を、唇の前に立てる。


「内緒ー」


「内緒、ですか」


「うん。内緒」


いたずらを思いついた子どものような顔で、フィーネは扉の向こうへ消えていった。



一人の昼は、長い。


毛布を畳んで、床を掃いて、窓を拭く。

それが終わると、もうやることがない。


窓から、街を見下ろす。

屋根の連なりの向こうの、ギルドのあるあたり。

その横に、迷宮の入り口があるはずだ。


気がつくと、そちらばかり眺めていた。


腕の傷は、もう薄い線が残っているだけだった。

肩を回しても、背中が軋まない。

これなら、と思いかけて、腰の空っぽの鞘に手が触れる。



フィーネが帰ってくるのは、いつも日が暮れてからだった。


「ただいまー! 今日ね、井戸のとこの猫が、また子ども産んでてね——」


声は明るい。

話もよく弾む。

けれど、猫の話のあとは市場の話、市場の話のあとはまた猫の話で、どこで何をしていたのかは、少しも出てこない。


二日目の夜は、パンを持ったまま、こくりと頭が揺れた。


三日目の夜は、匙を持ったまま、しばらく動かなかった。


「神様?」


「……ん。あ、ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」


へへ、と笑って、フィーネはまた匙を動かし始める。




その晩、食べ終えた器を受け取ろうとして、手が止まった。


器の縁にかかったフィーネの指先が、黒く汚れている。

人差し指と中指の、ちょうどペンを挟むあたり。

こすっても落ちきらなかったような、インクの染みだ。


フィーネはすぐに手を引っ込めて、器を木箱の上に置いた。

気づいた様子は、ない。


インク。


頭の中で、いくつかのことが、ゆっくりとつながっていく。


契約した日の夜、フィーネは言っていた。

お腹すいたら、ちょっと働けばいいしー、と。


休みの日に街を歩いた時には、カイにはさっぱり読めない古い文字を、すらすらと読み上げていた。

通りすがりの人に、手紙を書いてくれてありがとう、と礼を言われてもいた。


代筆。

手紙や、書きつけの仕事。


フィーネなら、きっと引く手あまただろう。


それが始まったのは、窓辺で話をした、次の朝からだ。


前と同じ暮らしで、気の毒がられている。

そう教えたのは、自分だ。


窓辺で、フィーネは言ってくれた。

前と違うのは、カイがいること、と。

あれは、本当の気持ちだったと思う。

そこを疑うつもりはない。


けれど。


あんな話を聞かされて、気にしないでいられる神様だろうか。

街の人に頼まれれば手紙を書き、迷子がいれば家まで送っていくような人だ。


……神様に、働かせてしまった。


ほんの少しだけ信じかけたものが、指の間から、またこぼれていく気がした。


聞いてみようか、と口を開きかける。


聞けば、フィーネはきっと笑って、違うよー、と言うだろう。

そうしたら、それ以上は聞けなくなる。


結局、何も聞かずに器を重ねた。


言わなければよかった。

窓辺で、あんな話をしなければ。


……いや。


言ってしまったものは、もう戻らない。

だったら、せめて。


木箱の上の、折れた柄が目に入った。




翌朝、フィーネを送り出してから、カイは背負い袋の底から革の袋を引っぱり出した。


三階層で稼いだ分の、残りだ。

ランプとクッションを買っても、まだいくらかは残っている。

中身は数えずに、袋ごと懐に入れた。


それから、木箱の上の折れた柄を手に取る。



大通りから、一本外れた通り。

色の褪せた看板の、交差した剣の絵は、前よりまた少しかすれていた。


扉を押すと、鉄と油の匂いがする。


作業台の向こうで、無愛想な男が顔を上げた。

カイの顔を見て、それから、カイが差し出した柄に目を落とす。


男は黙って柄を受け取り、折れ口を明かりにかざした。


指の腹で、ぎざぎざの縁をなぞる。

欠けたのではない。

ねじられて、ちぎれた跡だ。


男の目が、ほんのわずかに細くなった。


けれど、何も聞かなかった。

柄をカイの手に返すと、作業台の脇の木箱に手を突っ込む。


出てきたのは、飾り気のない短剣だった。

刀身は、手のひらを広げたより少し長いくらい。

薄くて、幅も細い。


「同じのでいいな」


「……はい。それで」


男が告げた値段を払うと、懐の袋はずいぶん薄くなった。


男の目が、カイの腰に下がった空っぽの鞘に、ちらりと流れる。

鞘の棚へ伸びかけた手が、そのまま作業台へ戻った。


新しい短剣を、前の鞘に差し込んでみる。

刃は引っかかりもなく、すっと奥まで収まった。



店を出て、通りの端で短剣を抜いてみた。


軽い。

手のひらに、すっと収まる。

前の短剣を初めて握った日と、何も変わらない。


刃の腹を、親指でなぞる。


薄い。


しばらくそうしてから、鞘に収める。


折れた柄は、袋に入れて持ち帰ることにする。

捨てる気には、なれなかった。




日が傾く頃、ターフェルの戸を押した。


夕方の仕込みの最中で、帳場のロッテが顔を上げる。

カイを頭のてっぺんからつま先まで、じろりと一往復。


「……歩けてるわね」


「はい。もう、ほとんど」


「ヴィルマさんなら、裏。病み上がりなんだから、あんまり無茶させないでって、あとで言っとく」


