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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
作戦屋の少女

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第029話 帰ってくるための装備

朝の停留所は、吐く息が白い。


城門の内側の広場に、幌をかけた馬車が三台並んでいる。

馬の鼻から上がる湯気と、荷を積む男たちの掛け声。

二か月あまり前、カイはここで馬車を降りた。

幌の隙間から見上げた城壁の長さに、口を開けたまま立ち尽くした場所だ。


懐の手紙を上着の上からそっと押さえる。


「エッシェ村? ああ、それなら途中で回るよ」


一番端の馬車の御者は、封の宛名を読んで、あっさり頷いた。

厚い外套の襟を立てた、日焼けした男だ。

代金の銅貨を何枚か渡すと、御者は手紙を革の袋に差し込み、口の紐をきゅっと締める。


「濡らさねえように運ぶさ。何日かはかかるがな」


「お願いします」


頭を下げて、それで終わりだった。

二か月書けなかった手紙が、紐ひとつで、もう自分の手を離れている。

拍子抜けするくらい、あっけない。


隣の馬車から、大きな荷を背負った旅人が降りてきた。


「よう。そっちの道はどうだった」


「静かなもんさ。……と言いてえとこだがな。こないだ、峠の手前で一匹見た。畑の柵の外を、のそのそ歩いてやがった」


「またかよ。こっちの街道でも、先月出たって聞いたぞ」


「前は、何年かに一度聞くかどうかって話だったのになあ」


「物騒になったもんだ」


旅人は肩をすくめて、荷を担ぎ直す。

御者もそれ以上は何も言わず、馬の首を軽く叩いていた。


カイは、その場から動けなかった。


防風林の暗がり。白く濁った目。

弾き飛ばされて、土の上から見上げた、二つの背中。

ルッツが前に出て、グレタが横へ回り込んで、自分は立ち上がることさえできずにいた。

あの秋の日が、急に近くなる。


胸の奥が、小さくざわついた。


村は、大丈夫だろうか。


……考えても、どうにもならない。

村にはミルデ様がいるし、ルッツもグレタもいる。あの二人は、自分よりずっと強い。

それに、手紙はもう御者の袋の中だ。


せめて、元気でやっていることだけでも、届けばいい。


御者が手綱を取ると、車輪がきしんで、馬車がゆっくりと動き出す。

幌が門の向こうに見えなくなるまで見送ってから、カイはギルドのほうへ歩き出した。




ギルドの窓口は、朝の混み合いが一段落したところだった。


「おはようございます。今日は、三階層の——」


「その前に」


イルゼが、手元の書類から目を上げた。

引き出しから小さな布袋を取り出して、台の上に置く。


「先日お預かりした魔石の確認が、済みました。こちらが買い取りの分です」


「え……」


すっかり忘れていた。

傷のある魔物が残した、こぶしほどの魔石。

確認のためと言われて、預けたきりになっている。


袋を手に取ると、いつもの買い取りより、少しだけ重い。


「通常より大型の個体でしたので、普段の三階層の魔石よりは、値がついています」


「ありがとう、ございます」


袋を懐にしまいかけたところで、イルゼが別の綴りを開いた。

アンファングの記録だ。

登録した日には紙一枚だったものが、いつの間にか指の厚みほどになっている。


イルゼは羽根ペンの尻で、一枚ずつめくっていく。


「三階層、ファウストヴォルフ。一度目の記録です。負傷、肩と背中の打撲。腕の傷」


ペンの尻が、次の紙で止まる。


「二度目。打撲と擦り傷」


並べて読み上げられると、ずいぶんな数に聞こえる。

カイは、台の前で少しだけ肩をすくめた。


「アッシュグレイさん」


「はい」


「ギルドは、冒険者の装備について、何かを指示する立場にはありません」


イルゼは、綴りを閉じた。


