第027話 アーベントロート
駆けつけてきた明かりの先頭にいたのは、髭面の男だった。
後ろには、ギルドで見かけたことのある冒険者たちが何人も続いている。
男は、泥の上にへたり込んだフィーネと、短剣を握って立つカイと、その足元に転がるこぶしほどの魔石を、順に見た。
それから、通路の奥の暗がりを照らして、何もいないことを確かめる。
「……坊主が、やったのか」
返事の代わりに頷くと、男は長い息を吐いて、それきり何も聞かなかった。
帰り道、カイはまた肩を貸された。
けれど、八日前とは違って、足は自分で前に出る。
一段ずつ階段を上りながら、隣でフィーネが冒険者に支えられているのを、何度も振り返って確かめた。
地上に出ると、そのままギルドの窓口へ戻った。
カウンターの向こうで、イルゼがいつものように羽根ペンを取る。
三階層。ファウストヴォルフ。通常より大型の個体。顔に傷。討伐。負傷は打ち身と擦り傷。
カイの話と髭面の男の証言を、イルゼは一つずつ確かめながら、淡々と書き留めていった。
泥まみれの大きな魔石は、確認のために預かると言われて、窓口の奥へ運ばれていく。
書き終えたイルゼは、ペンを置いて、カイの隣に顔を向けた。
「アンファング主神、フィーネ様」
「……はい」
「神の迷宮への立ち入りについて、上からの通達をお伝えします。明日より一か月、ギルドでの無償の労働を命じます」
一か月。
無償の労働。
カイの顔から、血の気が引いた。
神様を、ただで一か月も働かせる。それは、どれくらい重い罰なのだろう。
「えー、一か月もー?」
フィーネが言いかけたのと、カイが口を開きかけたのと、ほとんど同時だった。
「規則ですので」
イルゼの声は、少しも揺れなかった。
「あの、神様は、俺を助けるために——」
「その点も、記録してあります」
イルゼは記録から目を上げないまま、そう言った。
それ以上は、何も付け足さない。
隣で、フィーネがぽんと手を打った。
「じゃあ、イルゼちゃんの下で働くってこと?」
「さん、でお願いします」
「よろしくねー、イルゼちゃん」
「さん、でお願いします」
いつもの往復を聞きながら、カイはようやく、肩から少しだけ力が抜けていくのを感じていた。
塔の部屋に戻った時には、夜もすっかり更けていた。
ランプに火を入れて、桶の水で泥を拭き合う。
カイの背中に布を当てたフィーネが「うわー、真っ青」と声を上げ、カイはフィーネの頬についた泥を、絞った布でそっと拭う。
どちらも、口を開くのもやっとなくらい、くたくただった。
窓辺のクッションに並んで腰を下ろすと、カイは膝の上の短剣に目を落とした。
黒い鞘。
鞘の口に刻まれた、アンファングの文字。
白っぽい木の柄。
迷宮の中で山ほど浮かんだ問いのうち、一つだけを、やっと口にする。
「神様。この短剣は、どこから」
フィーネは、少しだけ照れくさそうに、膝を抱えた。
「窓辺でさ。カイが、強くなりたいって言ったでしょ」
「……はい」
「その次の朝にね、武器屋さんに行って選んだの。鞘も、頼んで。お代は、頼まれごとで」
指先を、ひらひらと振ってみせる。
「手紙を書いたり、古い書きつけを読んであげたり。そういうの、けっこう頼まれるんだー」
言葉が、出てこなかった。
毎朝の、頼まれごと。
日が暮れてからの帰り道。
匙を持ったまま止まっていた手。
指先の、インクの染み。
全部、この短剣のためだった。
「……俺」
カイは、短剣を握ったまま、うつむいた。
「神様が、俺の代わりに稼ぎに出てるんだと思ってました。俺が窓辺で、あの話をしたから。前と同じ暮らしだって言われてるのを、気にして。……言わなければよかったって、ずっと」
フィーネの目が、まんまるになった。
それから、ぷっと吹き出した。
「あはは、なにそれー!」
「わ、笑わないでください」
「だって……ふふっ、半分は当たってるよ。稼いでたのは、ほんとだし」
笑いながら、フィーネは目の端を指で拭った。
「でもね、カイのため。私のためじゃなくて、カイのため」
カイは、何も言えなかった。
頬が、かっと熱くなる。
それなのに、肩のどこかが、ふっと軽くなっていく。
フィーネは膝を抱え直して、短剣のほうを見た。
「それとね。私、加護はあげられないでしょ」
「……はい」
「でも、物にちょっとだけ、力を込められるの。だから、その子は折れないし、カイにだけ、軽い」
さっきの迷宮で、刃をつかまれても、きしみもしなかった。
重さを、まるで感じなかった。
「じゃあ、さっき光ったのも」
「うん。たぶん、それ」
カイは、手の中の短剣を見下ろした。
神様の力が、ここに込められている。
「それ……神様の体は、大丈夫なんですか。力を込めるのって」
「へーきへーき」
フィーネは笑った。
笑う前に、ほんの一瞬だけ、その目がランプの火に落ちた気がした。
けれど、次の瞬間にはもう、いつもの顔でこちらを見ている。
「ちょっと疲れたくらい。寝れば治るよー」
カイは、もう一度、短剣を見た。
隣の卓の声が、頭の奥で遠く聞こえる。
