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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
始まりのシャール

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第025話 いってきます

影が一歩前へ出て、壁の光が届くところまで来ると、ようやく全身が見えた。

背中を丸めた、二本の足。

狼の頭。

だらりと垂れた前脚は、前よりさらに長く、ほとんど足首のあたりまで届いている。

その先の指は、骨ばった枝のように伸びていた。


毛並みの隙間から、何かが立ちのぼっている。

煤のような、黒い靄だ。

風もないのに体にまとわりついて離れず、魔物がわずかに首を傾けると、遅れてついていき、ゆらりと尾を引く。

壁の光に近いところだけ、その黒の奥に濁った紫がにじんで見えた。


あれは、なんだ。


三階層で、こんなものは見たことがない。

ケッセルヴォルフにも、シュラムクレーテにも、こんな靄はなかった。

前にあいつと向き合った時にも。

鼻面から片目の上へ走る傷だけが、変わらずにそこにある。


「坊主、逃げろ!」


階段脇の岩のほうから、髭面の男の声が飛んだ。


逃げたい。

階段は、すぐそこに見えている。

けれど、その手前にあいつがいる。

魔物は声のしたほうを見もせず、岩のそばで立ち上がった三人には目もくれずに、カイだけを見下ろしていた。


大きく回り込めば、階段の端に取りつける。

そう踏んで横へ動いたが、二歩目を踏んだところで、長い前脚が先回りしていた。

横から薙いできた腕を外側で受けた瞬間、体が浮き、泥の上を転がって止まった時には、階段がさっきより遠くにある。


起き上がると、魔物はまたカイと階段のあいだにいた。

今度は反対側から回り込もうとしても、前脚がまた先にいる。

身をひねってかわし、泥に足を取られかけて、なんとか踏みとどまる。


階段に、近づけない。


——止まるな。

——背中を向けて走れないなら、何か一個はさむ。


ヴィルマの声が、頭の中で鳴った。


すぐ横の、人の背丈ほどの岩の陰に飛び込むと、岩の向こうで前脚が空を切った。

魔物がゆっくりと岩を回り込んでくる。

カイは次の岩へ、その次の岩へと移っていく。

一つ移るたびに、階段が少しずつ離れていく。


「ありゃあ駄目だ、俺らじゃ歯が立たねえ」


背後で、髭面の男が仲間に言うのが聞こえた。


「お前らは階段を見張ってろ。……ギルドに知らせる! 粘れよ、坊主!」


石段を駆け上がっていく足音が、通路に響いて遠ざかっていく。

粘れ。

まだ、終わりじゃない。




岩から岩へ。

泥だまりを回り込み、柱のように突き出した岩の陰へ。

相手の手が届かない所に、自分を置く。

それだけを考える。


ぴちゃり。ぴちゃり。

魔物は、あの日と同じように急がない。

けれど岩の陰に隠れても、長い前脚が回り込むように探ってきて、骨ばった指先が岩肌をかりかりと引っかいていく。


「誰か! 誰か、いませんか!」


張り上げた声は、通路のどこかに吸い込まれて、返事はない。

それでも、もう一度。


「誰か!」


前脚が肩をかすめ、次は背中をかすめた。

泥の上に転がって、すぐに起き上がり、口に入った泥を吐き出して、また次の陰へ走る。


次の岩へ移ろうとして、ふと周りを見回すと、見覚えのない形の岩ばかりだった。

三階層は、どこも同じに見える。

暗くて、湿っていて、足音が吸い込まれていく。


階段は、もう見えない。


息を数える。

戻りが遅く、胸の底まで届かない。

鱗粉のせいではない。走り回って、息が上がっている。

それを認めたうえで、足を動かす。

前の時は、ここで足が止まった。今は、まだ動く。




岩の陰から次の陰へ飛び込んだ先で、足が止まった。

壁だ。

右も左も、ごつごつとした岩壁が迫っていて、通路はここで行き止まりになっている。

振り返ると、袋小路の入り口を、あいつの体がふさいでいた。

黒い靄が、通路の幅いっぱいに広がっている。


逃げ場は、もうない。


腰の短剣を抜いて構えた途端、魔物の目が、すっとカイの右手に吸いつく。

ああ、前と同じだ。

こいつは、刃を見ている。


振り下ろしたら、つかまれる。

つかまれたら、ねじられて、終わる。

だったら振り下ろさず、長い指が届かない胴の近くまで飛び込んで、そこで一度だけ。

