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不完全な女神と加護なしの少年。~迷宮都市グラナートで目覚める力~  作者: s-rush
故郷

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第002話 加護の儀

その朝、カイ・アッシュグレイは、パンを二回落としかけた。


一回目は、ちぎろうとした時。

二回目は、スープに浸そうとした時で、さすがに母の眉がぴくりと動いた。


「カイ。落ち着きなさいって言ってるでしょ」


「お、落ち着いてるよ」


「落ち着いてる子は、パンを二回も落としかけません」


向かいに座った母——ハンナが、匙を振りながら言う。

朝から声のよく通る人なのだ。

隣の家の鶏まで、つられて鳴いた気がする。


無理もない、とカイは思う。

今日は、加護の儀の日なのだから。


十歳になった村の子どもは、守護神から初めての加護を授かる。

加護を授かれば、鍛えた分だけ力が伸び、体も丈夫になっていく——らしい。

カイ自身はまだ知らないけれど、父さんを見ていれば分かる。


視線を横に向けると、父——ヨルクが、黙々とスープを口に運んでいた。

大の男が二人がかりで動かす丸太を、父さんは一人で担いでしまう。

それが加護の恩恵だと、村の誰もが言っていた。


「ほら、早く食べちゃいなさい。ミルデ様をお待たせしたら承知しないからね」


「分かってるって」


「それと、名前を呼ばれたら、はいって大きな声で返事。いい?」


「母さん、それ昨日の夜も聞いた」


「大事なことは何回言ってもいいの」


ハンナはからりと笑って、カイの暗い灰色の髪をくしゃくしゃにかき回した。


カイはパンを頬張りながら、ちらりと父のほうをうかがう。

何か言ってくれるのかと思ったのだ。

ヨルクは匙を置き、少しだけカイを見て——


「……行ってこい」


それだけだった。


けれど、カイは大きく頷いた。

父さんのこの一言は、たいてい、母さんの百の言葉と同じくらいの重さがある。



家を出ると、朝の風が頬を撫でた。


エッシェ村は、小さな農村だ。

なだらかな丘に麦畑が広がり、その縁を守るように、トネリコの木々が一列に並んでいる。

畑を風から守る防風林で、村の子どもたちの遊び場でもある。


畑の向こうに、見慣れた姿がある。


袖をまくり上げ、村の男たちと並んで畝の様子を見ている女性。

ミルデ様だ。

エッシェ村の守護神。

……なのだが、鍬を握る姿は、どう見ても近所の面倒見のいいお姉さんだ。


「おーい、カイ!」


振り返ると、道の向こうから二つの人影が駆けてくるところだった。


先を走るのは、ルッツだ。

カイより一つ年上で、去年、一足先に加護の儀を済ませている。

その後ろを、グレタが小走りで追いかけてきた。

こちらは一つ年下で、儀式は来年になる。


「遅いぞ、カイ。主役が寝坊してどうすんだよ」


ルッツは腕を組み、妙に偉そうに胸を張った。

去年の儀式以来、ずっとこの調子なのである。


