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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
始まりのシャール

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第026話 ただいま

石段を下りきった先は、思っていたよりずっと暗かった。


壁のところどころが、ぼんやりと光っている。

ひやりとした空気と、湿った土の匂い。

カイが毎朝下りていって、毎晩上がってきた場所だ。

フィーネは黒い鞘の短剣を胸に抱え直して、その中を走り出した。


一階層の通路で、魔石の袋を提げた冒険者たちが、ぎょっとして振り返る。


「おい、今の……神様じゃねえか?」


背中で上がった声には、構わない。

足元を、鼠のような小さな魔物の群れがちょろちょろと横切っていったが、それも跳び越えて走る。

二階層への階段を、二段飛ばしで駆け下りる。


息が、すぐに上がった。

脇腹が痛い。ブーツの底が泥で滑る。

カイは、こんな道を毎日、行って帰ってきていたのだ。

一人で、あの安物の短剣一本を腰に下げて。


二階層を抜けて、三階層への階段を下りきったところで、泥まみれの男が二人、弾かれたようにこちらを向いた。

髭面の男と一緒にいた、仲間の二人だ。


「か、神様? なんでこんなとこに——」


「カイは!?」


二人は、顔を見合わせた。


「坊主は、奥へ追われてった。あいつが、ずっと階段とのあいだに立ちやがって……。どっちへ行ったか、もう分からねえ」


男の一人が、暗い通路の先をあごで指す。

その先は、すぐにいくつもの道に分かれていた。




どの道も、同じに見えた。

暗くて、湿っていて、足音がどこかへ吸い込まれていく。

右へ行けばいいのか、左なのか、まっすぐなのか。


「カイ!」


呼んでも、声は通路の奥に消えて、何も返ってこない。


もう一度呼ぼうとして、息が続かなかった。

フィーネは短剣を胸に抱えたまま、目を閉じる。

祈るつもりではない。ただ、上がりきった息を、少しでも落ち着けたかった。


その時、胸の奥に、小さな火が灯っているのに気づいた。


暖炉のそばに立った時のような温かさが、なぜか片側からだけ来る。

左の、細い通路のほうから。


「……分かんない」


目を開けて、その通路を見る。


「分かんないけど……こっち」


足が、勝手に動き出していた。

分かれ道に来るたびに、迷わずに片方を選ぶ。

考えている暇はない。考えるのは、後でいい。

進むほど、胸の温かさがはっきりしていく。

やがて、通路の先から、何かがぶつかる鈍い音と、泥を跳ね上げる音が聞こえてきた。




袋小路から転がり出て、もう、どれくらい経っただろう。

前脚の下をくぐり抜けた後は、刃の砕けた柄を握ったまま、ひたすら岩から岩へ移り続けていた。

息はもうずっと戻ってこないし、膝も笑い始めている。

それでも止まらずにいられるのは、止まったら終わりだと、体のほうが覚えているからだ。


「カイ!」


自分を呼ぶ声を、聞き間違いだと思った。

ここは三階層だ。あの声の持ち主が、ここにいるはずがない。

けれど、通路の向こうの暗がりから、アプリコット色の髪が飛び込んでくる。

泥だらけのブーツに、ぜいぜいと上下する肩。

胸には、何か黒くて細長いものを、しっかりと抱えている。


「神様!? なんで——」


その時、ずっとカイだけを追っていた魔物の目が、初めて、ほかのものへ動いた。

狼の頭がゆっくりと向きを変え、傷の下の目が、通路の入り口に立つフィーネをとらえる。

黒い靄が、ざわりと逆立つように揺れた。

魔物はカイに背を向け、長い前脚を引きずるようにして、フィーネのほうへ一歩、また一歩と踏み出していく。


だめだ。


フィーネは、短剣を抱えたまま立ちすくんでいる。

振りかぶられた前脚が、まっすぐにフィーネへ落ちていく。

考えるより先に、体が動いていた。

泥を蹴ってあいだに飛び込み、フィーネの体を腕で押しのけて、背中で前脚を受ける。


息が、肺から叩き出された。

泥の上に膝をつきかけて、なんとか踏みとどまる。

背中で、フィーネが息を呑む気配がする。


魔物の前に飛び出して、何もできなかった日があった。

守られて、帰ってきた日もあった。

けれど今、背中の後ろにいるのは、神様だ。




「カイ、これ!」


膝をつきかけたカイの手に、フィーネが黒いものを押しつけた。

細長い、黒い革の鞘だ。


「カイのだよ。カイの、短剣。……使って!」


鞘の口のあたりに刻まれた小さな文字が、一瞬だけ目に入る。

アンファング。

何かを聞く暇は、なかった。

刃の砕けた柄を手放して、黒い鞘から短剣を引き抜く。


軽い。


いや、軽いのではなく、重さがない。

握っているのを忘れそうなほど、腕の先がそのまま伸びたような感覚だった。

白っぽい木の柄は手のひらにぴたりと収まり、太さも長さも、ずっと握ってきた柄と同じだ。

初めて持つはずなのに、手が、これを知っている。


フィーネを背にかばって構えた途端、魔物の目が、新しい刃に吸いついた。




