第003話 守られる側
それから、五年が経った。
カイは十五歳になり、背もそれなりに伸びた。
暗い灰色の髪は相変わらずで、母さんに言わせれば「寝癖なのか地毛なのか分からない」らしい。
地毛である。
そして、加護は今も、ない。
秋の麦畑は、刈り入れの真っ最中だった。
刈った麦を束ねて袋に詰め、畑の端の荷車まで運ぶ。
言葉にすれば、それだけの仕事だ。
カイは両腕で袋を抱え直し、畝の間をよろよろと進んだ。
重い。
腕が震えるほどではないけれど、足元を確かめながらでないと、すぐにでも転びそうになる。
その横を、隣の家のおじさんが、袋を両肩に一つずつ担いで通り過ぎていった。
鼻歌まじりで。
さらにその向こうでは、父さんが三つ目の袋を積み上げている。
汗ひとつかいていないように見えるのは、きっと気のせいではない。
……まあ、分かってはいたことだ。
加護を持つ人と持たない人とでは、体の出来が違う。
五年もあれば、嫌でも思い知る。
カイがようやく一袋運ぶ間に、みんなは三袋を運び終えてしまうのだから。
「おーい、カイ」
荷車の上から、ルッツが手を振っていた。
十六歳になったルッツは、すっかり村の若手の中心になっている。
肩幅は大人の男と変わらないし、去年からは村の見回りにも加わるようになった。
「それ、持ってやろうか? 俺、もう手が空いてるからさ」
「いえ、大丈夫です。慣れてますから」
「……なんで敬語なんだよ」
ルッツが、呆れたように眉を寄せた。
カイ自身にも、よく分からない。
ただ、こういう時だけ、なぜか口調が丁寧になる。
そうしておけば、それ以上踏み込まれずに済むような気がするのだ。
「カイ、無理しないでね。あたし、もうすぐこっち終わるから」
今度は、畑の反対側からグレタの声がした。
十四歳のグレタは、去年の加護の儀を、何事もなく終えている。
あの時、広場で光が胸に吸い込まれていくのを見ながら、カイは誰よりも大きく拍手をした。
グレタが、儀式の前の晩まで不安そうな顔をしていたのを知っていたから。
今のグレタは、細い腕で麦の束を軽々と抱えている。
小柄なのに、足が驚くほど速い。それがグレタの加護の伸び方らしかった。
「平気だって。ほら、もう着く」
カイは笑って、最後の数歩を踏ん張った。
荷車の縁に袋を押し上げると、ルッツが上から引っ張り上げてくれる。
息を整えていると、父さんがこちらに歩いてきた。
ヨルクは、何も言わない。
ただ、カイの手に、刃の欠けた鎌を一本、そっと握らせた。
それから荷車の脇に置いてある砥石を、顎で示す。
研いでおけ、ということだ。
カイは、黙って頷いた。
鎌の手入れは、大事な仕事だ。
刃がなまれば、刈り入れが遅れる。
誰かがやらなければならないことで、カイはそれが得意でもある。
それでも。
砥石の前に腰を下ろした時、カイは、父さんの背中をまともに見られなかった。
父さんはこの五年間、一度もカイを責めたことがない。
加護の話をしたことすら、たぶん、一度もない。
ただ、こうして黙って、カイにできる仕事を選んで渡してくれる。
それを知っているから、刃を滑らせる手に、少しだけ余計な力が入った。
夕方、カイはルッツとグレタと三人で、村はずれのトネリコの防風林へ向かった。
畑の端に置き忘れた鍬を、取りに行くためだ。
ついでに、刈り入れが終わったら三人で何をするか、なんてどうでもいい話をしながら。
「だからさ、祭りの日は絶対に肉だって」
「ルッツ、去年も同じこと言ってた」
「去年は食えなかったからな。今年こそだ」
グレタがくすりと笑い、カイもつられて笑う。
五年前から、三人の距離は変わっていない。
変わったのは——
ざり、と。
防風林の奥で、何かが土を踏む音がした。
三人は、同時に足を止める。
木々の間の暗がりから、それはゆっくりと姿を現した。
狼に似ていた。
けれど、狼にしては大きすぎる。
背中は大人の腰ほどの高さがあり、黒ずんだ毛は針金のように逆立っていた。
白く濁った目が、三人を順番に捉える。
裂けた口の端から、粘ついた涎が糸を引いて落ちた。
「……嘘だろ」
ルッツの声が、かすれていた。
「魔物……? なんで、こんなところに」
「地上に魔物なんて、聞いたことない……」
グレタが、一歩後ずさる。
魔物は迷宮の中にいるもので、外に出てくることなど、まずない。
それは、この村の子どもなら誰でも知っている話だった。
知っているはずの話だった。
魔物が、低く唸る。
カイの体は、考えるより先に動いていた。
足元に転がっていた鍬を拾い上げ、二人の前に出る。
自分が一番前に立たなければ、と思った。
どうしてそう思ったのかは、分からない。
ただ、ずっと守られる側にいるのは嫌だと——
「カイ、待て!」
ルッツの声が届くより早く、魔物が跳んだ。
カイは鍬を振り上げた。
けれど、振り下ろす前に、横から凄まじい衝撃が来た。
