第033話 見張りの一羽
「ただいまー……今日の字、ぜんぶ斜めに傾いててさー……書いた人、絶対に寝ながら書いてたよ……」
戸が開いたのは、日が落ちてだいぶたってからだった。
ギルドの上着を腕にかけたまま、フィーネはふらふらと木箱の前に座りこむ。
「おかえりなさい。煮込み、まだ温かいです」
「わーい……」
屋台で買ってきた煮込みを木の器に二つ分ける。
固いパンをちぎって浸しながら、フィーネは記録室の愚痴をひとしきり並べた。
三百年前の帳簿の数字が合わない、紙の端がすぐに崩れる、インクの染みがどう見ても猫の足跡にしか見えない。
相づちを打ちながら、カイの匙を持つ手は止まったままだった。
話そうと決めて帰ってきた。
石段を上がってミーナの背中を見送った時から、ずっとだ。
それなのに、いざ器を前にすると何から言えばいいのか分からない。
前は顔を見ないようにして、何も言わずに押し通した。
今度は、そうしない。
「神様」
「んー?」
「相談が、あります」
フィーネの匙が止まった。
琥珀色の目がまんまるになる。
カイの顔を見て、もう一度まばたきをしてから、匙をそっと器の縁に置いた。
膝を揃えて座り直す。
「……うん。聞く」
上がりかけた口の端を、唇を引き結んで押さえこんでいる。
順番に話した。
昨日、四階層でよそのシャールのパーティーが鳥の群れに挟まれたこと。
下りてきた所の近くまで下がれば鳥が追ってこないのを知っていたので、それを叫んで一緒に逃げたこと。
そのパーティーに小さな子がいたこと。
今朝、その子が柵の前で待っていて、四階層のモンスターの位置を三か所言い当てたこと。
確かめに行ったら、全部言われたとおりだったこと。
「それで、夕方……組んで潜りませんか、って言われました」
「パーティーを組もうって?」
「はい。魔物の居場所と通る道はその子が読んで、戦うのは俺で。取り分は半分ずつ」
フィーネは黙って聞いている。
「それと、組むことはその子のシャールには内緒にしてほしいって。よそと組んだと知られると、取り分を納めろとうるさいから、って」
匙を置いて、姿勢を正す。
「だから、神様も誰にも言わないでもらえますか」
すぐには答えが返ってこなかった。
ほんのひと呼吸ぶん、フィーネは器の中の煮込みに目を落とす。
ランプの火が、まつげの影を頬に揺らした。
それから、ぱっと顔を上げる。
「分かった。私も内緒にする。こう見えて、口はかたいんだからね」
「……ありがとうございます」
「でもさ」
器を脇へ寄せて、フィーネはこちらに向き直った。
「さっきから、小さい子、小さい子って言ってるけど。小さいって、どのくらい?」
「……グレタよりも、下だと思います」
「グレタちゃんより?」
眉がきゅっと寄る。
「じゃあ、その子を迷宮の奥まで連れてくことになるんだよね。カイは、それ、平気?」
カイがずっと気にしていたことだった。
同じ所を、神様も見ている。
「前には立たせません。その子は後ろで道を読んで、戦うのは俺っていう取り決めなので。前に出るのは俺だけです」
「ん。……あと、もう一個」
指が一本立つ。
声は軽いのに、目が笑っていない。
「組む人ができたら、カイ、また『まだいける』ってならない?」
その目を、まっすぐに見返した。
「合図が一つでも出たら引き返します。息でも、足でも、振る腕でも。その子がどう言っても、です」
しばらく黙ってカイの顔を見てから、フィーネは立てていた指を下ろした。
「そっか」
「……駄目、ですか」
「ううん。私は決めないよ」
膝の上で手を組んで、フィーネは首をかしげる。
「カイは、どうしたいの?」
決めるのは自分だと渡されたのが分かって、カイは一度口を閉じた。
天井まで届かない刃と、二つしかない目のことを考える。
今日借りた目のことも。
「……組んで、みたいです」
「うん。じゃあ、決まり」
にこっと笑ったフィーネの目尻が、今度はちゃんと下がっている。
「その代わり、帰ってくる時は、その子もちゃんと一緒にね」
「はい」
「それと、今度その子に会わせて」