「いいか、カイ。加護をもらうとな、体の奥がこう、ぐわっと熱くなるんだ。で、鍛えりゃ鍛えただけ伸びる。俺なんか一年で薪割りが倍の速さだぜ」


「倍は言いすぎでしょ」


グレタが、横から冷静に口を挟む。


「言いすぎじゃねえよ。見てろ」


ルッツは道端の石を、ひょいと片手で拾い上げた。

カイが両手で抱えて、やっと持ち上がるくらいの石だ。

それを得意げに放り投げると、石は畑の手前でごろりと転がった。


……確かに、すごい。

すごいのだが、その得意満面の顔はどうにかならないものだろうか。


「いいなあ……」


グレタが、ぽつりと呟いた。


「あたしも早く十歳になりたい。一年も待つの、長すぎるよ」


「来年なんてすぐだって。な、カイ」


「うん。すぐだよ」


カイが頷くと、グレタは頬を膨らませた。


「カイはいいよね。今日もらえるんだから」


「まあ、そうなんだけど」


カイは、思わず頬を緩めた。

自分の手のひらを見下ろす。

今日からは、この手も父さんやルッツみたいに伸びていくはずだ。


疑う理由なんて、どこにもなかった。




儀式は、村の広場で行われる。


広場の真ん中には古い石の台座があり、その前にミルデ様が立っていた。

さっきまで畑にいたはずなのに、袖はきちんと下ろされ、土の汚れもどこにもない。

こういう時だけは、ちゃんと神様に見えるから不思議だ。


台座の前には、カイを含めて今年十歳になった子どもたちが五人、横一列に並んでいる。

その後ろを、村人たちがぐるりと囲んでいた。

父さんと母さんの姿も見える。

ルッツとグレタは、一番前の特等席を陣取っていた。


「では、始めましょうか」


ミルデ様の声は、大きくはない。

それなのに、広場のざわめきが、すうっと引いていった。


一人目は、粉屋の息子だった。


ミルデ様が手をかざすと、その手のひらから、淡い光がこぼれる。

光は彼の胸元へ吸い込まれ、ほんの一瞬、その体の輪郭を内側から照らして——消えた。


粉屋の息子は、目を丸くして自分の手を握ったり開いたりしている。

やがて、ぱっと顔を輝かせて振り返った。

広場に、わっと拍手が湧く。


二人目も、三人目も、四人目も、同じだった。

そのたびに拍手が起き、名前を呼ばれた子が照れくさそうに笑う。


順番が近づくにつれて、カイの心臓は、どんどんうるさくなっていく。


「カイ・アッシュグレイ」


名前を呼ばれた。


「は、はいっ!」


声が裏返った。

後ろのほうで、母さんが額を押さえた気配がする。


カイは一歩前に出て、ミルデ様の前に立った。


「緊張しなくていいのよ。……楽にしていなさい」


ミルデ様はいつもと同じ穏やかな顔でそう言うと、カイの前に手をかざした。


手のひらから、淡い光がこぼれる。

光はゆっくりとカイの胸元へ近づいてきて——


ぱちん、と。


何かが、弾けた。


光は胸元に吸い込まれることなく、触れた瞬間に跳ね返り、細かく砕けて散っていく。

火の粉のような光の粒が、カイの目の前でちらちらと瞬き、消えた。


……え?