気の毒に。前と同じだ。
その上から、いくつもの声が重なっていく。
——カイがいること。
——戻ってこられたんなら、上等だ。
——守られるのは、恥じゃないよ。
窓辺で、店で、裏の空き地で。
みんな、同じことを言っていたのかもしれない。
「……神様。本当に、困ってないんですね」
「最初から、そう言ってるでしょー」
フィーネが、頬をふくらませる。
その顔を見て、今度は、すとんと胸に落ちた。
この人は、本当に、困っていない。
それを、そのまま信じられた。
一人で、全部背負わなくてもよかったのだ。
「でね」
フィーネが、急に背筋を伸ばした。
さっきまでのしんみりした空気が、どこかへ消えている。
「その子の名前ね、もう考えてあるんだー」
嫌な予感がした。
ずっと前にも、まったく同じ響きの声を聞いた気がする。
窓口の前で。シャールの名前を決める時に。
「鞘ができるまで五日あったでしょ? その間、ずーっと考えてたの。いい? 発表するよー?」
フィーネは、短剣に向かって両手を広げた。
「『フィーネちゃんの愛がいっぱい詰まった、カイ専用のぜーったい折れない剣』!」
ランプの火が、小さく揺れた。
ちゃん。
自分で、ちゃん。
愛がいっぱい。
しかも、長い。迷宮の中で呼べる長さではない。
「どう? 気持ちがぜんぶ入ってるでしょー!」
本気で、会心の出来だと思っている顔だ。
カイは、真顔でフィーネのほうを向いた。
「……またですか」
「またって何!?」
「またです」
「むー……! 五日も考えたのにー!」
フィーネは、クッションに顔をうずめて、じたばたと足を動かした。
しばらくそうしてから、顔を上げる。
今度は、窓の外を見ていた。
夜の街の向こうの、もう見えない西の空のほうを。
「……光った時さ。夕焼けみたいな色だったよね」
「はい」
「初めて会ったのも、夕焼けの広場だった」
フィーネは、膝の上の短剣に、そっと指を置いた。
「アーベントロート」
「アーベントロート?」
「古い言葉でね、夕焼けって意味なの」
カイは、短剣を見下ろした。
黒い鞘に刻まれた、アンファング。
その中に収まっている、アーベントロート。
「……それなら」
カイは、頷いた。
「いい名前だと、思います」
「でしょー!」
フィーネが、満面の笑みで胸を張った。
「ロートって呼んでもいいからね。短くて、呼びやすいし」
「最初の名前、呼びやすさのこと一つも考えてなかったですよね」
「それはそれー」
二人で、声を上げて笑った。
笑うたびに背中の打ち身が痛んで、それでも、なかなか笑いは止まらない。
それから数日が経った。
背中の打ち身がおおかた引いた朝、カイはいつものように、ギルドの窓口へ顔を出す。
潜る前には、必ず窓口に寄る。
腰には、黒い鞘のアーベントロート。
「アンファング、カイ・アッシュグレイ。本日の予定を——」
言いかけて、口が止まった。
カウンターの向こうに、ギルドの制服の上着を羽織って、袖を肘までまくった人がいる。
書類の束を両腕に抱えて、イルゼの後ろを右へ左へと行き来している。
アプリコット色の、ツインテール。
向こうも、こちらに気づいて、ぴたりと止まった。
「……あ」
「……神様」
「カ、カイ!? なんでこの時間!?」
「いつも、この時間です」
フィーネは書類の束をどさりと机に置くと、ぱっとカウンターに身を乗り出した。
「いらっしゃいませー! ご用件は——」
「フィーネ様は、こちらの記録の整理をお願いします」
イルゼが、振り返りもせずに、別の書類の山を指さした。
古い紙の束だ。端が茶色く変色して、文字もかすれている。
「えー。せっかくカイが来たのにー」
「古い記録を読める職員が、ほかにいませんので」
「……イルゼちゃん、私のこと頼りにしてる?」
「さん、でお願いします」
フィーネはむくれながらも、どこか得意げな顔で書類の山へ戻っていった。
古い紙をめくる手つきは、思いのほか慣れている。
イルゼが、カイのほうに向き直った。
「失礼しました。本日の予定をどうぞ」
「三階層です。階段の見える所から、少しずつ」
イルゼのペンが、さらさらと動く。
「見える所、ね」
書類の山の陰から、フィーネの声が飛んできた。
「……はい。見える所です」
カイが振り返って答えると、フィーネは紙の束の上から顔を半分だけのぞかせて、にっと笑った。
その時、ふと視線を感じて、前を向く。
イルゼの口元が、ほんの少しだけ、緩んでいた。
「え」
思わず見返した時には、もう、いつもの表情に戻っている。
灰青色の目が、淡々とこちらを見ていた。
「……何か」
「いえ」
今のは、何だったのだろう。
首をかしげながら記録の控えを受け取って、カイは窓口を離れた。
迷宮の入り口へ向かう背中に、カウンター越しの声が追いかけてくる。
「カイ、いってらっしゃーい!」
「フィーネ様。業務中です」
カイは、振り返って小さく手を上げた。
「いってきます」
柵をくぐって、石段に足をかける。
腰の左側で、重さのない短剣が、静かに揺れていた。




