第031話 作戦屋
四階層に下りると、カイはまず天井を見る。
足元より先に頭の上だ。
岩の出っ張りやひびの奥、光の届かない暗がりに黒い影が一つでもとまっていないか、ゆっくり目でなぞっていく。
それから靴の裏で石を探るようにして、足音を殺して進む。
見張りの一羽に先に気づけた日は、気づかれる前に来た道を戻って別の通路へ回る。
気づけなかった日は、首をもたげるのが見えた瞬間に下りてきた所まで下がる。
鐘の声を聞く前に下がれたのが二回。
聞いてしまってから慌てて下がったのが二回。
半分はうまくいって、半分はまだうまくいかない。
稼ぎは三階層にいた頃とたいして変わらなかった。
鳥を避けて回り道ばかりしていれば、魔物に会う数も減る。
届かない短剣を握ったまま天井の暗がりの影を見上げるたびに、喉の奥がむずむずする。
それでも、引き返すと決めて引き返せなかった日は一度もない。
それだけは毎晩寝る前に指を折って数えている。
その日、カイは四階層に入ってまだ間もない広い通路で足を止めた。
後ろのほうから人の声がする。
話し声と靴音、金具の触れ合う音。
一人ではない。
振り返ると、階段のほうから五人のパーティーが歩いてくるところだった。
前を行く四人は大人の冒険者だ。
使い込んだ革の鎧に剣や槍。
先頭の首の太い男がリーダーらしく、ほかの三人はその後ろを気安い調子でついていく。
その後ろに、もう一人いた。
小さい、と最初に思った。
大人たちの背中に半分隠れてしまうほどの背丈だ。
くすんだ麦わらのような色の髪が、肩の上で不ぞろいに跳ねている。
その髪の陰から、顎の細い女の子の横顔がのぞいた。
体に大きすぎる外套の袖は、何重にも折り返してある。
(……え。子ども?)
思わずまばたきをした。
加護の儀は十歳だから、子どもでも眷属にはなれる。
理屈では分かっている。
それでも、こんなに小さい子が四階層にいる。
少女は片手に端の擦り切れた手帳を、もう片方の手に短い炭筆を持っていた。
背中には、背丈に合わせたような短い弓が斜めに掛かっている。
通路の脇に寄ったカイを、パーティーの誰も気にしなかった。
追い越しざまにリーダーがちらりとこちらを見て、すぐ前へ向き直る。
どこかの駆け出しを見る顔だ。
少女だけが天井を見ていた。
歩きながらずっと少し顎を上げて、岩の出っ張りを一つずつ確かめている。
自分と同じことをしている。
ある割れ目を見上げたまま、少女が足をゆるめた。
「リーダー」
低く落ち着いた声だった。
まだ幼さの残る声なのに、少しも上ずっていない。
「この先の天井の割れ目に、見張りのハルクレーエが一羽います。真下を通ると鳴かれます」
リーダーは振り返りもしない。
少女は手帳を閉じて続けた。
「射落とすなら、気づかれていない今のうちです。少しだけ時間をください。それが嫌でしたら右の脇道を使いましょう。遠回りにはなりますが、見張りの目の届かない所を抜けられます」
「作戦屋は後ろで書いてりゃいいんだよ」
リーダーが面倒くさそうに手を振った。
「鳥の一羽や二羽、来たら斬りゃ済む話だ。遠回りしてる暇はねえ」
パーティーの一人が鼻で笑った。
少女はそれ以上何も言わず、手帳を開き直して炭筆の先を紙に当てる。
少女が見ていた割れ目を、カイも見上げた。
暗くてよく見えない。
けれど目を凝らすと、黒い塊が一つうずくまっているのが分かる。
本当に、いる。
パーティーはまっすぐ進んでいく。
割れ目の真下に、リーダーの足がかかる。
黒い塊が、首をもたげた。
「——っ」
声を上げる間もなかった。
ごおん、と鐘を打つ声が通路を揺らす。
天井のあちこちで黒い影が身じろぎした。
羽音が暗がりから暗がりへ渡って、集まってくる。
一羽目が降りてきて、パーティーの一人の肩をくちばしで打った。
「くそっ、ハルクレーエだ! なんだこの数!」
剣が空を切る。
鳥はすぐ天井へ戻り、入れ替わりに別の一羽が降りてくる。
通路の奥から低い唸り声が上がり、鐘の声に引かれたケッセルヴォルフが三頭、四頭と姿を見せる。
天井からは鳥、通路の奥からは狼。
初めて四階層に下りた日に、自分が挟まれたのと同じ形だ。
パーティーが崩れ始めた。
槍の男は鳥を払おうとして狼に足を取られ、リーダーは前の狼に手いっぱいで後ろを振り返る余裕がない。
どっちへ逃げるかを、誰も言わない。
少女はパーティーの一番後ろにいた。
手帳を外套の内側に押し込み、天井と通路を交互に見ている。
逃げ道を探している目だ、とカイは思った。
体のほうが先に動いていた。
「戻ってください!」
パーティーの後ろから声を張り上げる。
「下りてきた階段の近くまで下がれば、鳥は追ってきません!」
