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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
作戦屋の少女

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第028話 手紙

ギルドの奥の記録室は、古い紙の匂いがする。


壁際の棚には、端の茶色くなった紙の束が、天井近くまで積み上がっている。

束をほどけば、ほこりがふわりと舞う。

誰がいつ書いたのかも分からない、かすれた字の書きつけばかりだ。


その山の前の机で、アプリコット色のツインテールが、楽しそうに揺れていた。


「これは迷宮の入り口の修繕の記録でー、こっちは……あ、誰かの借金の覚え書きだ。返したのかなー、この人」


フィーネは紙を一枚めくるたびに、中身を読み上げて、左右の箱へ振り分けていく。

指の動きに、迷いがない。


向かいの机では、年配の男の職員が、さっきから同じ書類を三度めくり直していた。

目だけが、ちらちらとこちらへ来る。

神様が、袖をまくって机に向かっている。

どこを見て仕事をすればいいのか、分からないらしい。


「あの……フィーネ様。お疲れでしたら、どうぞお休みに」


「へーきへーき。それより見て、この字。三百年くらい前の書き方だねー。ほら、この跳ね方とか、今は誰もしないでしょ」


「は、はあ……」


男の職員は、身を乗り出しかけて、やめた。

目を細めてはみるものの、首がかしぐばかりだ。


そこへ、扉が開いた。


ほつれ一本ないシニヨン。白いシャツに黒のベスト。

イルゼは仕分け終わった箱から何枚か抜き取ると、黙って目を通していく。

羽根ペンの先で、一行ずつなぞって確かめる。


「……問題ありません」


紙を箱に戻すと、イルゼは隣の棚から、ひと抱えもある束を下ろした。

どさり、と机が鳴る。


「次は、こちらをお願いします」


「えー、増えてるー」


「午前の分が、予定より早く終わりましたので」


それだけ言うと、イルゼはもう扉のほうへ向き直っている。


「あ、待って待って、イルゼちゃん」


「さん、でお願いします」


「今朝のカイ、見たでしょ? 『いつも、この時間です』だって。あんな真面目な顔で言うんだよ? 笑っちゃいそうだった」


「見ました。三階層。予定どおりの申告でした」


「そういう話じゃなくてー」


「ご用件は、以上でしょうか」


扉が、ぱたんと閉まった。


フィーネは頬をふくらませて、それから、新しく増えた束の一番上をめくる。

口元は、どう見ても笑っていた。




昼の鐘が鳴ると、男の職員はほっとしたように席を立った。


一人になった記録室で、フィーネはパンをかじりながら、小さな窓のほうへ顔を向ける。

窓の外には、ギルドの石壁と、その横の、迷宮の入り口の柵が見えていた。

今朝、あの子が手を上げてくぐっていった柵だ。


パンを持つ手が、少しだけ止まる。


フィーネは窓から目を戻して、三百年前の誰かの借金の続きを読み始めた。




三階層の空気は、地上よりいくらか湿っている。


階段からあまり離れずに、カイはシュラムクレーテを一匹、ネーベルモッテの群れを一つ、片づけた。

数日ぶりの迷宮なのに、体が思ったより軽い。

腰の短剣に重さがないせいだろう、とカイは思う。

神様の力が込められている短剣だ。振るたびに、手首が楽で仕方がない。


まだ、いけそうな気がする。


だから、そこで引き上げることにした。

その時が帰る時だと、ヴィルマに教わっている。




夕方、カイはターフェルの戸の前で、しばらく立っていた。


最後にここへ来たのは、指南の再開を頼んだ日だ。

その翌日にあれがあって、それきり打ち身が引くのを待つばかりで、顔を出せていない。

迷宮でのことは、もう噂で伝わっているだろうか。

伝わっているとしたら、どんなふうに。


考えていても仕方がない。

カイは戸を押した。


帳場のロッテが顔を上げて、目をまんまるにする。


「カイ!」


店じゅうに響く声だった。

夕飯どきの常連たちが、何人か振り返る。


「父さん、カイ! カイが来た!」


「聞こえてる!」


厨房から、ブルーノがのしのしと出てきた。

前掛けで手を拭きながら、カイの前に立つ。

頭のてっぺんから、足の先まで。

それから、目がもう一度、顔に戻ってくる。


「……座れ」


低くそう言うと、ブルーノは厨房へ戻っていった。


