第004話 旅立ち
翌朝、まだ霧の残る麦畑に、ミルデ様は一人で立っていた。
刈り残した畝を見回っていたのだろう。
袖をまくった腕に、朝露がうっすらと光っている。
カイの足音に気づくと、ミルデ様はゆっくりと振り返った。
「おはよう、カイ。……腕はもういいの?」
「はい。擦りむいただけですから」
「そう」
それきり、ミルデ様は何も訊かなかった。
カイがここに来た理由を、待っているようにも見える。
カイは、一度だけ大きく息を吸った。
昨夜、寝台の上で何度も繰り返した言葉だ。
それなのに、喉の奥でつかえて、なかなか出てこない。
「ミルデ様。どうして俺には、加護がつかなかったんですか」
畑を渡る風が、二人の間を抜けていった。
ミルデ様は、すぐには答えない。
ほんのわずかな間。
それから、カイの目をまっすぐに見て、口を開く。
「私には、分からなかった」
静かな声だった。
「五年前からずっと考えているけれど、今も分からないの。……ごめんなさいね」
カイは、拳を握った。
分からない。
村の子どもたちに何十年も加護を授けてきたミルデ様にも、分からない。
それなら、もうどこにも答えはないのだろうか。
「でも」
ミルデ様が、言葉を継ぐ。
「グラナートには、私の知らないことを知っている神もいるはずよ。神々がたくさん集まる街だから」
グラナート。
迷宮の真上に築かれた、神々とギルドの街。
村の大人たちの話にときどき出てくるだけの、遠い場所の名前だ。
ミルデ様は、それ以上は何も言わなかった。
行け、とも、行くな、とも。
カイは、自分の手のひらに目を落とした。
ここにいても、答えは見つからない。
昨日のように、誰かの背中に守られるだけだ。
けれど、グラナートなら。
理由が分かれば、もしかしたら、加護を受けられるようになるかもしれない。
たとえそうならなくても——加護がなくたってやれるのだと、自分に示すことくらいはできるはずだ。
カイは顔を上げた。
「俺、グラナートへ行きます」
自分の声が、思っていたよりもはっきりと響いた。
ミルデ様は、しばらくカイを見つめている。
その目に、驚きの色はない。
「行きたいのね。……そう。なら、止めないわ」
それだけ言って、ミルデ様は小さく微笑んだ。
その晩、カイは夕食の席で両親に告げた。
「父さん、母さん。俺、村を出ようと思う。グラナートに行きたいんだ」
匙を持つ母さんの手が、ぴたりと止まる。
父さんは、黙ってスープの椀を置いた。
カイは、膝の上で手を握りしめた。
自分は一人息子だ。
自分がいなくなれば、この家の畑を継ぐ者はいなくなる。
それが分かっていて、言い出したのだ。
「……ごめん。勝手なことを言ってるのは、分かってる。でも」
「やっと言ったわね」
カイの言葉を遮ったのは、母さんだった。
「……え?」
「昨日のあんたの顔を見たら、誰だって分かるわよ。ねえ、あなた」
母さんが隣に目をやると、父さんは小さく頷いた。
「行ってきなさい、カイ。母さん、ちっとも反対なんかしないから」
ハンナが、からりと笑ってみせる。
いつもの、よく通る声で。
「その代わり、ちゃんと食べること。危ないことには首を突っ込まないこと。それから、たまには手紙を書くこと。いい?」
「……うん」
「返事が小さい」
「うん!」
母さんが満足そうに頷く。
それから、ずっと黙っていた父さんが、ゆっくりと口を開く。
「カイ」
「……はい」
「畑のことは、気にするな」
それだけだった。
けれど、その一言で、カイが言えずにいたことは全部なくなってしまった。
謝ろうとしていた言葉も、言い訳も、何もかも。
カイは、俯いたまま、何度も頷いた。
スープの湯気が、やけに目に染みる。
翌日から、母さんは夜遅くまで針を動かすようになった。
旅に着ていく服を仕立ててくれているのだ。
選んだ布は、灰がかった茶色。
「汚れが目立たないのが一番よ。それに、あんたの髪の色にも合うし」
母さんはそう言って、仮縫いの袖をカイの腕に当てた。
地味だな、とカイは思ったけれど、口には出さなかった。
母さんが三晩かけて選んだ色だと、知っていたから。
出発の前日、カイはトネリコの防風林で、ルッツとグレタに会った。
「グラナート、か」
木の幹にもたれたルッツが、空を見上げて呟く。
「お前らしいっちゃ、お前らしいな。昔から、一度決めたら聞かねえし」
「そうかな」
「そうだよ」
グレタは、二人から少し離れた根元に座り込んで、膝を抱えていた。