「えっ。いや、内緒なので……」
「えー! 私、神様なのにー」
ぷうっと頬をふくらませてから、すぐに何か思いついた顔になる。
「じゃあ、ギルドで見かけたら、こっそり見るー」
「こっそり、ですか」
「こっそり! 記録室の神様は、目立たないのが仕事なの」
どの口が、と思ったけれど、カイは黙って冷めた煮込みを口に運んだ。
前の時は、話さなかったせいで全部を失くしかけた。
冷めた煮込みでも、今夜は喉をすんなり通っていく。
翌朝、先に塔を出たのはフィーネだった。
「いってきまーす!」
戸口で振り返りかけて、ふと戻ってくると、カイの胸当ての留め具を一つきゅっと締め直す。
「よし。いってらっしゃい、もね」
「……いってらっしゃい」
ぱたぱたと階段を下りていく足音を聞きながら、腰に短剣を下げた。
ギルドの窓口で、いつものように「四階層です」と申告する。
イルゼは書き留めるだけで、顔も上げない。
組むことは言わずにおいた。
言わなければならない決まりがあるわけでもない。
昨日と同じ柵の脇に、ミーナが立っていた。
近づくと、ミーナは柵から離れてこちらへ来る。
朝の挨拶を交わしてから、カイは一度だけ息を吸った。
「昨日の話、受けます。……俺と、組んでください」
「そうですか」
返ってきたのはそれだけで、ミーナの顔は昨日の夕方と同じに平らだった。
「神様にも話しました。神様も、内緒にしてくれるそうです」
「分かりました。では、今日の決めごとを話します」
すぐに本題に入られて、肩すかしを食った気分になる。
何かもう一言くらいあるものだと、どこかで思っていたらしい。
「あ、その前に……ええと、なんて呼べば。ミーナ、さん……?」
「ミーナで構いません」
「じゃあ、ミーナ」
「はい。それでは、カイさん」
手帳は開かずに、ミーナは話しはじめた。
「中では声を落としてください。進む、止まる、下がるは手で合図します」
目の前で、小さな手が形を作っていく。
手のひらをこちらに向けるのが止まれで、二本そろえた指を前へ倒すのが進め、手首を返して後ろへ払えば下がれ。
「前はカイさん。私は後ろに付きます。ハルクレーエの位置と通る道は、私が言います」
後ろ、とミーナは自分から言った。
前に立たせずにいられるかという心配は、ひとまずそこで片づく。
「見つけた鳥は、鳴かれる前に私の弓で落とします。カイさんは、私が合図するまで角から出ないでください」
「分かりました」
「鳴かれたら、下りてきた所に一番近い角まで下がります。あそこから先は、鳥が追ってきません」
思わずミーナの顔を見た。
一昨日、自分が叫んだことだ。
それがもう、決めごとの中に当たり前のように入っている。
「何か、ありますか」
「一つだけ、いいですか」
背筋を伸ばして、カイは言った。
「合図が一つでも出たら、俺は引き返します。それは譲れません」
「合図、ですか」
決めごとを並べていた口を止めて、ミーナが聞き返す。
「息が上がりすぎた時。足が重くなった時。短剣を振る腕がつらくなった時。どれか一つでも出たら、その日はそこまでにします」
少しの間、ミーナは黙ってカイの顔を見ていた。
それから小さく頷く。
「では、それも条件に入れます」
胸の奥で小さく息をつく。
自分の決まりを、自分の口で言えた。
気づけば、胸当ての下で背筋が伸びている。
四階層は、いつもと同じ石の通路だった。
違うのは、後ろに足音がもう一つあることだ。
ミーナの足音はほとんど聞こえない。
振り返ると、天井を見上げながらすぐ後ろを付いてきている。
崩れた岩の先、洞窟の口を二つ過ぎ、壁の割れ目を越えると、一人の時はいつも引き返していた角が目の前に来た。
肩を、とん、と叩かれる。
振り返ると、ミーナの手のひらがこちらを向いていた。
カイを角の陰に残して、ミーナは壁沿いに数歩進む。
天井の張り出しが見える所で背中の短弓を外し、矢をつがえて弦を引くと、そのままじっと天井を見上げた。
目を凝らせば、張り出しの暗がりに黒い塊が一つある。
息を詰めて待つ。
何を待っているのか、カイには分からない。