カイが隅の卓に腰を下ろすと、ロッテが水を置きながら、向かいの椅子を引いて座る。

帳場は、空っぽのままだ。


「で? 何があったの。噂だと、三階層で大きいのを倒したとか、倒してないとか」


「……倒しました。たぶん、噂のやつです」


カイは、短く話した。


前に短剣を折られた、顔に傷のある魔物に、もう一度会ったこと。

前よりずっと大きくなっていて、持っていた短剣は、また砕けてしまったこと。

そこへ神様が来てくれて、神様が用意してくれていた短剣で、倒せたこと。

それから、ちゃんと帰ってきたこと。


話しているあいだに、ブルーノが皿を持って戻ってきた。

ことり、と置かれた皿の上で、肉と芋が山になっている。

注文は、していない。


「父さん、それ大盛りの倍くらい——」


「うるせえ。食え、坊主」


ブルーノはカイの頭を、大きな手で一度だけがしがしと撫でた。

何か言うのかと思ったら、そのまま背中を向けてしまう。

厨房へ消える前に、ふん、と鼻を鳴らす音だけが聞こえた。


ロッテは呆れたように父親の背中を見送ってから、くるりとカイに向き直る。

目が、さっきとは別の光り方をしていた。


「ねえ、それより。神様がギルドで働いてるって噂、本当なの?」


「……本当です」


「ほんとに!? 神様が!? 何してるの、窓口?」


「奥で、古い記録の整理を。迷宮に入った罰で、一か月」


「へえー……。古い記録って、読めるんだ。うちの帳面も、ついでに見てもらえないかなあ」


「ロッテ。聞こえてるぞ、帳場はどうした」


厨房からの声に、ロッテは「はいはい」と立ち上がった。

それでも、去りぎわに肉の皿をカイのほうへ押し出していく。


一口食べると、温かさが、腹の底まで落ちていった。




二口目を飲み込んだところで、裏口の戸がきしんだ。


前掛けの紐を結びながら、ヴィルマが入ってくる。

カイを見つけて、足を止めた。


いつものように笑うのかと思ったら、ヴィルマは笑わなかった。

カイの腰の黒い鞘を見て、それから、卓の前で背筋を伸ばしたカイを、もう一度見る。

迷宮帰りの客を見る時の、あの目だった。


「……立ち方、前に戻ってるね」


「背中の打ち身も、もうほとんど引きました」


「そうかい」


ヴィルマは、カイの向かいに腰を下ろした。

ロッテの空けた椅子だ。


「三階層で、でかいのとやり合ったんだって? 昼間、常連から聞いた」


「はい。……でも、向こうから来て。一人じゃ、どうにもならなくて」


カイは、皿の縁に目を落とした。

それから、顔を上げる。


「神様が来てくれなかったら、たぶん、帰れてません。助けてもらいました」


前の自分なら、そこで黙っていただろう。

助けられたことを、口に出すのが嫌だった。

今は、言える。


ヴィルマは、少しのあいだ何も言わなかった。


「……そっか」


肩から、ふっと力が抜けるのが見えた。


「よく帰ってきたね、カイ」


声は、いつもより少しだけ低い。


ヴィルマの目が、一瞬だけ厨房のほうへ流れた。

湯気の向こうで、ブルーノが鍋を振っている。

すぐに、目はカイのほうへ戻ってきた。


「明日から、足運びは前と同じ百回ね。休んでた分、すねが鈍ってるだろうし」


「……はい」


いつもの、からりとした笑い方に戻っていた。




食べ終えるころ、ラウホが小鉢を一つ持って、ふらりと卓に寄ってきた。


「やあ、君か。ちょうどいい。これを一口」


赤い煮汁に、何かの根菜が沈んでいる。

言われるまま一口すすって、カイは、どう言えばいいのか迷った。

甘い。そのあとから、すっぱい。そのあとから、もう一度甘い。


カイの顔を見るより先に、ラウホは自分でも匙を入れていた。


「……酸が、甘さの後ろから追いかけてくるな。順番が逆だ。いや、そもそも果実を入れたのが間違いか」


ラウホは小鉢を盆に戻して、肩をすくめた。


「今日は、私の負けだ。忘れてくれ」


「ラウホ様! またお客さんで試して!」


ロッテの声を背中に浴びながら、ラウホは小鉢を抱えて厨房へ戻っていく。

カイは、こらえきれずに笑った。


この店で笑ったのは、ずいぶん久しぶりな気がする。




塔の部屋に戻ると、夜はもうすっかり冷えていた。


窓枠が、風に小さく鳴っている。

ランプに火を入れて、カイは木箱の前に腰を下ろした。


帰り道に、雑貨屋で便箋を一枚だけ買ってある。

ペンとインク壺は、神様のものを借りた。

頼まれごとの手紙を書くのに、神様が使っていたものだ。


便箋を広げて、ペンをインクに浸す。


——たまには手紙を書くこと。いい?