話を聞いた時から、ずっとこの調子だ。
カイは、二人に向き直った。
「この前は、ありがとう。二人がいなかったら、俺、たぶん死んでた」
ルッツが、目を丸くする。
グレタも、膝の間から顔を上げた。
「ちゃんと言えてなかったから。……助けてくれて、ありがとう」
頭を下げる。
悔しさが、ないわけではない。
二人の背中に守られたあの日のことは、きっと一生忘れない。
けれど、それとこれとは別の話だ。
二人は、命がけでカイを守ってくれた。
それだけは、ちゃんと伝えておきたかった。
「……ばーか」
ルッツが、カイの頭を軽く小突く。
「礼なんか言うなよ。幼なじみだろ」
そう言って、ルッツはにっと笑う。
「行ってこい、カイ。それで、向こうで負けんなよ。俺も、ここで負けねえからさ」
「……うん」
カイが頷くと、ルッツは拳を突き出してきた。
カイも拳を作って、こつんとぶつける。
グレタが、ようやく立ち上がった。
「カイ」
目元が、少しだけ赤い。
それでもグレタは、泣かなかった。
「手紙、書いてよね。母さんたちにだけじゃなくて、あたしにも」
「分かった。書くよ」
「約束だからね。書かなかったら、あたし、グラナートまで走っていくから」
「グレタの足なら、本当に来られそうで怖いな」
「行っちゃうからね。本当に」
そう言って、グレタはやっと笑顔を見せる。
いつか、また。
三人とも、それ以上のことは口にしなかった。
いつになるかなんて、誰にも分からないから。
出発の朝は、よく晴れていた。
母さんが仕立ててくれた灰がかった茶色の服は、思っていたよりもずっと体に馴染んだ。
背中の荷物には、母さんが焼いたパンと、村の皆が少しずつ持たせてくれた路銀が入っている。
多くはない。
けれど、カイには重かった。
村の入り口で、乗り合い馬車が待っていた。
見送りに来たのは、父さんと母さん。
そして、ミルデ様だった。
「忘れ物はない? パンは傷む前に食べるのよ。それから——」
「母さん、それ昨日の夜も聞いた」
「大事なことは何回言ってもいいの」
五年前と同じやり取りに、カイは思わず笑ってしまう。
母さんも、笑っていた。
父さんは何も言わずに、カイの肩に手を置く。
大きくて、硬い手。
最後に、ミルデ様がカイの前に立った。
「いってらっしゃい、カイ」
ミルデ様らしい、短い言葉だった。
「……いってきます」
カイは頭を下げ、馬車に乗り込んだ。
車輪が回り出す。
遠ざかっていく村の向こうに、トネリコの並木が見えた。
深い緑の葉が、風に揺れている。
馬車に揺られて、数日が過ぎた。
「坊主、見えてきたぞ。あれがグラナートだ」
御者の声に、カイは幌の隙間から身を乗り出した。
息を呑んだ。
なだらかな丘の上に、巨大な街が広がっていた。
幾重にも連なる石造りの屋根。
空に向かって伸びる塔。
街を囲む城壁は、エッシェ村の防風林よりもずっと長く、どこまでも続いている。
門をくぐると、今度は人の多さに圧倒された。
通りを埋め尽くす人、人、人。
剣を下げた冒険者らしき男たちが、笑いながらすれ違っていく。
屋台の呼び込みの声が、あちこちから飛んでくる。
ふと、通りの向こうから来る一団が目に留まった。
革の鎧に剣を下げた若者たちが、五、六人。
その真ん中を、丸腰の青年が一人、のんびりと歩いている。
荷物ひとつ持たず、両手を後ろに組んで、屋台の並びを物珍しそうに眺めながら。
「神様、今日の夕飯どうします?」
「任せるよ。君たちが無事に帰ってきてくれれば、僕はそれでいい」
……神様?
カイは思わず二度見した。
身なりがいいだけの、穏やかそうな青年にしか見えない。
けれど、周りを固める若者たちは、それが当然という顔で彼の歩調に合わせていた。
ミルデ様のように、神様が村に一柱だけいるわけではない。
ここでは、たくさんの神様が、当たり前のように人に混じって暮らしているのだ。
「驚いたか、坊主」
御者が、可笑しそうに笑う。
「この街の下にはな、迷宮が丸ごと眠ってるんだ。神様も人間も、みんなそいつ目当てに集まってくる」
カイは、足元の石畳を見下ろした。
この下に、迷宮がある。
五年前、ミルデ様の光が弾かれたあの日から、カイには縁のない場所だと思っていた世界。
その真上に、自分は今、立っている。
カイは、灰がかった茶色の服の胸元を、ぎゅっと握った。
ここで、見つけてみせる。
俺だけが加護を受けられない、その理由を。




