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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
作戦屋の少女

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第035話 六階層の地図

五階層へ下りる階段は、四階層のものより少しだけ長かった。


最後の一段を下りると、肌に触れる空気がまた一段冷える。

石の通路は、見た目には上とたいして変わらない。

それなのに、二十歩も行かないうちに道はもう二股に分かれている。


その手前でミーナが足を止め、カイも半歩後ろで止まった。


「決めごとを、一つ足します」


迷宮の中で使う、いつもの低い声だ。


「帰りに通る道を、今決めておきます。帰る時は、その道しか使いません。途中で近そうな道が見えても、です」


その場にしゃがんで、ミーナは外套の内側に手を入れた。

出てきたのは炭筆が一本きりで、擦り切れた手帳は外套の中から出てこない。


炭筆の先が、床の平らな石の上を走りはじめる。

まず、今いる分かれ道。

そこから右へ一本、左へ一本。右の線の先がまた割れて、三つ、四つと枝を伸ばしていく。

行き止まりには短い横棒、ところどころに小さな丸。


「丸は、ハルクレーエがよく止まる所です」


説明はそれきりで、手は止まらない。

線は通路の曲がり方まで写し取ったように折れ曲がり、広くなる所では少しふくらむ。

最後に、入り組んだ線の中から一本だけが選ばれて、二重になぞられた。


「これが、帰りの道です」


声が出なかった。


(……これ、全部、頭に入ってるのか?)


階段を下りてから、まだ二十歩だ。

この子は、五階層のまだ見てもいない奥の形まで知っている。


戻る道は、下りる前に決めておかれるのがよろしいかと。

今朝窓口で聞いたばかりの声が、耳の奥でよみがえる。

口には出さずに、カイは床の線を目でなぞった。


「覚えてください」


言うが早いか、ミーナは立ち上がって靴の裏で床をこすった。


「えっ」


二重の線も小さな丸も、ざりざりと音を立てて灰色の汚れに変わっていく。

慌てて、消える前の形を頭に押しこんだ。

右、右、崩れた柱の先を左、それから——。


炭筆を外套の内側に戻して、ミーナは何もなかったように歩き出す。

床に残っているのは、靴の跡のような黒い擦れだけだった。




いくつ目かの角を曲がったところで、ミーナが振り返らずに聞いた。


「今、戻るとしたら、どちらですか」


背筋がぴんと伸びる。


さっきの床の線を頭の中に呼び戻す。

二重になっていたのは、どの線だったか。

崩れた柱はもう通り過ぎた。その手前を曲がったのは——。


「……左、です。さっきの崩れた柱の分かれ道まで戻って、そこを、左」


ほんの少しの間があった。


「合っています」


返事はそれだけで、ミーナはもう前を見ている。


そっと息を吐く。

何歩だったかも、魔石が何個だったかも、答えられなかった自分だ。


(一つくらいは、合ってないとな)


五階層の一日目は、分かれ道が増えたぶん鳥の数も増えた。

それでも曲がり角の手前で、ミーナが「この先の天井、右の張り出しです」と先に言う。

弓が引かれ、天井の鳥が首を羽の中にしまいこむのを待って弦が鳴る。

落ちた一羽が床で動かなくなるのを見届けてから、ミーナの指が前へ倒れ、カイが角を飛び出す。

四階層で覚えたやり方は、一階層下りてもそのまま通じた。




それから、五階層に通う日が続いた。


腰の袋は、毎日前の日より少しだけ重い。

夕方、広場の端の柱の陰で中身を半分に分けると、ミーナがその場で数えてしまう。

それももう、決まった手順になっている。


迷宮の中で休む時、ミーナは毎回同じことを確かめた。


「息と、足と、腕。どれか、出ていますか」


「出ていません」


頷くだけで、ミーナはそれ以上何も言わない。

水筒の栓を閉めて、また炭筆の跡をたどるように通路の先を見ている。


三日目の昼、壁際の岩に並んで腰を下ろした時だった。


干し肉をかじりながら隣を見る。

小さな横顔からは、相変わらず何も読めない。


「あの、ミーナ」


「はい」


「どうやって、あんなに覚えたんですか。五階層の地図、どこかで——」


「それは、取引に関係のある話ですか」


横顔は通路の先へ向いたままで、声の高さも、曲がり角の先の鳥の位置を告げる時と変わらない。


「……いえ」


「そうですか」


それで話は終わりになった。


干し肉の残りを口に押しこんで、固い肉をいつもより長く噛む。

取引をしているのだから、取引の話をする。

言われてみれば当たり前のことだ。


(……まあ、そうだよな)


