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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
作戦屋の少女

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第036話 七階層

柵をくぐったところで、カイの足が止まりかけた。


ミーナの歩幅はそのままで、一歩、二歩とカイとのあいだが開いていく。

並んで上がってきたはずの距離が、柵を越えたとたん、たまたま同じ時に上がってきた他人の距離に変わる。

広場の端の柱へ向かう道は、ちょうどフィーネの立っている段差の前を通っていた。


両手を振ったまま駆け寄ろうとして、フィーネはそこでカイの顔を見た。


琥珀色の目が、ぱちぱちと二度またたく。

それから、はっとしたように片手が口元へ飛んだ。


「わ、わー! カイ、一人で上がってきたんだねー! えらいえらい、一人で!」


さっきより声が大きい。

しかも、「一人で」を二回言った。


門番が首をかしげる。

カイと、その少し前を歩いていく小さな背中と、段差の上のフィーネとを、順番に見比べている。

一度は離れた手が、また槍の柄のほうへ戻りかけていた。


(……神様、それ、かえって目立ってます)


袋を抱えたまま天を仰ぎたくなる。

両腕がふさがっていなければ、たぶん本当に頭を抱えている。




ミーナがフィーネの横を通り過ぎる。


顔はまっすぐ広場のほうを向いたまま、すれ違うその一瞬だけ、唇が動いた。


「ここでは、声をかけないでください。人の目があります」


数歩後ろのカイにもかろうじて届くくらいの、低い声だった。


フィーネの肩が小さく跳ねる。


「……あっ、そっか。ごめんね」


同じくらい小さな声だった。


ミーナはもう二歩先にいる。

遠ざかっていく背中に向けて、フィーネはもう一言だけ付け足した。


「おつかれさま」


外套の背中は、夕方の人波のほうへ、さっきと同じ速さで小さくなっていく。


それを見送ると、フィーネはくるりとカイに向き直った。


「先に帰ってるね。ごはん、作っとくから」


今度は、いつもの声の大きさだ。


「え、あ……はい」


ひらひらと手を振って、フィーネは広場とは反対の、塔のある方角へ歩き出す。

門番の前を通る時には、「入ってない入ってない」と両手を挙げてみせるのも忘れない。

門番は長い息を吐いて、槍から手を離した。




買い取りの窓口で袋を開けると、カウンターの上が魔石でいっぱいになった。


いつもの手つきで、イルゼが一つずつ選り分けていく。

最後に出された額は、組んでからで一番多い。

羽根ペンが帳面の上を走り、銀貨の小さな山がカウンターの向こうから押し出されてくる。


「こちらが、本日の分です」


額を確かめる時に一度上がった灰青色の目は、すぐに帳面へ戻っていった。


頭を下げて、銀貨の重みを懐に収める。




広場の端の古い石の柱は、もう半分、夕暮れの影に沈んでいた。


いつものように、ミーナは柱の前に立っている。

中身を半分に分けて差し出すと、その場で一枚ずつ数えて外套の内側へしまう。


数え終わるのを待って、カイは口を開いた。


「すみません。神様が迎えに来るなんて、俺も知らなくて」


外套の合わせ目を閉じる手元から、ミーナは顔を上げなかった。


「柵の外のことも、決めておきます」


謝った言葉は、そのまま素通りされた。


「上がる時は、私が先に柵を出ます。カイさんは、少し間を置いてから出てください」


「……はい」


「柵の外では、知らない人です」


帰りの道を決める時と同じ、平らな声だ。


叱られたほうが、まだ楽だったかもしれない。

懐の上から、自分の銀貨を押さえる。

何か言い足そうとして、言い足せる言葉が一つも見つからない。


「それと」


ミーナがようやく顔を上げた。


「あの方には、上がってくる所で待たないよう、伝えてください」


「伝えます」


ミーナは小さく頷いた。


よそと組んだと知られると、取り分を納めろとうるさい。

最初にそう言っていた。

ここまで決めておくのだから、本当に面倒なシャールなのだろう。

それなら、こちらが気をつけるしかない。


「しばらく、六階層です」


そう言って背を向けると、ミーナはいつもと同じ足取りで広場の人波の中へまぎれていった。




塔の部屋の扉を開けると、湯気のにおいがした。


「おかえりー!」


鍋の前でフィーネが振り返る。

食卓には、いつものスープと、いつもより少し厚く切ったパン。

それから、小皿にひと切れずつ、焼いた腸詰めが載っていた。


「えへへ。今日は、満了のお祝いなの。ささやかだけど」


「……お祝い、ですか」


「そう。一か月、記録室でがんばった私に。ついでに、六階層まで行ったカイにも」


ついでなのか。

腸詰めは、ちょうど二本しかない。


匙を動かしながら、何度か言い出す間を探した。

スープが半分ほど減ったところで、ようやく匙を置く。


「あの、神様」


「んー?」


「上がってくる所で、待たないでほしいって。……あの子に、頼まれました」


フィーネがパンをちぎる手を止める。

膝の上で指を組んだ。

せっかく迎えに来てくれたのに、と思われるだろうか。


「そっかー」