「ですので、記録から言えることだけを申し上げます。これらの負傷のうちいくつかは、防具があれば軽く済んだ種類のものです」


「……防具」


「毎朝、こちらの前に立たれるのを見ていますが、防具を着けてこられたことは、一度もありません」


言われて、カイは自分の体を見下ろした。


母さんが仕立ててくれた、灰がかった茶色の服。

その上に、肘を繕った上着。

腰に、黒い鞘。

それで全部だ。


「三階層の記録がある冒険者で、防具なしで潜り続けている方は、私の見ている記録の中には、ほかに見当たりません」


「今後、潜る範囲を元に戻す、あるいはさらに下を考えられるのでしたら、防具をそろえることをお勧めします」


灰青色の目が、カイの懐のあたりへ移った。


「本日の買い取りの分は、ちょうどその足しになる額です」


カイは、すぐには言葉が出なかった。


短剣のことは、ずっと考えてきた。

刃こぼれのたびに研ぎ代を数えて、折れるたびに買い直して。

もっと切れる刃があれば、もっと稼げる。もっと戦える。

頭にあったのは、いつも、どうやって倒すかばかりだ。


倒されないための物のことは、一度も考えたことがない。


「……考えたこと、なかったです」


「そうだろうと思っていました」


「防具!?」


奥の扉が勢いよく開いて、アプリコット色の頭がのぞいた。

腕には、古い紙の束を抱えたままだ。


「いいねいいね、防具! かっこいいやつにしよー! ぴかぴかで、こう、肩のとこがとがってるやつとか!」


「フィーネ様。業務中です」


「はーい……」


扉が、名残惜しそうにゆっくり閉まっていく。

閉まりきる直前、隙間から「とがってるやつね!」と声だけが飛んできた。


イルゼは何事もなかったように、羽根ペンを持ち直す。


「本日のご予定は」


カイは少し考えて、首を振った。


「今日は、潜らないことにします。武器屋に、行ってみます」


「承知しました」


申告の欄に、イルゼは短く一語だけ書き入れた。


なし。




大通りから一本外れた通りの、交差した剣の看板。

昼過ぎの武器屋には、相変わらず客の気配がない。


扉を押すと、作業台の向こうで、白髪まじりの頭が上がった。

店主の目がカイの顔に来て、それから、腰の黒い鞘に一度だけ下りる。

すぐに、顔へ戻ってきた。


何も、聞かれない。


「……今日は、何だ」


「防具が、欲しいんです」


店主は黙って立ち上がると、作業台を回ってきた。

カイの前に立ち、肩、腕、腰、膝と、順に見ていく。

最初にこの店へ来た日と、同じ目だ。


「まっすぐ立て」


言われて、踵をそろえる。

店主は少し下がって、カイの足の置き方を眺め、鼻から短く息を吐いた。


「鎧は、いらん」


壁際で鈍く光る、全身を覆う鎧を、店主はあごで指す。


「着られねえことはねえ。だが、あれを着たら、お前は走れなくなる」


それきり鎧には目もくれず、店主は棚から順に品を下ろしていった。


薄い鉄板を何枚か重ねて、革の裏地に留めた胸当て。

手の甲から肘の手前までを覆う、細い板を連ねた籠手。

すねの前だけを守る、ゆるく反った脛当て。


どれも、思っていたよりずっと小さい。


「……これだけ、ですか」


「全部は守れねえ」


店主が、胸当てを指で弾いた。

こん、と乾いた音がする。


「胸と腹は、もらったら起き上がれん。腕は、受ける所だ。すねは、やられたら歩けん」


それから、カイの顔を見る。


「背中を向けて、自分の足で帰れる所だけ守れ。ほかは、かわせ」


ヴィルマに教わった引き際も、いつも、帰れるかどうかだった。

この人は、同じことを、鉄で言っている。


倒すための刃とは違う。

これは、帰ってくるための装備だ。


「……おいくら、ですか」


店主の告げた値を聞いて、カイは懐から袋を二つ出した。

これまで少しずつ貯めてきた分と、今朝、窓口で受け取った分。

両方を、作業台の上に空ける。


店主はそれをちらりと見て、籠手を一組、脇へよけた。

