第034話 カウンター越し
柵を出ると、空はもう橙色に傾いていた。
迷宮から上がってきた冒険者たちが、ギルドの入り口へ流れていく。
その流れから外れて、ミーナは柵の端の、荷車が止めてある陰で足を止めた。
カイもそれにならう。
「魔石のことです」
今度も、前置きはない。
「今日の魔石は、全部カイさんがご自分の窓口で売ってください。明日からも、ずっとです。私は自分では売りません」
「全部、ですか」
「私が売ると、うちのシャールの帳面に残ります。残れば、どこでそれだけ稼いだのかを聞かれます」
ああ、と頷く。
よそと組んだと知られると、取り分を納めろとうるさい。
昨日聞いた話の続きだ。
「売ったら、私の分は外で渡してください。ギルドを出た先の広場の端に、古い石の柱があります。迷宮の入り口が見える所です」
頭の中に広場を思い浮かべる。
噴き出し口の涸れた水場の向こうに、誰も腰かけない苔むした柱がたしかに一本立っている。
「それと、ギルドの中では私に話しかけないでください。目も合わせなくて構いません」
「……はい」
「明日の朝からの待ち合わせも、柵の前ではなく、そこにします。柵の前は人の目が多いので」
すらすらと決まりが並んでいく。
お金の受け渡しまで、もう決まっているらしい。
取引なんだな、と改めて思う。
組もうと言われた時の、あの救われたような気持ちとは少し違う所から来る実感だった。
腰の袋を持ち上げてみると、ずしりと重い。
「ええと、全部で何個だったか……」
「二十三個です」
手帳も開かずに、ミーナは言った。
「ハルクレーエが十一、ケッセルヴォルフが十二。途中で一つ減っていなければ」
「……数えてたんですか」
「数えていました」
返事はそれだけで、ミーナはもう広場のほうへ顔を向けている。
袋の口を握り直す。
あそこまで何歩だったかも、自分は覚えていない。
その横で、この子は拾った魔石を一つずつ数えていたのだ。
(……ちょっと、恥ずかしいな)
「では、のちほど」
小さく頭を下げて、ミーナは広場のほうへ歩いていった。
人の流れに紛れると、小さな背中はすぐに見えなくなる。
重い袋を抱えて、カイはギルドの扉をくぐった。
夕方の買い取り窓口は、朝ほどではないが混んでいた。
順番が来て台の上に袋を置き、口を緩めたとたん、魔石がいくつかからからと転がり出る。
「失礼します」
顔色ひとつ変えずに、イルゼは転がった石を指先で集めた。
手早く数を確かめ、大きさで分けて、帳面に書きつけていく。
羽根ペンの動きに迷いはない。
そのペンが、一度だけ止まった。
イルゼは帳面の上のほうの行を見ていた。
前の日の行と、その前の日の行を確かめてから、今書いたばかりの行に戻る。
背中にひやりとしたものが走った。
「本日も、四階層でしたね」
「は、はい」
「承知しました」
それ以上は何も言わず、イルゼは代金を数えて布袋に入れた。
差し出された袋を受け取りながら、カイはそっと息を吐く。
何か聞かれるかと思った。
聞かれたら、なんと答えればよかったのだろう。
奥の記録室の扉は閉まったままだった。
神様はまだ、三百年前の帳簿と格闘しているらしい。
広場の端の石の柱に、ミーナはもたれずに立っていた。
夕日が、迷宮の入り口の柵を長い影にして石畳に落としている。
柱の陰に回りこみ、人通りから半歩外れた所で、布袋の中身を二つに分けた。
「これ、ミーナの分です」
「ありがとうございます」
両手で受け取ると、ミーナはその場で手のひらの上に広げた。
指先が硬貨を手早く寄せては弾いていく。
ほんの数呼吸のことだった。
「数えるんですね」
「取引ですので」
その通りだと思う。
むしろ、目の前で数えてくれるほうが後でもめなくていい。
数え終えたミーナが、外套の前を少しだけ開いた。
内側に縫いつけたポケットがいくつも並んでいるのが、一瞬見える。
そのうちの一つに硬貨をしまう時だけ、指の動きがほんの少し丁寧になった。
外套の前が閉じると、ミーナはもういつもの顔に戻っている。
手元に残った袋の口を握る。
半分に分けた袋が、それでも、一人で潜っていた頃のどの日の袋より膨らんでいた。
(……あの日の早口、全部本当だったんだな)
「では、明日の朝、ここで」
それだけ言って、ミーナは歩き出した。
急ぐでもなく、振り返るでもなく、夕暮れの人波の中を街のほうへ。
取り分を何に使うのかは聞かずにおいた。
聞くことでもない気がする。
それから三、四日が過ぎた。
朝は広場の端の柱で落ち合い、四階層の奥で同じやり方を繰り返す。
角の陰で弦の音を待ち、ミーナの指が前へ倒れてから飛び出していく。
重くなった袋は、夕方の柱の陰で半分になり、ミーナの手のひらの上で数えられた。
息が上がって足を止めた日も、腕が重くて引き返した日も、まだ一日もない。
四日目の帰り際、階段の手前でミーナが言った。
「明日は、五階層に下ります」
相談ではなく、決まったことを告げる声だった。
頷きながら、カイは頭の中で決める。
下りる前に、窓口で一度聞いておこう。
翌朝のギルドは、まだ人がまばらだった。
「おはようございます。今日は、五階層です」
イルゼの羽根ペンが止まった。
今度は、すぐには動き出さない。