誰に言うんですか、と聞く前に、ロッテは客の勘定に戻っていた。



裏の空き地では、ヴィルマが樽に腰かけて、芋の皮を剥いていた。


「おや」


ナイフを止めて、ヴィルマが目を上げる。


カイは、腰の短剣を鞘ごと外して、両手で差し出した。


「買い直しました。……指南を、また、お願いできませんか」


頭を下げる。


しばらく、返事がなかった。


やがて、樽から下りる音がして、ヴィルマがすぐ前に立った。

カイの腕を取って、袖をまくる。

薄く残った傷の線を、指でなぞる。


「ふうん。早いね」


それから、少し下がって、顎で地面を指した。


「足運び。十回」


言われたとおりに、右足を出して、戻す。

十回目で、ヴィルマが手を上げた。


「いいよ。戻ってる」


頭を上げると、ヴィルマはもう、芋の籠を脇へどけていた。


「で、聞かせな。あいつと、どうやり合った」


カイは、順に話した。


狼の動きだと思って、低く構えたこと。

跳ばずに、歩いて間合いを詰めてきたこと。

自分の体ではなく、短剣を目で追っていたこと。

振り下ろした刃を、手でつかまれて、ねじられたこと。


ヴィルマは、腕を組んで黙って聞いていた。

刃をつかまれたところで、眉がわずかに動く。


話し終えると、ヴィルマは少しのあいだ、地面を見ていた。


「今日は、構えも足運びもやらない」


「え」


「教えるのは、一個だけ」


ヴィルマは、立てかけてあった棒切れを拾って、カイに放った。

受け取ったそれを、次の瞬間には、ひょいと取り上げられる。


空っぽになった手を、ヴィルマが指さした。


「得物がなくなった時に、どうやって生き残るか」



「まず、止まるな」


ヴィルマが、棒切れの先をこちらへ向ける。


「得物がなくなると、人は手元を見て固まる。固まったら、そこで終わり。何も持ってなくても、足は動く」


棒切れが、すっと突き出される。

とっさに半身でかわすと、すぐに次が来た。


「次。背中を向けて走れないなら、走らなくていい」


ヴィルマは、空き地の端の樽を棒で叩いた。


「壁でも、岩でも、こういうのでもいい。相手と自分の間に、何か一個はさむ。回り込んでくる間に、一息つける」


樽の陰に滑り込む。

棒の先が、樽の向こうから伸びてきて、届かずに空を切った。


「そう。相手の手が届かない所に、自分を置く。それだけ考えてな」


二度、三度と、空き地を逃げ回らされた。

樽を回り、木箱の陰に入り、壁際を伝って横へ抜ける。

息が上がる。

けれど、棒は一度も、まともには当たらなかった。


「最後」


ヴィルマが、棒を下ろした。


「勝とうとしなくていい。時間を稼げ。迷宮には、あんた以外にも人がいる。声を出して、粘って、助けが来るまで生きてな」


この前の自分が、頭に浮かんだ。


折れた柄を握ったまま、泥の上で立ち上がれなかった自分。

通路の向こうから聞こえた、誰かの声。


あれは、ただ運がよかっただけだ。


「それから」


ヴィルマが、棒切れを肩に担ぐ。


「潜るなら、当面は階段の近くまで。見える所。いいね」


前にも、似たことを言われた。

その時は、守っているつもりで、守れなかった。


「はい」


今度は、まっすぐに答えた。


ヴィルマは、少しだけ口の端を上げた。


それから、何か考えるように、カイの顔を見る。


「あんたさ。助けられたこと、気にしてるだろ」


言い当てられて、返事に詰まる。


「顔に書いてあるよ」


からりと笑ってから、ヴィルマはふっと声を落とした。


「守られるのは、恥じゃないよ」


ヴィルマの目が、厨房の裏口から漏れる明かりのほうへ、ちらりと向いた。


ほんの一瞬。

すぐに、いつもの顔に戻る。


「さ、今日はここまで。明日からは、また百回だからね」


守られるのは、恥じゃない。


窓辺で、守られてばっかりは嫌だと言ったばかりだ。

その言葉と、うまく重ならない。


頭を下げて、空き地を後にした。

背中で、芋の皮を剥く音が、また始まる。




塔の部屋に戻ると、ランプがついていた。


フィーネは、もう帰ってきている。

窓辺のクッションにもたれて、膝を抱えたまま、眠っていた。


ケープも脱いでいない。

ブーツも、片方だけ紐がほどけたままだ。


そっと近づいて、顔をのぞき込む。


まぶたの下に、うっすらと影がある。

少し開いた唇から、ゆっくりとした寝息が漏れている。

膝の上で組まれた手の、指先には、まだ黒い染みが残っていた。


窓の下から毛布を取ってきて、肩にかける。


フィーネは、身じろぎもしなかった。



袋から折れた柄を出して、木箱の上に戻す。


その隣に、腰から外した新しい短剣を、鞘ごと並べた。


二つの器と、真鍮のランプ。

折れた柄と、新しい短剣。


並べてみると、柄の長さも、握りの形も、ほとんど同じだった。


明日、窓口に寄ろう。

イルゼに言われたとおりに。


それから、階段の近くまで。

見える所から、一歩も先へは行かない。


それでいい。

神様が、もう稼がなくてもいいように。


眠っているフィーネのほうを、もう一度だけ見る。


それから、ランプの火を消した。

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