視界が、ぐるりと回る。
気づいた時には、カイは地面に転がっていた。
手から離れた鍬が、遠くで乾いた音を立てる。
左腕が熱い。
起き上がろうとして、膝に力が入らないことに気づいた。
魔物が、こちらに向き直る。
白く濁った目と、目が合った。
「下がってろ、カイ!」
ルッツが、カイと魔物の間に飛び込んだ。
魔物の牙を、太い木の枝で受け止める。
みしり、と枝が軋んだ。
普通の人間なら、腕ごと持っていかれていたはずの一撃だ。
それをルッツは、歯を食いしばって押し返していく。
「グレタ!」
「分かってる!」
グレタの姿が、ふっと消えた。
——いや、消えたように見えただけだ。
次の瞬間には、グレタは魔物の背後に回り込んでいた。
拾い上げたカイの鍬を、魔物の後ろ脚に叩きつける。
魔物が、甲高い声を上げてよろめいた。
「カイ、動かないで! そこにいて!」
振り返りもせずに、グレタが叫ぶ。
その声に、カイの喉の奥がひくりと鳴った。
グレタは、カイより一つ年下だ。
小さい頃は、転んで泣くたびに、カイが手を引いて家まで送っていった。
そのグレタが今、自分を背中にかばって、魔物と向き合っている。
ルッツが、体勢を崩した魔物の首に、枝ごと体重をかけてのしかかる。
グレタが、もう一度鍬を振り下ろす。
鈍い音がして——魔物は、動かなくなった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
ルッツが、肩で息をしながら枝を放り出す。
グレタは鍬を握りしめたまま、その場にへたり込んだ。
カイは、地面に座り込んだまま、二人の背中を見ていた。
自分は、何をした?
鍬を一度、振り上げただけだ。
振り下ろすことすら、できなかった。
騒ぎを聞きつけた大人たちが駆けつけてきたのは、それから間もなくのことだった。
「ルッツ、グレタ! お前たちがやったのか!」
「すげえじゃねえか、二人とも!」
大人たちが、口々に二人を褒め称える。
ルッツは照れくさそうに頭を掻き、グレタはまだ少し震える手で、鍬をそっと地面に置いた。
人垣をかき分けて、母さんが飛び込んできた。
「カイ!」
ハンナは、地面に座り込んだカイの前に膝をつき、その顔を両手で挟んだ。
「怪我は? どこか痛いところは? ちゃんと言いなさい!」
「だ、大丈夫。腕を擦りむいただけだから」
「だけ、じゃないでしょ、まったく……」
母さんの声が、最後だけ少し震えた。
その後ろで、父さんが黙ってカイの頭に手を置く。
五年前と同じ、大きな手だった。
「カイ、腕、見せろよ」
ルッツが、心配そうに覗き込んでくる。
グレタも、その隣にしゃがみ込んだ。
「ごめんね、カイ。もっと早く動けてたら……」
「グレタが謝ることじゃないよ」
カイは首を振った。
「二人とも、ありがとう。……助かった」
笑おうとする。
口の端を、いつもみたいに持ち上げようと。
けれど、どうしてもうまくいかなくて、カイは途中で俯いた。
誰も、カイを責めていない。
誰も、カイを見下してなどいない。
ルッツもグレタも、大人たちも、父さんも母さんも、心からカイの無事を喜んでくれている。
……だから、余計に分かってしまう。
自分は、守られる側の人間なのだと。
ふと人垣の向こうに目をやると、ミルデ様の姿があった。
いつの間に来ていたのだろう。
ミルデ様は、倒れた魔物の傍らに立ち、じっとそれを見下ろしていた。
何も言わない。
ただ、黙ったまま。
「しかし、地上に魔物が出るなんてなあ」
「珍しいこともあるもんだ。わしがガキの頃にも、こんなことはなかったぞ」
大人たちのそんな声が、カイの耳を素通りしていった。
その夜、カイはなかなか寝つけなかった。
寝台の上で体を起こし、窓から差し込む月明かりに、自分の手のひらをかざす。
擦りむいた左腕には、母さんが巻いてくれた布がまだ残っている。
鍬を握っていた手のひらには、うっすらと豆ができていた。
五年分の畑仕事でできた、硬い豆だ。
それでも、何もできなかった。
ルッツやグレタのように、魔物と渡り合うことも。
誰かを背中にかばうことも。
五年前、あの広場で光が弾かれた時から、この手は何ひとつ変わっていない。
このままで、いいのだろうか。
明日も、来年も、ずっとこうして。
みんなに気を遣われて、守られて、力の要らない仕事を渡されて。
それを、ありがたいと笑って受け取り続けるのか。
カイは、ゆっくりと手のひらを握りしめた。
——このままじゃ、駄目だ。
けれど、何をどうすればいいのかは、分からない。
どうして自分だけ加護を受けられないのか。
それすら、カイはまだ知らないのだ。
いや。
一人だけ、知っているかもしれない人がいる。
五年前、カイの胸元を見下ろして、何かを言いかけてやめた人。
カイは、闇の中でそっと顔を上げた。
訊かなければならないことがある。——ミルデ様に。