棚から別の籠手を取り、置き直す。

板の数が、さっきのより少しだけ少ない。


「あの、それ」


「同じ鉄だ。手首が、少し動く」


説明は、それだけだった。

店主は作業台の上のものを、数えもせずにまとめて引き寄せる。


「腕を上げろ」


胸当てが当てられ、脇の下の革紐が締められていく。

太い指なのに、留め具を扱う手つきは驚くほど細かい。

一度締めては肩を回させ、緩めて、また締め直す。

籠手をはめ、脛当ての紐を膝の裏で結び、最後に、店主は胸当ての前を手のひらで一度叩いた。


ずしり、と重さが胸に乗る。


思わず、背筋が伸びた。


腰の短剣は、どれだけ振っても重さがない。

この胸当ては、ちゃんと重い。

けれど、肩にのしかかってくる重さとは、どこか違う。

寄りかかってもいい、と言われているような重さだ。


「動いてみろ」


店の中で、足運びを二、三歩。

板がかすかに鳴るだけで、足は思ったとおりに前へ出る。


「……走れます」


「当たり前だ」


店主は、もう作業台に戻っていた。

背中を向けたまま、ぼそりと言う。


「へこんだら、持ってこい」




塔の部屋の床の隅に、胸当てと籠手と脛当てを並べる。


木箱の上は、もう空いていない。

木の器が二つ、真鍮のランプ、一本目の折れた柄、黒い鞘のアーベントロート。

寝台と木箱しかなかった部屋に、少しずつ物が増えていく。

とうとう、床にまではみ出してしまった。


戸が開いたのは、夜もだいぶ更けてからだ。


「ただいまー……今日の紙、ぜんぶ虫に食われててさー……」


上着を腕にかけたフィーネが入ってきて、床の隅で、ぴたりと止まった。


「あーっ!」


「お、おかえりなさい」


「防具! ほんとに買ったんだ!」


フィーネは上着を放り出して、床の隅にしゃがみ込む。

胸当てを持ち上げ、ひっくり返し、裏地まで眺めてから、ぽつりと言った。


「……とがってない」


「とがってないです」


「まあいっか! ねえねえ、着けて見せて!」


断る理由も見つからず、カイは店主に教わったとおりに紐を締めていく。

胸当てを着けて立つと、フィーネは目の前にやってきて、こんこん、と拳で叩いた。


「おー、かたーい」


「叩かないでください」


「だって、いい音するよ?」


こんこん、こんこん。

叩くたびに、楽しそうに目を細める。


次に、床に置いたままの籠手を、自分の腕にはめてみた。

フィーネが腕を振ると、籠手は手首からずり落ちそうになって、かしゃかしゃと鳴る。


「見て見て、ぶかぶか。強そう?」


「……強そうでは、ないです」


「えー!」


ひとしきり騒いでから、フィーネは籠手を外して、もう一度、カイの前に立った。

今度は叩かない。

胸当ての、鎖骨の少し下のあたりに、手のひらをそっと当てる。


「ここ、私の紋様のとこだね」


フィーネは、手のひらを当てたまま、胸当ての上を見ている。


「……ちゃんと、守ってもらってる」


カイは、何と返せばいいのか分からなかった。

鉄板越しなのに、手のひらの当たっている所が、なんだか落ち着かない。

契約した日の夜、襟元を押さえて逃げ回ったことまで思い出して、顔が熱くなる。


「……見せませんからね」


「えー、まだ何も言ってないのにー」


フィーネはぱっと手を離すと、いつもの顔で笑った。

それから一歩下がって、カイを頭からつま先まで眺める。


「うん。似合ってる。ちゃんと冒険者っぽい」


「……そう、見えますか」


頬をかいて、自分の体を見下ろした。

灰がかった茶色の服の上に、鈍い色の胸当て。腕に籠手、すねに脛当て。

村を出た日の自分が見たら、誰だか分からないかもしれない。


防具を外して、床の隅に並べ直す。


胸当てと、籠手と、脛当て。

明日から、これを着けて潜る。


三階層の、その先。

もう少しだけ、下を考えてもいいのかもしれない。

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