水筒の水で流しこむと、喉に引っかかっていたものも一緒に腹の底へ落ちていった。


神様なんて、と言った時の冷たい声のわけも、聞けないままになっている。

あれは、取引に関係のある話かどうか以前に、触れてはいけない所のような気がした。


その日の帰り際、上りの階段の手前でミーナが言った。


「明日は、六階層です」




その夜、塔の部屋に戻ると、フィーネはもう帰っていた。


「おかえりー。ねえねえ、聞いて。明日で、最後の日なんだー」


窓辺の椅子で足をぶらぶらさせながら、フィーネは天井を仰ぐ。


「三百年前の帳簿とも、明日でお別れかあ。最初はね、なんて字が汚い人なんだろって思ってたんだけど、だんだん癖が分かってくると、これがちょっと楽しくて」


「……楽しかったんですね」


「うん。イルゼちゃんには言わないでね。罰なのに楽しんでたなんて知られたら、また真顔で何か言われちゃう」


気にするのはそこなのか。

この神様は、どこにいても何かしら楽しみを見つけてくるらしい。


「お疲れさまでした」


「えへへ、まだ一日あるけどね。カイは? 明日もあの子と?」


「はい。明日は、六階層です」


「六!」


目を丸くしてから、フィーネは感心したように笑った。


「どんどん下りてくねえ。……あの子、元気?」


少し考える。

干し肉の昼と、すっと引かれた線を思い出す。


「元気、だと思います」


「そっかー」


それ以上は聞かずに、フィーネは窓の外の暗い空へ、うーんと伸びをした。




六階層の最初の分かれ道で、ミーナはまたしゃがんだ。


炭筆が床を走る。

線は五階層の時よりずっと多い。

枝分かれの先がさらに枝分かれして、床の石が一枚では足りなくなり、隣の石まで線がはみ出していく。


今度こそ、一度で覚える。


ミーナの手元に顔を近づけ、二重になぞられる一本を最初から最後まで目で追う。

選ばれた道は遠回りに見えた。

わざわざ細い横道へ入り、しばらく狭いところを抜けてから広い場所へ出る道だ。


「わざわざ、こっちを通るんですか」


「天井の低い道です」


炭筆の先で、ミーナは細い横道をとん、と叩いた。


「ハルクレーエは、天井の高い所にしか止まりません。天井の低い所には、いません」


(……あ)


言われてみれば、そうだ。

四階層でも五階層でも、鳥がいたのはいつも見上げるような暗がりだった。

低い天井では、上から降りてきてつつく高さが取れない。


「この先に、少し開けた場所があります。ケッセルヴォルフがよく集まります。そこも、天井は低いです」


靴の裏が線を消していく。

消えていく二重線の最後の折れ曲がりまで、カイは目に焼きつけた。


横道は本当に天井が低かった。

手を伸ばせば、指先が岩に届きそうなほどだ。

見上げる暗がりが、どこにもない。


開けた場所に出ると、案の定、灰色の背中がいくつも動いていた。

一頭が正面で吠え、残りが壁沿いに回りこんでくる。

いつもの群れ方だ。


頭の上には、低い岩の天井がのしかかっているだけだった。

足元の群れだけを見ていればいい。


「左、壁沿い。一頭」


ミーナの声は、後ろから短く届くだけだ。

吠えている一頭に詰め寄り、横から回りこもうとした一頭を返す刃で払う。

左の壁沿いを来た一頭は、言われていたぶん、振り向く前から位置が分かっていた。

弦が鳴って、逃げかけた最後の一頭の足が止まったところへ踏みこむと、一つ目の群れが崩れる。


しばらくすると、二つ目の群れが通路の奥から入ってきた。

それも同じように崩す。


体が妙によく動く。

上を気にしなくていいだけで、こんなに違うものだろうか。


(一人だった頃は、六階層なんて考えたこともなかったな)


