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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
作戦屋の少女

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第032話 取引

翌朝もカイはいつもの時刻に窓口へ寄った。


「四階層です」


イルゼは顔を上げないまま申告を書き留める。

羽根ペンの先が紙の上を短く走った。


「確認しました。お気をつけて」


それだけで、細い指はもう次の書類に伸びている。

昨日のことをここで話すつもりはない。

話すようなことでもない、と思う。




ギルドを出ると、冷たい風が首筋に入りこんできた。

肩をすくめながら、迷宮の入り口の柵のほうへ歩いていく。


柵の脇に小さな人影が立っていた。


大人用の外套に、何重にも折り返した袖。

藁色の髪が風に吹かれて不ぞろいに揺れている。

昨日、階段の途中で振り返ったあの少女だ。


気づいた時には、少女のほうはもうこちらを見ていた。

いつから見ていたのかは分からない。

目が合うと少女は柵から離れて、まっすぐこちらへ歩いてくる。

カイの前で足を止めて、小さく頭を下げた。


「おはようございます。ミーナです」


名前のあとに、どこのシャールの、とは続かない。


「あ……おはようございます。俺は、カイ——」


「知っています」


言い終わるのを待たずに、ミーナは続けた。


「カイ・アッシュグレイさん。アンファングの眷属で、加護がない。毎朝この時刻に窓口へ寄って、潜る階層を申告してから入る。ここ何日かは四階層」


棚から品物を一つずつ下ろして並べるような言い方だ。


口を半分開けたまま、すぐには何も言えなかった。

名前ならまだいい。

加護のことも、この街ではとっくに知れ渡っている。

けれど、毎朝の時刻まで知られているとなると話が違う。


首筋に入りこんだ風とは別の冷たさが、背中をすっと撫でていく。


「……よく、ご存じですね」


「ギルドにいれば目に入りますので」


そう言われてしまえば、それまでだ。

気を取り直して、少しだけ背筋を伸ばす。


「あの、昨日はありがとうございました。鳥を落としてもらって」


「お礼はいりません」


小さく首を横に振って、ミーナは言った。


「あの鳥にあなたが止められていたら、狼は次に私たちのほうへ来ていました。あれは自分の退路のためでもあります」


「……それでも、助かりました」


答えの代わりに、灰がかった水色の目がカイの顔をじっと見上げてくる。


「あなたがいつも潜っている辺りの話をします」


手帳は外套の内側にしまわれたままだ。

何も見ずに、ミーナはすらすらと続けた。


「崩れた岩の手前。天井の張り出しに一羽」


それなら知っている。

四階層に下りて二日目に、自分で見つけた場所だ。


「二つ目の洞窟の口の、すぐ上。岩の陰に一羽。正面から見上げても、口の縁に隠れて見えません」


二つ目の洞窟の口なら、ほとんど毎日その前を通っている。


「それから、壁の割れ目が天井まで続いている所。割れ目の奥に二羽います。手前の一羽を見つけて安心すると、奥の一羽に鳴かれます」


どれも、カイが角を曲がるたびに振り返って頭に入れてきた目印ばかりだ。

それを、この子は自分と同じ言葉で言う。


(……なんで、それを)