振られた前脚を、今度は低くかわさず、肩の動き出しを見て半歩踏み込み、短剣を振る。

その刃を、長い指がつかんだ。

骨ばった指が一本、また一本と刃に巻きつき、ゆっくりと手首がねじられていく。

あの日と同じだ。

泥の冷たさも、手首にかかる力も、その先で鳴った甲高い音も、体のほうが覚えている。

奥歯を、噛みしめる。


けれど、指がどれだけ締めつけても、どれだけねじっても、刃はきしみもせず、まっすぐなままだった。

魔物が、もう一度、腕に力を込める。

長い指の節が白く浮き、黒い靄が腕を伝ってざわめいても、刃は手の中で少しもぶれない。


むしろ、軋んだのは、魔物の腕のほうだった。


その時、胸元の一点が、熱を持つ。

照れなのか焦りなのか、考える暇もない。


握った短剣の根元から切っ先へ、夕焼けのような琥珀色が、ゆっくりと満ちていく。


光に触れたところから、黒い靄が、じゅっと焼けるように退いていく。

刃をつかんでいた長い指が、熱いものに触れたように、ばっと開いた。

魔物が喉の奥で短く唸って、腕を引く。

初めて、あいつのほうが、刃から手を離した。


体が、軽い。


なんだ、これ。

さっきまで鉛のようだった足が、泥から抜けるたびに、ふわりと浮く。

息はまだ上がっているのに、頭の中だけが、妙に澄んでいる。

きっと、必死だからだ。


さっきまでかわすのがやっとだった前脚が、肩の動き出しから見えて、どこへ来るのかが、もう分かる。

二階層で、ケッセルヴォルフの群れの動きを見抜いた時と似ている。

けれど、あの時よりずっと早く、ずっとはっきりと見える。

右から来た前脚の下を、一歩でくぐる。

ヴィルマに毎晩百回、すねを叩かれて覚えた足運びが、今は一歩で懐まで届き、一歩で間合いの外へ抜ける。

魔物が振り返った時には、もうそこにはいない。

後ろへ回り、横へ抜け、また懐へ。

長い前脚が、何度も空を切る。


追われているのは、もう自分ではなかった。


薙いできた前脚に琥珀色の刃を合わせても、刃は砕けず、靄の退いた跡をすっと通っていく。

さっきは岩を叩いたようだった硬い体が、手応えもなく裂けていく。

長い指を、前脚を、一筋、また一筋と斬り裂くたびに、魔物は一歩、また一歩と、泥の上を押し戻されていく。

斬られた所から靄が薄れて、もう元のようにはまとわりつかない。

傷の下の目が、初めて、カイの刃から逃げるように揺れた。


押し戻されながら、その目が一瞬、カイの背後へ流れる。

泥の上に膝をついた、アプリコット色の髪のほうへ。

カイは一歩でその視線の先へ回り込み、刃を構えて立ちふさがった。

そっちへは、行かせない。


濁った唸り声を上げて、魔物がもう一度前脚を振りかぶる。

その一瞬に開いた胴は、初めてあいつに一太刀を入れた時と、同じ隙だ。

懐へ飛び込んで膝を斬ると、大きな体が、前のめりに崩れてくる。

その体へ、岩を蹴って駆け上がるように跳ぶ。

目の前に、狼の頭と、鼻面から片目の上へ斜めに走る、あの傷。


あの日、途中までしか入らなかった線を、今度は最後まで。


琥珀色の刃が、傷の線をなぞって、まっすぐに斬り抜けた。


魔物は濁った声を長く引いてのけぞり、泥の上に崩れ落ちる。

黒い靄がほどけるように薄れていき、体ごと暗がりに溶けて消えた後には、こぶしほどの魔石が一つ、泥の上に転がっているだけだった。

刃の光が、ゆっくりと引いていく。




通路が、静かになった。

自分の荒い息の音だけが、やけに大きく聞こえる。

カイは、手の中の短剣を見下ろした。

もう光っていない。

けれど、刃は、まだほんのりと温かい。


振り返ると、フィーネが泥の上にへたり込んでいた。


「神様!」


駆け寄って、膝をつく。


「怪我は。どこか、打ったりしてませんか」


フィーネは、ふるふると首を振った。

その目は、カイの顔ではなく、カイの手の短剣に向けられている。

琥珀色の目が、まんまるに見開かれていた。


「……光った」


「さっきの、神様の力ですか」


フィーネは、すぐには答えなかった。

ほんの一呼吸、黙って、短剣を見つめる。

それから、小さく頷いた。


「……うん。たぶん、そう。私の」


あれは、夕焼けの色だった。

神様の目と、同じ色だ。

だったら、きっと、そうなのだろう。


聞きたいことは、山ほどあった。

どうして、迷宮に入ってきたのか。

この短剣は、どこから来たのか。

なぜ、自分の手に、こんなにもなじむのか。


けれど、口から最初にこぼれたのは、どれでもなかった。


今朝、塔の下で、いってきます、と言った。

だから。


カイは顔を上げて、フィーネの目を、まっすぐに見た。


「……ただいま、帰りました」


フィーネの目が、くしゃりとゆがんだ。

唇がふるえて、何か言おうとして、うまく言えずに、一度ぎゅっと閉じる。

それから、泥だらけの手を伸ばして、カイの泥だらけの手を、両手で包んだ。


「……おかえり」


ぐしゃぐしゃの顔のまま、フィーネは笑った。


遠くの通路の先で、いくつもの明かりが揺れ始めていた。

人の声と、泥を跳ね上げて駆けてくる足音が、少しずつ近づいてくる。

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