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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
始まりのシャール

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第024話 見える所

朝、毛布を畳んでから、木箱の上の短剣を取った。


鞘ごと腰に下げて、留め具を締める。

久しぶりの重みが、腰の左側に戻ってくる。


寝台のほうでは、フィーネがブーツの紐を結んでいた。

今日も、頼まれごとらしい。


紐を結び終えて顔を上げたフィーネの目が、カイの腰で止まった。


「……それ」


結び目に添えていた手が、ぴたりと動かなくなる。


「昨日、買い直したんです。前と同じ店で、同じのを」


カイは、鞘を軽く叩いてみせた。


「今日から、また潜ります。でも、ヴィルマさんと約束しました。三階層の、階段の近くまで。階段が見える所から、先へは行きません」


フィーネの唇が、小さく開いた。


何か言いかけている。

その顔は、あの夜、窓辺で見た顔に少し似ていた。


けれど、フィーネは一度だけまばたきをして、言葉を飲み込んだ。

代わりに、口の端を持ち上げる。


「……見える所、ね」


「はい」


「ほんとに、見える所だよ?」


「はい。見える所です」


フィーネは、ふふ、と笑って立ち上がった。

ケープの裾を払って、一足先に扉を開ける。



二人で、螺旋階段を下りた。


塔の扉を出たところで、道が二つに分かれる。

カイはギルドのほうへ。

フィーネは、反対の通りへ。


「いってらっしゃい」


「いってらっしゃい」


声が、重なった。


二人とも、きょとんと顔を見合わせる。

それから、フィーネが先に吹き出した。


「いってきます」


「……いってきます」


フィーネは手を振って、通りの角を曲がっていく。

カイも、背を向けて歩き出した。

いつもより、少しだけ足が軽い。




ギルドの窓口に顔を出すと、イルゼが羽根ペンを置いた。


「お待ちしていました」


それだけ言って、書類を一枚、手元に引き寄せる。


「本日の予定をお願いします」


「三階層です。階段の見える所まで」


イルゼのペンが、さらさらと動く。

三階層、階段付近。

今度は、逆さまでもすぐに読めた。


「今日は、書かれたとおりの場所にいます」


イルゼは、顔を上げなかった。

ペン先だけが、一瞬止まって、また動き出す。


「承知しました」


書類を脇へ寄せてから、イルゼは別の綴りをめくった。


「一点、お伝えします。ここ数日、三階層の奥について、複数の冒険者から報告が上がっています」


「報告……ですか」


「ファウストヴォルフの姿が見えない。奥のほうの様子が、いつもと違う。内容は、おおむねその二点です」


「様子が違う、というのは」


「詳細は、まだ確認できていません」


背中が、すっと冷えた。


あの暗がり。

長い指。

折れる音。


「階段の近くから、離れないようにしてください」


「はい」


カイは、まっすぐに頷いた。


見える所から、先へは行かない。

今度は、本当に。




三階層へ続く階段を下りきったところで、一度振り返る。

石の段が、薄い光の中に浮かんでいる。


ここから見える所まで。


泥だまりから這い出たシュラムクレーテに、刃を入れる。

ぬめりで滑る。

二度、三度。

四度目で、ようやく沈む。


魔石を拾って、振り返る。

階段は、ちゃんと見えている。


天井から、ネーベルモッテの小さな群れが降りてきた。

口元の布を引き上げて、散らす。

布の上から、こほ、と一つ咳が出た。


立ち止まって、息を数える。


戻りが、遅い。


鱗粉のせいだ、とは思わなかった。

息が上がっている。それだけのことだ。


階段の一段目まで戻って、腰を下ろす。

水を一口含んで、息が胸の底まで届くのを待ってから、また立ち上がった。

膝は、すっと伸びる。