——母さんたちにだけじゃなくて、あたしにも。


村を出る前に、母さんに言われた。

出発の前の日には、グレタにも念を押された。

グラナートに来てから、もう二か月あまりになる。

一度も、書けていなかった。


書けることが、なかったからだ。

加護なしだと言われて、どこのシャールにも入れなかった。

迷宮で、魔物に折られた短剣。

街で、神様の暮らしが前と変わらないと噂されていた。

どれを書いても、村のみんなの顔が曇るだけだ。


ペン先から、インクが一滴、便箋の端に落ちる。


カイは、しばらく考えてから、書き始めた。




グレタへ。


手紙が遅くなって、ごめん。俺は元気にしています。


グラナートで、神様に会いました。

その神様と二人だけで、シャールを作りました。名前はアンファング。古い言葉で、始まりという意味だそうです。

よく行く飯屋があって、皿がいつも山盛りです。ギルドの窓口には、きちんとした人がいて、毎朝そこに寄ってから迷宮に入っています。


まだ、強くはないです。

でも、帰ってくる場所があります。




そこまで書いて、ペンを止めた。


本当は、もっと書くことがあるのかもしれない。

けれど、読み返してみると、これで嘘は一つもなかった。


「なになにー、何書いてるのー?」


真後ろから、声が降ってきた。


「うわっ!?」


カイは反射的に、便箋の上に両手をかぶせた。

振り返ると、ギルドの上着を腕にかけたままのフィーネが、肩越しにこちらをのぞき込んでいる。

いつの間に戸を開けたのか、まるで気づかなかった。


「お、おかえりなさい」


「ただいまー。で、それ手紙? 誰に? 村の子?」


「……グレタです。幼なじみの」


「あー、前に言ってた、魔物をやっつけた子!」


フィーネはしゃがみ込んで、カイの手の下からのぞく便箋の端を、じっと見つめた。


「ねえねえ、私のことも書いてくれた?」


「……書きました」


「なんて?」


「神様に、会いました、って」


「それだけ!?」


フィーネが、がばっと身を乗り出した。


「もっとあるでしょー! すっごくかわいいとか、頼りになるとか、ご飯の時に器を並べてくれるとか!」


「それ、手紙に書くことですか」


「細かいことはいいの! ほら、ちょっとだけ見せて。一行だけ、私が書き足してあげるから」


「駄目です」


「なんでー!」


便箋の上に手を置いたまま、カイは体ごと横を向いた。

フィーネは反対側へ回り込もうとして、カイはまた向きを変える。

ランプの火が、二人のあいだで落ち着きなく揺れた。


「……もう、けちー」


やがてフィーネは、ぷうっと頬をふくらませたまま、窓辺のクッションに倒れ込んだ。


「いいもん。返事が来たら、私が先に読むから」


「それも駄目です」


「むー」


不満そうな声は、そのうち小さなあくびに変わった。

古い紙の山と、一日じゅう向き合ってきたのだ。

腕から落ちた上着をかけてやると、もごもごと何か言って、すぐに寝息が聞こえてくる。


カイは、ゆっくりと手をどけた。

便箋の端に、小さな指の跡がついている。

のぞき込まれた時に、どこかで押さえられたらしい。


ペンを持ち直して、カイは一番下に、もう二行書き足した。




父さんと母さんにも、これを読んでもらってください。ルッツには、こっちも負けずにやってる、と。

ミルデ様にも、よろしく。


カイより。




インクが乾くのを待って、便箋を丁寧にたたむ。

糊で封をして、表に村の名前と、グレタの名前を書いた。


木箱の上には、木の器が二つ。

真鍮のランプ。

一本目の、折れた柄。

その隣に、黒い鞘のアーベントロート。


カイは封をした手紙を、アーベントロートの隣にそっと置いた。


明日の朝、乗り合い馬車の停留所へ持っていこう。

村まで、何日かかるのだろう。

グレタは、どんな顔で封を開けるだろうか。

きっと、短すぎると怒る。それから、たぶん、少しだけ笑う。


ランプに手を伸ばしかけて、カイは窓の外に目をやった。


冷えた夜の底で、グラナートの灯りが、まばらに瞬いている。

窓辺で吐いた息が、うっすらと白い。


もうすぐ、冬が来る。

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