四階層で鳥に見つかって、天井まで届かない刃を見上げていた冬が、ずいぶん前のことに思える。

本当は、まだそれほど経っていないのに。


休むたびに息と足と腕を確かめるミーナに、カイはこの日も同じ答えを返した。

引き上げの時刻を決めたのは、ミーナだった。


帰りは、床に描かれた二重の線だけを通る。

狭い横道を抜け、また分かれ道に出たところで、カイの口が先に動いた。


「次は、右です」


言ってから、しまった、と思う。

前を行くミーナの役目を、取ってしまっただろうか。


ミーナが振り返った。


灰がかった水色の目が、一度だけカイの顔を見る。

手元でも口元でもなく、顔を。


それから何も言わずに前へ向き直り、ミーナは右の道へ入っていった。


腰の袋を持ち直す。

組んでから、一番重い。




同じ日の、夕方の少し前。


記録室から最後の紙の束を運び出すと、フィーネはそれをカウンターの上に下ろして、ふう、と額をぬぐった。


「イルゼちゃーん、これで三番の棚、ほんとにおしまい」


「さん、でお願いします」


束を受け取り、帳面に何かを書き入れてから、イルゼは顔を上げた。


「フィーネ様。本日で処分の期間は満了です。記録室の鍵を、お返しください」


カウンターに頬杖をつく。


「えー、もう終わりー? 分かってたけど、まだ八番の棚が残ってるのにー」


「規則ですので」


イルゼの手のひらがカウンターの上に差し出される。

ちょっとだけ口をとがらせながら、フィーネは首から下げていた鍵の紐を外した。

一か月、毎朝これで扉を開けてきた鍵だ。

手放すとなると、思っていたより軽い。


「はい。……ねえ、カイ、今日はどこまで?」


「六階層と伺っています」


鍵を受け取りながら、イルゼは帳面も見ずに答えた。

それから同じ調子で付け加える。


「記録室は、三番から七番の棚まで整理が済みました。記録しておきます」


表情は少しも動いていない。


一拍置いてから、フィーネはにんまりした。


「イルゼちゃん、それ、もしかして」


「鍵は、確かにお預かりしました」


羽根ペンが、もう次の書類の上を走っていた。




ギルドを出ると、空の端がうっすらと橙色に染まりはじめていた。


朝から潜って六階層まで下りて、また上がってくるなら、そろそろだろうか。


そうだ、迎えに行こう。


思いついたとたん、足はもう迷宮の入り口のほうへ弾んでいた。


柵の前に立つと、門番がちらりとこちらを見た。

前に槍の下をくぐられたことを、まだ覚えている顔だ。

手がさりげなく槍の柄にかかっている。


「入らない入らない、待ってるだけー」


両手をひらひらさせて、柵から三歩下がる。

門番は疑わしそうに眉を寄せたまま、それでも槍から手を離した。


柵の脇の段差に腰を下ろす。

冬の夕暮れが、迷宮の入り口の石段をゆっくり橙色に塗っていく。


前にも、ここでこうして待ったことがある。

あの日、石段を駆け上がってきたのは、待っていた子ではなかった。


膝の上で指を組んで、フィーネは少しだけ黙った。


それから、ぱっと顔を上げる。


今日は六階層と聞いている。

毎日ちゃんと、ここへ帰ってくる子だ。


(そわそわするのは、しょうがないよね)


足先で石畳を、とん、とん、と叩く。

鳴る音は、自分でもおかしくなるくらい軽い。




石段を上りきると、夕方の風が顔に当たった。


両腕で抱えないと、袋の口から魔石がこぼれそうだ。

重い袋を抱え直すカイの隣で、ミーナが外套の襟を直している。


柵の向こうに、見慣れたアプリコット色が揺れていた。


あ、と思ったのと同時に、柵の脇の段差からぴょんと人影が立ち上がる。


「カイー、おかえりー!」


夕日の中で、両手が少しの遠慮もなく大きく振られる。


わざわざ、ここで待っていたのだろうか。

袋を片腕に寄せ、手を振り返そうとして、頬が緩みかけて——。


内緒の約束が、頭の中に落ちてきた。


(……あ)


組んでいることは、ミーナのシャールには内緒だ。

待ち合わせを広場の端の柱へ移したのも、柵の前は人の目が多いからだった。

その柵の前で、ミーナと並んで歩いているところを大声で呼ばれている。

門番が顔を上げ、先に上がってきた冒険者が何人かこちらを振り返る。


血の気が、すうっと引いていく。


思わず隣を見た。


ミーナの歩幅は、柵へ向かうさっきまでと少しも変わらない。

灰がかった水色の目が、柵の外で振られている手を見ている。

その顔は、平らなままだった。


柵まで、あと三歩。


神様と作戦屋のあいだには、今度は何のカウンターもない。


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