短剣も、重くない。



昼を過ぎた頃、通路の向こうから、明かりがいくつか揺れてきた。


「お、坊主じゃねえか」


髭面の男だった。

後ろに、仲間の二人が続いている。

奥からの帰りらしく、三人とも膝まで泥にまみれていた。


「今日は、入り口で稼いでんのか」


「はい。ヴィルマさんと、ここまでって約束したので」


男は、カイの顔と、カイの背中の階段とを見比べた。


「それでいい」


にやりと笑って、男は階段の脇の岩に腰を下ろした。

仲間の二人も、水筒を取り出して休み始める。


カイは、また階段の見える所で、短剣を構え直した。


袋の中の魔石は、前の半分にも届かない。

それでも、これでいい。

少しずつでも、神様が稼がなくてもいいように。




同じ朝、カイと別れて通りの角を曲がったフィーネは、ケープの内側の袋を確かめた。


ずしり、と手のひらに重い。


前から少しずつ取ってあった分に、ここ何日かの頼まれごとの分。

人差し指の先には、こすっても落ちきらなかったインクが、まだ薄く残っている。


短剣と鞘を頼んでから、今日でちょうど五日。

今日は、それを受け取りに行く日だ。


大通りから、一本外れた通り。

色の褪せた看板の、半分消えかけた交差した剣。


扉を押すと、鉄と油の匂いがした。


作業台の向こうで、無愛想な男が顔を上げる。

フィーネの顔を見ると、何も言わずに立ち上がった。


壁の棚の、上から二段目。

布をかけた細長い包みを下ろして、作業台に置く。


五日前、カイに「いってらっしゃい」と送り出してもらったあの朝も、フィーネはこの作業台の前に立っていた。



あの朝、「短剣を、一本ほしいの」と言ったフィーネを、男はじっと見た。


「……塔の神様か」


「うん。うちの子の、なんだ」


男は少し黙ってから、壁の棚の短剣を一本下ろした。

一目で気に入って、これにする、と決めた。

それから、鞘のことを頼んだ。


「鞘なら、棚に」


「ううん。この短剣に、ちゃんと合わせて作ってほしいの」


作業台の下から、なめした革の切れ端が何枚か並べられた。

焦げ茶、赤茶、くすんだ緑。それから、黒。


「色は」


「黒。うんと深い、真っ黒なの」


「飾りは」


「飾りは、いらない。その代わり、文字を入れてほしいの。うちのシャールの名前」


作業台の端の紙切れを一枚もらって、男の羽根ペンを借りた。

古い書きつけを写すみたいに、丁寧な線で、一語を書きつける。


アンファング。


男は紙切れをしばらく眺めてから、黒い革の上に、そっと重ねた。


「五日。短剣は、鞘と一緒に渡す。代金も、その時でいい」


「うん。待つよ」


短剣を店に預けて、あの朝は手ぶらで帰った。

代金は、それまでに用意すればいい。



その包みが、今、目の前にある。


男が、布をめくった。


黒い鞘が、作業台の上に横たわっていた。

飾りのない、深い黒の革。

鞘の口の近くに、小さな文字が刻まれている。


アンファング。


自分の書いた線が、そのまま革の上に写されていた。


柄を握って、そっと引き抜く。


片刃の、まっすぐな刀身。

カイの短剣より、ひと回り長い。

刃にはしっかりと厚みがあって、研ぎ上げられた面に曇りがない。

鍔は小さく、指を守るだけの控えめなもの。

柄は、白っぽい木でできている。


「トネリコだ」


男が、短く言った。


握った手のひらに、かすかな引っかかりがあった。


五日前に握った時より、柄が、ほんの少し細い。

指でなぞると、まだ新しい削り跡が残っている。


この太さを、知っている。

夜、ランプの明かりの下で、何度も手に取った。

折れた柄と、同じくらいの太さ。


顔を上げると、男は作業台の上に目を落としていた。


「昨日、坊主が来た」


「え」


「ねじ切られた柄を持ってな。前と同じのを買っていった」


それだけ言って、男は別のほうを向き、工具を片づけ始めた。


フィーネは、短剣を鞘に戻した。

それから、ケープの内側から袋を出して、中身を全部作業台に空ける。


男は、それを数えもせずに、手のひらでまとめて引き寄せた。