狙うのは、あの傷だ。

一度、刃が通った場所。


前脚が振られた。

身を沈めてその下をくぐり、泥を蹴って懐へ入る。

見上げた先に、鼻面から片目の上へ走る、斜めの傷。

そこにも、黒い靄が薄くまとわりついている。

下から突き上げた刃が、その傷に届く。


がつん、と。


皮を裂いた、あの手応えではなかった。

岩か鉄の塊を叩いたような硬さが手首から肘へ突き抜け、刃に細い線が走るのが見えた。

きぃん、と甲高い音が袋小路に跳ね返り、薄い刃がばらばらに砕ける。

細かい破片が、壁の光を受けて散っていく。


手の中が、急に軽くなった。

握っているのは、柄と、根元にわずかに残った刃だけだ。

見上げると、魔物の傷の上を、白い筋が一本、浅くこすれているだけだった。


その時、全部が、一度に戻ってきた。

泥の冷たさ。

動かなかった足。

ねじられる手首。

暗い部屋の、毛布にくるまった背中。

返事のなかった、いってきます。

手元の柄から、目が離せない。


——得物がなくなると、人は手元を見て固まる。


分かっている。ヴィルマに、言われた。

分かっているのに、体が言うことを聞かない。

横から来た前脚に払われて壁際まで転がり、岩に肩を打ちつけて、膝をつく。


立てない。


足元で、じゃり、と音がした。

魔物が、散らばった刃の破片を踏みしだきながら、ゆっくりと近づいてくる。




夕方の柵の前は、迷宮から上がってくる冒険者たちで、少しずつにぎわい始めていた。

泥だらけの靴に、魔石の詰まった袋。

笑い声と、疲れた溜め息。


フィーネは柵の脇の段差に座って、膝の上の短剣を抱え直した。

出てくる顔を一つずつ確かめても、カイはまだいない。

指先はまだ少し冷たくて、そのぶん、黒い鞘に触れている手のひらの温かさがよく分かる。


驚くかな。

驚くよね。


その時、柵の向こうの暗がりから、泥まみれの髭面の男が、転がるように飛び出してきた。


「誰か! 三階層の階段んとこに、化け物みてえにでけえファウストヴォルフが出た!」


槍を持った門番が、慌てて駆け寄る。


「でかい? 三階層で、か」


「でかいなんてもんじゃねえ。天井に頭がつきそうなやつだ。……アンファングの坊主が、追われてる」


アンファング。


膝の上から、短剣が滑り落ちかけた。

肩で息をしながら顔を上げた男の目が、柵の脇のフィーネで止まる。


「……あんた、塔の」


フィーネは、もう立ち上がっていた。


「顔に、傷のあるやつだ。前に、坊主の短剣を折ったやつだよ。あいつが、でかくなって——」


最後まで、聞いていなかった。

黒い鞘の短剣を胸に抱え直して、冷たい指で柵に手をかける。


「神様、そこから先は——」


門番が倒した槍の柄が、いつかと同じように、フィーネの胸の前でぴたりと止まる。

フィーネは、その下をくぐった。

背中で門番が何か叫んでいるのを、振り返りもせずに、石段を駆け下りていく。

迷宮の暗がりが、その姿を呑み込んだ。




膝をついたまま、カイは近づいてくる足音を聞いていた。

右手には、刃の砕けた柄。


前の時、倒れた自分の頭に浮かんだのは、毛布にくるまった背中だった。

返事のなかった、いってきます。

今、浮かぶのは、今朝の塔の下だ。


いってらっしゃい、と二人の声が重なって、きょとんと顔を見合わせて、神様が先に吹き出した。

いってきます、と自分もちゃんと言った。


言ったのだ。

だったら。


——毎日、ちゃんとここに帰ってきてるでしょ。

——助けが来るまで生きてな。

——戻ってこられたんなら、上等だ。


勝たなくていい。

帰れば、いい。


刃の砕けた柄を握り直し、泥に左手をついて、膝に力を入れる。

前の時は、足が泥の上を滑っただけだった。

今度はずるりと滑りかけた足を、もう一度泥に突き立てる。

ふくらはぎが震えても、膝が、伸びていく。


見上げると、黒い靄の向こうに狼の頭があって、鼻面から片目の上へ、白くこすれた傷が走っている。

怖い。膝は、まだ震えている。

それでも、柄を構えた。

勝つためではない。帰るために。


見る者のいない袋小路で、深い緑の目が、ほんの一瞬だけ琥珀の色に揺れた。


魔物が前脚を振り上げても、カイは止まらなかった。

振り下ろされる腕の下へ、泥を蹴ってもぐり込む。

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