鳥はこちらに気づいていないように見えるし、今なら当たるのではないか。
なのに、引き絞られた弦は張りつめたまま、ぴくりとも動かない。
やがて天井の鳥が、ゆっくりと首を縮めた。
羽の中に、くちばしを沈めていく。
ひゅっ、と弦が鳴った。
黒い塊が、声ひとつ立てずに張り出しから剥がれ落ちる。
ミーナの指が二本前へ倒れるのを見て、カイは角から飛び出し、床でもがく鳥にとどめを刺した。
黒い体が消えて、小さな魔石が一つ石の上に転がる。
拾い上げて振り返ると、ミーナはもう次の矢を手にして、通路の先の天井を見ていた。
(……首、か)
鳴く前に、鳥は首をもたげる。
一昨日、パーティーの先で見た動きだ。
だから、その逆に首をしまった時なら鳴けない。
ミーナが待っていたのは、それだったのだろう。
その先の広い通路で、ケッセルヴォルフの群れに出くわした。
三頭。
正面で一頭が吠え、残りの二頭が壁沿いに回りこんでくる。
上を見なくていいだけで、こんなに体が軽い。
「右、壁の窪みに一頭」
背中でミーナの小さな声がした。
右へ踏みこみ、窪みから出かかった一頭を先に斬る。
残りの二頭も、見慣れた動きのとおりに片づけた。
その間、ミーナは後ろで見ているだけで、弓に手もかけない。
それから先も、同じことを繰り返した。
止まれの合図。待つ。弦の音。進めの合図。
天井の鳥が一羽落ちるたびに、通路の先がひとつ、こちらのものになっていく。
一人の時は自分の目と足でしか測れなかった迷宮が、急に広くなったような気がする。
腰の袋も、昨日よりまた重くなっていく。
何羽目かの鳥だった。
ミーナが角の陰で手を上げ、カイは壁に背中をつけて待つ。
弦が鳴ったあと、落ちてきた鳥はばたばたと羽音を立てた。
矢は翼をかすめただけだった。
天井から転げ落ちた鳥は、少し離れた岩の上で片方の羽をばたつかせ、もがきながら首を持ち上げていく。
ミーナの手首が後ろへ返りかける。
その合図が形になるより先に、カイは角から駆け出していた。
岩までの距離は思ったより遠い。
それでも足は止まらない。
床を二度、三度と蹴って、鳥の首が伸びきる前に短剣を横に払う。
黒い体が、声を上げる前に消えた。
通路がしんと静まり返る。
天井の暗がりに、身じろぎする影はない。
魔石を拾ってから振り返る。
ミーナは角の陰に立ったまま、弓を下ろすのも忘れたように、角から岩までのあいだをじっと見ていた。
瞬きを二つ、三つするくらいのあいだ、唇が薄く開いている。
それから弓を下ろして、いつもの平らな顔に戻った。
「今のは、作戦にありません」
低く抑えた声だった。
「届かなかったら、カイさんは群れの真下に一人で出ていました。上から降りてこられたら、私の位置からは何もできません」
短剣を下ろす。
その通りだ。
下がれと言われていたのに、それを見る前に体が動いていた。
「すみません。届くと思ったので」
それ以上、付け足せる言葉が見つからない。
ただ、自分でも少し驚いていた。
あそこまで足が出るとは思っていなかった。
重さのない短剣と、ようやく体になじんできた防具のおかげだろうか。
重ねて責める代わりに、ミーナは一つだけ聞いた。
「あそこまで、何歩でしたか」
首をかしげる。
振り返って岩を見ても、さっき自分が何回床を蹴ったのか思い出せない。
「……数えて、ませんでした」
「そうですか」
短く返して、ミーナは通路の先の天井に目を戻した。
その日は、そこから先も鐘の声を一度も聞かずに済んだ。
夕方、下りてきた階段の手前まで戻ると、カイは壁にもたれて大きく息を吐いた。
腰の袋がずしりと重い。
昨日よりも、さらに。
少し離れた所で、ミーナが外套の内側から擦り切れた手帳を取り出した。
炭筆の先が紙の上を短く走る。
カイの位置からは、何を書いているのかまでは見えない。
手帳を外套の内側に戻すと、ミーナはこちらを振り返った。
「魔石の話は、上でします」
それだけ言って、先に立って階段を上りはじめる。
重い袋を持ち直す。
一段ずつ上っていく小さな背中に、カイも続いた。