イルゼは帳面を何枚かさかのぼってめくり、細い指で行をたどっていく。
買い取りの額の並ぶ列と、その横の申告の列。
四階層、四階層、四階層。そして今日の、五階層。
ページが元に戻されて、灰青色の目がまっすぐにカイを見た。
「アッシュグレイさん。どなたかと、組まれましたか」
心臓が跳ねた。
ごまかす言葉を探しかけて、やめる。
この人の前で嘘をつける気がしないし、つきたくもなかった。
「……はい」
「そうですか」
「でも、相手のことは言えないんです。言わないって、約束したので」
イルゼは顔色ひとつ変えずに答えた。
「別のシャールの方と組まれるのに、ギルドへの届けは要りません。お相手のお名前を伺う決まりも、ございません」
羽根ペンが、帳面の端に何かを短く書き足す。
カイの位置からは読めない。
「五階層は、四階層より分かれ道が増えます。戻る道は、下りる前に決めておかれるのがよろしいかと」
「……はい。ありがとうございます」
「一般的な注意です」
ようやく肩の力が抜けた。
嘘をつかずに済んだし、約束も破らずに済んだ。
その時、奥の扉がばたんと開いた。
「イルゼちゃーん、これ、三番の棚の分——あ、カイー!」
古い紙の束を胸いっぱいに抱えたフィーネが、ぱっと顔を輝かせる。
朝からこの調子なのは、記録室に閉じこもっているぶん、人の顔を見ると嬉しいからだろうか。
「おはよー! 今日も早いねえ。……あ、イルゼちゃん、これ」
束をイルゼの前に下ろしかけたところで、フィーネはふっと横を向いた。
カウンターの、ずっと離れた窓口の前に、小柄な少女が一人で立っている。
大人用のお下がりの外套の袖を何重にも折り返し、背中には短弓。
ちょうど申告を終えたところらしく、窓口に軽く頭を下げて向きを変えた。
フィーネが少女を見て、それからカイを見た。
カイは固まった。
それで十分だったらしい。
フィーネの顔に、ぱあっと確信の色が広がっていく。
小さい子。グレタちゃんより、下。
口が声を出さずにそう動いたのが、カイにも見えた。
抱えていた紙の束をすっと持ち上げて、フィーネは顔の下半分をその陰に隠した。
そして、束の横から小さく手を振る。
ひらひら。ひらひら。
本人はたぶん、こっそりのつもりだ。
窓口の前の冒険者が二人、何事かと振り返った。
イルゼの羽根ペンも止まっている。
カイの顔からは、音を立てて血の気が引いていった。
(神様、それ、全然こっそりじゃないです……!)
少女——ミーナがこちらを見た。
その顔は、さっき窓口に頭を下げた時のまま平らで、折り返した袖の先で小さな手は脇に下りている。
フィーネの振っている手と、紙の束の陰からのぞく口元を、ミーナは品物の傷を確かめるように短く見た。
そして何もなかったように目をそらすと、ギルドの出口へ歩いていく。
フィーネの手が宙で止まった。
ほんの一拍。
すぐに下ろされて、フィーネはいつもの顔で紙の束をカウンターに置く。
「フィーネ様。記録室にお戻りください」
「えー、今出てきたとこなのにー」
「束は、こちらでお預かりします」
「はーい……」
名残惜しそうに、フィーネは扉の向こうへ引っこんでいく。
閉まりきる前に、隙間からカイへ小さく親指が立てられた。
何がよかったのか、カイには分からない。
分からないまま、背中を冷たい汗が一筋流れていった。
イルゼは何事もなかったように、帳面を閉じている。
広場の端の柱の前に、ミーナはいつものように立っていた。
駆け寄るなり、頭を下げる。
「すみません、さっきの……あれは、その……こっそりの、つもりだったみたいで」
「内緒の約束は、守られていますか」
謝った言葉には何も返さずに、ミーナはまずそこを確かめた。
「はい。誰にも言ってません。……あ、でも、さっき窓口で、イルゼさんに誰かと組んだかって聞かれました。組んだことは認めましたけど、ミーナのことは言ってません」
ミーナは少しだけ考える顔をして、カイの手元と口元を見た。
「それなら、構いません。そのくらいは、聞かれると思っていました」
あっさりしたものだった。
慌てていたのは、自分だけだったらしい。
「さっきの、あの方が」
ミーナが言葉を切る。
「カイさんの」
「……神様です」
引き取って答えると、ミーナは「そうですか」とだけ返した。
少し迷ってから、カイは言った。
「あの……神様、本当は、ちゃんと会ってみたいって言ってたんです。内緒なのは分かってるので、無理にとは言いませんけど」
ミーナは迷宮の入り口の柵のほうへ目をやった。
「神様なんて」
声が一段冷えた。
「会っても、何も変わりません」
何か言おうとして口を開けた時には、ミーナはもうこちらを向いていなかった。
「五階層の話をします」
小さな背中が、柵のほうへ歩き出す。
「階段を下りたら、最初の分かれ道の手前で一度止まってください。そこで、決めごとを一つ足します。それから——」
どうして、と聞き返す言葉は喉の手前で止まったままだ。
何を聞けばいいのかも分からない。
宙で止まった神様の手が、なぜか一緒に浮かんでくる。
前を行くミーナは、もう振り返らない。
耳に残った冷たさを抱えたまま、カイはその小さな背中に続いて柵をくぐった。




