第030話 四階層
胸当てを着けて潜るようになって、最初の二日は体が少しだけ重かった。
籠手の分だけ短剣を振る腕が一拍遅れる気がする。
胸当ての分だけ屈むのにも手間取る。
三日目には、もう気にならなくなっていた。
重さには体のほうが勝手に合わせてくれる。
シュラムクレーテの体当たりを籠手で受け流し、ネーベルモッテの群れを抜けて、気がつけば三階層を一回りできるようになっている。
防具と重さのない短剣があって、それに体が慣れてきたからだろう。
それから一週間ほどが過ぎた。
「四階層に下りてみたいんです」
夕方のターフェルで匙を置いてから、カイは切り出した。
「いいと思いますか」
向かいで芋の皮を剥いていたヴィルマは手を止め、ナイフを持ったままカイの顔をしげしげと眺めた。
「……カイがそれを聞いてくるとはねえ」
「え」
「なんでもない」
目を細めて、ヴィルマは剥きかけの芋を籠に戻した。
前の自分なら聞かずに下りていた。
今は決める前に誰かに聞ける。
「じゃあ、こっちからも聞くよ。三階層で合図は出てるかい」
「最近は出てません。出る前に上がるようにしてます」
「帰り道の分は」
「いつも残ってます。……残るように、早めに切り上げてます」
「一日の終わりに、足は」
「重くないです。塔の階段も普通に上れます」
ヴィルマは一つ答えるたびに小さく頷き、最後にカイの肩から膝までをざっと見る。
「装備も合ってきたみたいだね。立ってる時に体がぶれてない」
それから指を一本立てる。
「一日目は見に行くだけ。戦いに行くんじゃないよ」
「はい」
「それと、下りたらまず戻る道を頭に入れな。角を曲がるたびに振り返って、どっちから来たか確かめる。帰り道を何かにふさがれたらどうなるか、もう知ってるだろ?」
傷のある魔物が自分と階段のあいだに立った日を思い出して、カイは黙って頷いた。
「何が出るかは窓口で聞いときな。あたしは、四階層の今の様子までは知らないからね」
「四階層か」
厨房から出てきたブルーノが、どんと皿を置く。
焼いた肉がいつもより一枚多い。
「下りる前の晩は肉だ。決まってる」
それだけ言って、のしのしと厨房へ引き上げていく。
「決まってないでしょ、そんなの」
帳場から声を飛ばしたロッテは、そのままカイの胸当てをじろりと見た。
「その胸当て、もう傷が増えてきたじゃない。……で、結局いくらしたの。何回聞いても教えてくれないんだから」
「……言いません」
「けち。まあ、怪我して来なくなるよりは安いでしょ」
翌朝、ギルドの窓口に寄った。
「四階層です。初めてなので、今日は様子を見るだけにします」
イルゼは申告をそのまま書き留めると、羽根ペンを置いてカイのほうへ顔を上げた。
「四階層では、ハルクレーエという魔物が確認されています。黒い鳥で、天井近くにとまっていることが多い魔物です」
「鳥、ですか」
「一羽は弱い魔物です。ですが、鐘のように響く声で仲間を呼びます。数が増えると、足元と頭上の両方に気を配らなければなりません」
帳面の行を指で一つ下へ送って、イルゼは続けた。
「声を上げられる前に見つけること。それが一般的な注意です」
「四階層!?」
奥の扉からフィーネが飛び出してきた。
「フィーネ様」
名前を呼ばれただけで、フィーネは「はーい」と引っ込んでいく。
閉まりかけた扉の隙間で、ひらひらと手だけが揺れている。
カイは小さく手を振り返して窓口を離れた。
四階層は三階層とよく似ていた。
石の通路が続き、ところどころに洞窟が口を開けている。
壁がうっすらと光っているのも同じだ。
違うのは天井の高さで、見上げると、光の届かない暗がりが頭の上にぽっかりと広がっている。
角を一つ曲がるたびに振り返って、壁の割れ目や崩れた岩を、来た道の目印として一つずつ覚えていく。
二つ目の角を過ぎたあたりで、低い唸り声がした。
通路の先に、ケッセルヴォルフが三頭いる。
真ん中の一頭が正面で牙をむいて吠え立て、その陰で左右の二頭が壁沿いにじわりと回り込んでくる。