リーダーがちらりとこちらを振り返る。
誰だお前は、という顔だ。
それでもほかに当てがないのだろう。
舌打ちを一つして怒鳴った。
「下がれ! 後ろだ!」
カイはパーティーの脇をすり抜けて前へ出た。
槍の男の足に食いついていた狼の首を、横から斬る。
狼が消え、男が転がるように下がっていく。
頭の上で羽音がした。
とっさに籠手を上げると、くちばしが鉄を打って腕に硬い衝撃が走る。
払いのけて、また前を見る。
全部を相手にする必要はない。
下がる人たちと狼のあいだに立って、追いすがってくる一頭ずつを止めればいい。
一歩下がって斬る。
もう一歩下がって籠手で払う。
背中のほうで、パーティーの足音が遠ざかっていく。
二頭目の狼をかわした時、真上で羽音が膨らんだ。
見上げると、黒い影が一羽まっすぐこちらへ降ってくる。
籠手が間に合わない。
ひゅっ、と耳の横を何かが抜けた。
鳥が空中で弾かれたように傾き、羽をばたつかせて石の床に落ちる。
その胸に、短い矢が一本刺さっていた。
振り返ると、通路の少し後ろであの少女が弓を下ろすところだった。
目が合ったのは一瞬だけだ。
少女はすぐに背を向けて、パーティーの後を追って走っていく。
カイも二頭目の狼を斬り払って、後に続いた。
角を曲がり、見覚えのある目印を過ぎる。
階段に近い最後の角を曲がったところで、頭の上の羽音がやんだ。
振り返ると、黒い影たちは天井の暗がりにとまったまま、もう降りてこない。
鳥は、ここまでだ。
狼はそうはいかない。
角の向こうから、床を蹴る爪の音が二つ追いすがってくる。
飛びかかってきた一頭を籠手で受け流し、首筋に刃を入れる。
もう一頭の牙を半歩でかわして、すれ違いざまに脇腹を斬った。
頭の上を気にせずに済むなら、四階層の狼でも一頭ずつ片づけられる。
二頭とも消えたのを見届けて、ようやく大きく息を吐いた。
階段の前で、パーティーの四人は石の床に座り込んでいた。
肩で息をしながら、誰もが黙っている。
槍の男は食いつかれた足首を押さえて、顔をしかめていた。
カイも壁に手をついて息を整える。
最初に口を開いたのはリーダーだった。
「作戦屋」
カイのほうには目もくれず、少し離れて立っていた少女に低い声を向ける。
「作戦屋のくせに群れの数を読み違えやがって。おかげでこっちは死にかけたんだぞ」
少女は何も言い返さず、外套の内側から手帳を出して、炭筆で何かを短く書きつけた。
思わず口を開きかける。
見張りがいると言ったのはあの子で、回り道を言ったのもあの子だ。
真下を通ると決めたのは——。
けれどリーダーはもう立ち上がって、荷を担ぎ直している。
「おい、あんた」
パーティーの一人がカイに顎をしゃくった。
「どこのシャールだ」
「アンファングです」
男は眉を寄せた。
聞いたことがない、という顔だ。
「ふうん。うちはブリュッケだ」
男は少し胸を張ってその名前を口にした。
カイが知っていて当然、とでも言いたげに。
パーティーが階段を上っていく。
最後まで、誰の口からも礼の言葉は出なかった。
一番後ろを、あの少女が上っていく。
途中で足を止めて、一度だけこちらを振り返る。
灰がかった水色の目だった。
少女はカイを上から下まで眺めた。
胸当てと籠手と脛当て、腰の黒い鞘まで、値札でも確かめるような目つきで。
それから、カイの後ろの誰もいない通路にも目をやる。
手帳を開いて、ほんの二、三語炭筆を走らせる。
閉じた手帳を折り返した外套の袖の中へするりとしまうと、そのまま前を向いて階段の上へ消えていった。
ターフェルで夕食の皿を置いたロッテが、カイの顔をのぞき込んだ。
「今日は静かじゃない。何かあった?」
「……いえ。ちょっと、考えごとを」
「ふうん。冷めないうちに食べなさいよ」
ロッテが帳場へ戻っていったところで、隣の卓の声が耳に入った。
「ブリュッケ? ああ、あそこはいいよ」
常連の一人がこともなげに言う。
「頼めばたいていのことはやってくれる。荷運びも護衛も、魔石集めの代行までな。うちの親方も去年の引っ越しで世話になった」
「人も多いしねえ。腕のいいのがそろってるって話だよ」
連れの男もうんうんと頷いている。
本気で褒めている顔だ。
匙を持ったまま、少しだけ首をかしげる。
評判のいい何でも屋というのも、礼の一つも言わずに去っていったリーダーの背中も、たぶんどちらも本当なのだろう。
ただ、どうしても引っかかる。
礼がなかったことより、あの子が責められていたことのほうが。
湯気の立つ皿の向こうに、灰がかった水色の目が浮かぶ。
防具から鞘までそれから自分の後ろに誰もいないことまで。
あの子は何を確かめていたのか。
あの手帳の二、三語に、自分のことが何と書かれたのか。