「今日、確かめてきてください」


問いを口にするより先に、ミーナが言った。


「話はそれからです。夕方、またここに来ます」


「話って——」


「用がありますので。失礼します」


もう背を向けている。

折り返した袖の先で外套の裾が揺れ、小さな背中は朝の人の流れに紛れて、あっという間に街のほうへ見えなくなった。


柵の前に立ちつくしていると、門番が早く入れと言いたげに、槍の柄で石畳を軽く叩く。

カイは慌てて頭を下げ、石段を下りた。




半分は疑いながら、四階層に下りてまず崩れた岩を目指した。


手前で足を止めて、天井の張り出しを見上げる。

黒い影が一つうずくまっている。

ここは前から知っている場所だ。

知っている場所を言い当てるだけなら、自分にだってできる。


次は二つ目の洞窟の口。

正面から見上げても、ミーナの言ったとおり縁の岩が邪魔をして何も見えない。

脇へ回りこみ、壁に背中をつけるようにして縁の上をのぞきこむと、羽を畳んだ黒い塊が身じろぎもせずに下を見ていた。


その真下は、カイが毎日のように通っていた道だ。


背中を冷たいものが這い上がってくる。

今まで鳴かれなかったのは、鳥がたまたまよそを向いていたからだ。

自分の目で見つけて避けていたわけじゃない。


壁の割れ目へ向かう足は、さっきより慎重になった。


割れ目が天井まで続いている所で立ち止まる。

暗がりの奥に一羽。

見つけた、と息をつきかけて、もう一度目を凝らすと、その少し奥にもう一羽いる。


言われていなければ、一羽目を見つけたところで安心して、割れ目の下を抜けていたはずだ。


三か所とも、言われたとおり。


そこから先は別の階層に来たみたいだった。

どこに鳥がいるか、先に分かっている。

鳥の目の届かない側の壁沿いを選べば、真下を通らずに回っていける。

いつもなら引き返していた角の、さらに先まで足が伸びる。


ケッセルヴォルフの群れにも落ち着いて向き合えた。

上から何も降ってこないと分かっていれば、正面で吠える一頭も、壁沿いに回りこんでくる二頭も、見慣れた動きでしかない。


その日、鐘の声は一度も聞かずに済んだ。

息も足もまだ軽く、剣を振る腕にも余裕がある。


腰の袋がいつもよりはっきりと重い。


帰り道、目印を逆にたどりながら天井の暗がりを見上げる。

上と下を一人で同時には見られない。

目は二つしかないのだから。


今日は、上を見る目をもう一つ借りていたような気がする。




石段を上がると、冬の空はもう赤く傾きかけていた。


朝と同じ柵の外に、ミーナが立っている。

袖を折った外套の内側に、両手をしまったままだ。


「どうでしたか」


「……三か所とも、言われたとおりでした」


上がった息を少し整えてから続ける。


「割れ目のところも、ちゃんと二羽。奥のは、言われてなかったら絶対に見落としてました。洞窟の口のなんて、今まで全然気づいてなくて……」


当たり前のことを聞いた、という顔のまま、ミーナはカイの握った魔石の袋を見て、それから口元を見上げた。


人と話す時、この子は相手の目より先に手と口を見るらしい。


「組んで潜りませんか。四階層を、私と」


前置きもなく、そう言われた。


「見張りの位置と、通る道は私が読みます。戦うのはあなたです」


「組んで……」


「取り分は半分ずつ」


半分、という言葉にカイが何か言うより早く、ミーナは続けた。

さっきまでより少し早口になる。


「今日の稼ぎを思い出してください。あの半分でも、昨日までのあなたの一日分より多くなります。私が道を読めば、今日より奥まで行けます。半分の取り分が今日の全部を超える日も、遠くありません」


握った袋に目を落とす。

重さはまだ手のひらに残っていて、言い返す言葉が出てこない。


「それと、条件が一つあります」


「条件、ですか」


「組むことは、私のシャールには内緒にしてください」


顔つきを少しも変えずに、ミーナは言った。


「うちは、よそのシャールの人と組んだと知られると、その分の取り分を納めろとうるさいので」


頭に昨日のリーダーの背中が浮かぶ。

礼の一つもなく、しくじりを全部この子に押しつけたあの声。

あのシャールなら、そういうこともあるのかもしれない。


「……それは、分かりました。誰にも言いません」


それから、ずっと喉に引っかかっていたことを口にした。


「でも、どうして俺なんですか」


「昨日、階段までの退路を作れたからです」


答えはすぐに返ってきた。


「あの数に挟まれて、どこまで下がれば鳥が止まるかを知っていたのは、あの場であなただけでした」


そこで一度だけ言葉を切る。


「加護がないことは知っています。取引には関係ありません」


息が止まった。


この街に来たばかりのころ、戸を叩いたどのシャールでも、加護がないと言った途端に話は終わった。

その一言が、今は話の続きのほうに置かれている。


ミーナの顔は、値段の話をしている時と同じに平らなままだ。

それでも組もうと言われた。

この街で、初めて。


組みます、と口が動きかけて、カイはそれを飲みこんだ。


目の前の少女を見下ろす。

自分の肩にも届かない背丈。

折り返した袖口から細い手首がのぞいている。

組んで潜るなら、この子を迷宮の奥へ連れていくことになる。

前に立たせずにいられるだろうか。


それに、もう一つある。


前に一度、誰にも言わずに決めて一人で潜り、全部を失くしかけた。

あの時止めてくれた人に、何も話さなかった。


「……神様に、話してから決めます」


灰がかった水色の目が、ほんの一瞬カイの顔の上で止まった。

何かを確かめるような、瞬き一つにも足りないあいだのことで、すぐに元の平らな目に戻る。


「そうですか」


「すみません。せっかく声をかけてもらったのに」


「謝ることではありません」


外套の内側から片手を出して、ミーナは袖の折り目を一つ直した。


「明日の朝、ここで待っています。来なければ、それで構いません」


それだけ言って背を向ける。


夕暮れの人混みのほうへ、小さな背中が遠ざかっていく。

昨日は階段の途中で一度だけ振り返った背中が、今日は一度も振り返らない。


いつもより重い袋を握ったまま、カイはその背中を見送った。


神様に、何から話そう。

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