すぐに頷きが返ってきた。


「そうだよね。内緒だもんね。私、思いっきり大きな声出しちゃったし」


それから、ちぎったパンをスープに浸して、あっさりと言う。


「じゃあ、ここで待ってる。おかえりは、ここで言うね」


いつのまにか肩に入っていた力が抜けていく。


「……ありがとうございます」


「なんでカイがお礼言うの。もー」


笑って腸詰めを半分かじると、フィーネは窓の外の暗いほうへふっと目をやった。


「あの子、ちっちゃかったねえ」


「グレタより、ずっと下です」


「そっかー」


それきり、フィーネは腸詰めの残りに戻った。

カイも、冷めかけたスープに匙を入れ直す。




それから、六階層に通う日が続いた。


上がる時は、ミーナが先に石段を上りきって柵を出る。

カイは階段の上の暗がりで少し間を置いてから、あとに続く。

塔の扉を開けると、決まって「おかえりー」が飛んできた。


三日目の帰り際、上りの階段の手前でミーナが言った。


「明日は、七階層です」


翌朝、窓口で申告する。


「七階層です」


イルゼの指が帳面を何枚かめくった。


「七階層からは、ハルクレーエの数が増えると記録にあります。引き上げの刻限は、早めにお決めになるのがよろしいかと」


「はい」


それ以上は何も言わずに、イルゼは申告を書き入れた。




七階層へ下りると、まず天井の高さに目がいった。


見上げた先の暗がりが、六階層よりもずっと遠い。

吐いた息が白く残るほど、空気も冷たかった。


最初の分かれ道で、ミーナがしゃがむ。


炭筆が床の石を走る。

分かれ道、枝、行き止まりの横棒、小さな丸。

丸の数は、六階層の時より明らかに多い。


ところが線は、少し先の二つ目の分かれ道のあたりで止まった。

そこで通路を断ち切るように、ミーナは横へ一本短い線を引く。


「今日は、ここまでです」


炭筆の先が、その横線をとん、と叩いた。


「七階層は、見るだけです」


帰りの道が二重になぞられ、靴の裏がすぐにそれを消していく。


(見るだけ、か)


ここまで来て、と思わなかったと言えば嘘になる。

けれど、横線の手前で引き返す地図はどこかで見覚えのある形をしていた。

店じまいの後、ターフェルの裏の空き地でヴィルマに叩きこまれた引き際と、同じ形だ。


七階層の道は、どこも天井が高かった。

低い横道はほとんどなく、そのぶん鳥は多い。


角の手前で止まり、天井の張り出しを告げ、黒い鳥が首を羽の中へしまいこむのを待って弦を鳴らす。

一羽が落ちると、ミーナはすぐに次の位置を告げる。

四階層から続けてきたやり方を、間を詰めて何度も繰り返す。

カイは指の合図に合わせて角を出て、床に落ちた鳥と、その先で顔を上げた魔物だけを相手にした。


奥の少し開けた場所で、ケッセルヴォルフの群れに行き当たった。

吠える一頭に詰め寄り、壁沿いに回りこんできた二頭を、ミーナの声を頼りに順に崩す。

最後の一頭が背を向けたところへ矢が一本足元に刺さり、そこで群れは終わった。


短剣を下ろした時には、ミーナはもう通路の先ではなく、来た道のほうを見ていた。


「引き上げます」


まだ昼を少し回ったくらいのはずだ。

休むたびにミーナが確かめる三つを、自分の体で一つずつなぞってみる。

息は上がっていないし、足も重くない。

腕も、まだ何ともない。


それでも、ミーナはいつもより早い刻限を選んだ。


「はい」


短剣を鞘に戻す。




帰りは、床から消えた二重線を頭の中でたどった。


上りの階段へ向かう途中で、一度だけ後ろを振り返る。


三階層の奥で、刃をつかまれてねじり折られた日がある。

あの時は、どこまで来てしまったのかも分からないまま、越えてはいけない所を越えていた。


今は、七階層にいる。

ここから上の階段まで、どの分かれ道をどちらへ曲がるのか、全部言える。


(……遠くまで、来たんだな)


階段を上りきる手前で、ミーナが先に光のほうへ出ていった。

石段の上の暗がりで足を止め、柵の外へ抜けていく小さな背中を見送ってから、ゆっくりと十まで数える。




七階層の行き帰りは時間がかかる。

窓口で売り終えて柱へ向かう頃には、夕日はもう広場の向こうの屋根に沈みかけていた。


柱の前には、もう小さな人影があった。


中身を半分に分けて渡すと、ミーナはその場で数えはじめる。

指がいつもより速い。

銀貨が外套の内側へ消えるまで、ほとんど間がなかった。


しまい終えると、ミーナは足元へ目を落とした。


柱の影が石畳の上を長く伸びている。

その先がどの石まで届いているのかを、ミーナは一度だけ見た。


「明日も、七階層です」


それだけ言うと、返事を待たずに走り出す。


「えっ」


思わず一歩踏み出した。


「ミーナ、どこに——」


声をかけかけた時には、小さな背中はもう広場の人混みの向こうにあった。

行き先は、一度も聞いたことがない。


冬の風が広場を抜けていく。


走っていく背中で、大人用の外套の裾が大きくはためいた。

袖を何重にも折った外套は、夕日が透けて見えそうなほど薄い。


(……寒くないのかな、あれ)


人混みが閉じて、背中が見えなくなる。


首元を抜けていく風の冷たさを感じながら、カイはいつまでも柱の前から動けずにいた。

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