「……足りてる?」


「足りてる」


フィーネは、作業台の上を見た。

鞘の分まで、本当に足りているのだろうか。

柄を削り直した手間の分まで。

男の横顔は、何も答えない。


「……ありがと」


黒い鞘の短剣を胸に抱えて、店を出る。


今朝の、カイの腰の短剣が浮かんだ。

前と同じ、薄い刃。


フィーネは、塔へ向かう足を少しだけ速めた。




昼の塔の部屋は、しんとしていた。


木箱の上に、二つの器と、真鍮のランプと、折れた柄。


フィーネは窓辺のクッションに座って、黒い鞘から短剣を抜いた。

膝の上に、短剣を横たえる。


両手で刃と柄を包み、目を閉じる。


自分の内側にある、温かいもの。

それを手のひらに集めて、ゆっくりと、刃のほうへ流していく。


何百年も前、自分にこれができると初めて気づいた日のことが、一瞬だけよぎった。

加護をあげられないと分かってから、ずいぶん経ってからのことだ。


願うことは、二つだけ。


何があっても、決して折れないで。

あの子の手に、重くないように。


手のひらの下で、刃が少しずつ温まっていく。

日なたに置いた石のような、ほんのりとした温かさ。


その分だけ、指先が冷えていった。


最後のひとしずくまで流し込んで、フィーネは手を離した。


途端に、部屋がぐらりと傾く。


壁に背中を預けて、目を閉じる。

こめかみで、どくどくと音がしている。

指先が、氷を握った後みたいに冷たい。


……しばらくは、戻らないな。


それは、最初から分かっていた。


長いこと、そのまま動けなかった。

窓から差し込む光が、床の上を少しずつ移っていく。


やがて、フィーネはゆっくりと目を開けた。


膝の上の短剣に、そっと触れる。

まだ、ほんのりと温かい。


「……ふふ」


これを見たら、カイはどんな顔をするだろう。

驚いて、目を丸くして。

それから、たぶん、困ったみたいに笑う。


その顔を思い浮かべたら、指先の冷たさも、少しだけ気にならなくなった。



日が傾き始めた頃、フィーネは短剣を鞘に収めて、塔を出た。


ギルドの横の、迷宮の入り口。

柵の脇の段差に腰を下ろして、膝の上に黒い鞘の短剣を抱える。


ここで待っていれば、柵をくぐって出てくるカイを、一番に捕まえられる。


柵の向こうには、地下へ続く暗がりが口を開けている。

冒険者たちが、そこから出てきては、ギルドの窓口へ吸い込まれていく。


フィーネは、膝の上の短剣を抱え直した。


暗がりの奥は、ここからでは何も見えない。




夕方。


カイは、階段の一段目の前で足を止めた。


息を数える。

戻ってくる。

膝を曲げて、伸ばす。

すっと伸びる。

短剣を握る。

重くない。


三つとも、まだ大丈夫だ。


……まだいける、と思ったら。その時が、帰る時さ。


ヴィルマの声が、耳の奥でよみがえる。


「今日は、ここまで」


口に出して言ってみると、思ったよりすっきりと胸に落ちた。


袋の口を締めて、階段のほうへ一歩踏み出す。


その時、階段の脇の、横道の暗がりで、何かが動いた。


最初は、岩の影だと思った。


けれど、その影は、ゆっくりと伸び上がっていく。


背中を丸めたまま、二本の足で立っている。

だらりと下がった、長い前脚。


伸び上がる。

まだ、伸び上がる。


頭が、天井の暗がりに届きそうなところで、ようやく止まった。


前に見た時より、ずっと大きい。


光の途切れた暗がりの中で、狼の頭がこちらを向く。

その鼻面から、片目の上へ。

一筋の、斜めの傷。


あいつだ。


きぃん、と、あの折れる音が、どこかで鳴った気がした。


影は、動かない。

カイと、階段のあいだに立ったまま。


見える所に、いたはずだ。

階段は、今もちゃんと見えている。


その手前に、あいつがいる。


少し離れた岩のほうで、誰かが立ち上がる音がした。


「……おい」


髭面の男の、かすれた声だった。

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