知っている群れ方だ。
カイは正面の一頭を放っておいて、左から回り込んでくる一頭へ踏み込んだ。
飛びかかってきた鼻先を籠手で払い、がら空きになった喉元へ短剣を入れる。
振り向きざま右の一頭の牙を半歩でかわして、首の付け根を斬る。
仲間が消えたのを見て、正面で吠えていた一頭が一瞬だけ足を止めた。
その一瞬で、三頭目の首にも刃が届く。
二階層で初めてこの群れに転ばされた日が、ずいぶん遠い。
「……慣れた、かな」
息を吐いて、魔石を拾おうと屈みかけた時だ。
頭の上で何かが動いた。
天井近くの岩の出っ張りに黒い鳥がとまって、ゆっくりと首をもたげている。
目が合った、と思った。
しまった、と思う間もない。
鐘を打ったような声が、通路いっぱいに響きわたった。
ごおん、と石の壁が震える。
耳の奥まで揺さぶられて、カイは思わず肩をすくめた。
羽音があちこちから集まってくる。
暗がりから暗がりへ黒い影が渡ってきて、天井の岩にとまる鳥は、あっという間に四羽になった。
そのうちの一羽が降ってくる。
とっさに籠手を上げると、くちばしが金属を叩いて硬い音が鳴る。
払いのけても、鳥はすぐに天井へ舞い上がる。
短剣を伸ばしても跳んでみても、刃は届かない。
入れ替わりに別の一羽が降りてくる。
通路の奥からは、鐘の声に引かれたケッセルヴォルフがもう二頭駆けてくる。
上を見れば、足元の狼が見えない。
狼を見れば、頭の上の鳥が見えない。
目は二つしかない。
くちばしが肩口をかすめ、胸当ての上でかつんと鳴る。
息はまだ上がっていないし、足も重くない。
アーベントロートは重くならないので、刃の合図は振る腕のほうで確かめる。
その腕も、まだ振るのを嫌がっていない。
それでも、今日は見に行くだけの日だ。
カイは飛びかかってきた狼を一頭だけ斬り払って、後ろへ下がった。
覚えてきた目印を逆にたどっていく。
帰り道には何も立っていない。
下りてきた所に一番近い角を曲がったところで、羽音がふっと遠のいた。
振り返ると、黒い影たちは天井の暗がりにとまったまま、こちらへは降りてこない。
追ってきたのは狼が一頭だけだ。
頭の上を気にしなくていいなら、もう怖い相手ではない。
踏み込んできた牙をかわし、すれ違いざまに脇腹を斬り払う。
狼が消えるのを見届けてから、カイは壁に背中を預けてようやく大きく息を吐いた。
籠手の甲には白い引っかき傷が何本も走り、胸当てにも小さなへこみが二つできている。
肩口の服が裂けて、その下が少しだけひりひりする。
防具がなかったら、どうなっていただろう。
へこみの一つを指でなぞる。
あの日、窓口で記録をめくっていたイルゼの声が、耳の奥で聞こえた気がした。
「戻ってきたのが正解だね」
夕方のターフェルでカイの話を最後まで聞き終えると、ヴィルマは短くそう言った。
「上と下を一人で両方見張れる奴なんていないよ」
頬杖をついて、ヴィルマはカイの籠手の引っかき傷を眺める。
「四階層から先は組んで潜るのが普通なんだ。一人が上を見て、一人が下を見る。数が多けりゃ後ろを見る奴もいる」
「組んで……」
「組める相手がいれば、だけどね」
カイは何か言おうとして口を開いた。
加護なしと組んでくれる人なんて——。
この街に来たばかりのころ、いくつのシャールの戸を叩いただろう。
加護がないと言うたびに、相手の顔から笑みが引いていった。
あれから何も変わっていない。
変わったのは神様と短剣と防具くらいのものだ。
カイは言いかけた言葉を飲み込んで、口を閉じた。
ヴィルマは芋の籠を膝に引き寄せて、次の一つにナイフを入れた。
ブルーノがやってきて、黙ってカイの皿に肉を一枚足していく。
店を出ると夜の空気が頬に冷たい。
白い息を吐きながら、塔へ続く道を歩く。
腰の短剣に手を置いてみる。
この刃は天井まで届かないし、目は上と下を同時には見られない。
組める相手なんて、と思う。
それでも、明日も窓口に寄ってから潜る。
鳥に見つかる前に見つけるやり方が、一人でも何かあるはずだ。