カイは、ぽかんと口を開けたまま、自分の胸元を見下ろした。


何も、感じない。

ルッツが言っていたような、体の奥が熱くなる感覚も、何も。

顔を上げると、ミルデ様の手が、宙で止まっていた。


ほんの一瞬。

いつも穏やかなその顔が、わずかに強張ったように見えた。

驚いた、というのとは少し違う。

何かに、気づいたような——


いや、気のせいかもしれない。

次の瞬間には、ミルデ様はいつもの表情に戻っていたから。


「……もう一度、いいかしら」


「は、はい」


ミルデ様が、改めて手をかざす。

今度は、さっきよりも慎重に。


光が、胸元に触れる。


ぱちん。


同じだった。

光は弾かれ、散り、跡形もなく消えていく。


広場が、しんと静まり返った。

それから、ざわめきが少しずつ広がっていく。


「今の、なんだ……?」


「失敗、か?」


カイは、動けなかった。

足が、地面から離れてくれない。


儀式を終えた子たちの視線が、背中に刺さる。

いや、刺さる、というほどのものではないのかもしれない。

みんな、ただ戸惑っているだけだ。

カイ自身と、同じように。


ミルデ様は、静かに手を下ろした。


「今日の儀式は、ここまでにしましょう」


穏やかな声だった。

いつもと何も変わらない、よく通る声。


「カイ。あなたのことは、また改めて。……いいわね?」


「……はい」


返事は、さっきと違って裏返らなかった。


その時、カイは見た。

手を下ろしたミルデ様が、ほんの一瞬だけ、自分の手のひらに目を落としたのを。




儀式が終わってからのことは、あまりよく覚えていない。

覚えているのは、誰も、カイを責めなかったということだけだ。


「気にすんなよ、カイ。ミルデ様だって、たまには調子の悪い日もあるさ」


村の大人たちは、入れ替わり立ち替わりカイの肩を叩き、笑いかけてくれた。

誰一人、嫌な顔はしない。

おかしな子だ、なんて陰口も、どこからも聞こえてはこなかった。


「カイ、本当に大丈夫か? 無理しなくていいんだぞ」


「いえ、大丈夫です。俺、平気ですから」


カイは、笑ってそう答えた。

ちゃんと笑えていたと思う。

たぶん。


それが、かえって。


ハンナは、広場から帰る道すがら、カイの手をぎゅっと握って言った。


「大丈夫よ」


迷いのない声。


「加護があろうがなかろうが、カイはカイ。母さんが保証する。だから、大丈夫」


あまりにもはっきり言い切るものだから、カイは少しだけ笑ってしまった。

母さんがそう言うと、本当にそんな気がしてくるのだ。


ヨルクは、何も言わなかった。

ただ、家の前まで来たところで、大きな手をカイの頭の上にぽんと置く。

いつもより、少しだけ長く。


家の前の通りでは、今日加護を授かった子たちが何人か集まっていた。

それなのに、カイの姿に気づいた途端、みんな示し合わせたように声を落とした。


粉屋の息子が、握りかけていた拳を、そっと背中に隠す。

加護の話をしていたのだろう。


……分かってしまう。

みんな、気を遣ってくれているのだ。

自分のために。


少し離れたところに、ルッツとグレタもいた。


ルッツは何か言おうとして口を開き、また閉じる。

それを三回ほど繰り返してから、結局、頭をがしがしと掻いただけだった。

朝はあれほど偉そうにしていたのに、今はずいぶん大人しい。


グレタは、ルッツの陰に半分隠れるようにして、カイの顔をうかがっていた。


「……ねえ、カイ」


「うん?」


「あたし、来年……」


グレタはそこで言葉を切り、唇を噛んだ。

その続きを、カイはなんとなく察してしまう。

来年が待ち遠しいと、今朝はあんなに言っていたのに。


カイは、にっと笑ってみせた。


「大丈夫だって。グレタの時は、きっとうまくいくよ」


グレタは、何も言わずに小さく頷いた。

けれど、その顔は、今朝みたいには輝いていなかった。




夕方になると、カイは一人で、トネリコの防風林へ向かった。


家にいると、母さんも父さんも、いつもより少しだけ優しすぎる。

だから、少しだけ、一人になりたかったのだ。


一番端の、一番太いトネリコの根元に腰を下ろす。

見上げると、夕日に透けた葉が、さわさわと揺れていた。


深い緑の葉。

母さんはよく、カイの目はこの葉っぱと同じ色ね、と言う。



カイは、自分の手のひらを見つめた。


今朝と、何も変わらない手。

父さんのように丸太を担げるわけでもなく、ルッツのように石を放り投げられるわけでもない。

ただの、十歳の子どもの手だった。


どうして、自分だけなんだろう。


何か悪いことをしたのだろうか。

それとも、自分がどこか、おかしいのだろうか。


答えは、どこからも返ってこない。


「やっぱり、ここにいたのね」


振り向くと、ミルデ様が立っていた。

いつの間にか、袖がまたまくり上げられている。


「……ミルデ様」


カイは慌てて立ち上がろうとして、手で制された。

ミルデ様はそのまま、カイの隣に腰を下ろす。


しばらく、二人とも黙っていた。

トネリコの葉擦れの音だけが、頭の上を通り過ぎていく。


「……ごめんなさい」


ミルデ様が、こちらを見る。


「せっかくの儀式だったのに。俺のせいで、あんな終わり方になっちゃって……」


ミルデ様は、すぐには答えない。

少しだけ間を置いて、それから、静かに言った。


「謝らなくていいの。あなたは何も悪くないでしょう?」


慰める、という口調ではなかった。

畑のあぜ道で、走り回る子どもに「転ばないようにね」と声をかける時と同じ。

当たり前のことを、当たり前に告げる声だ。


だからこそ、カイは何も言い返せなかった。

かわいそうに、と言われたら、きっと泣いていた。

けれどミルデ様は、そんな言葉を一つも口にしない。


カイは、膝の上で拳を握った。

喉の奥が、熱くなる。

目の奥も、少しだけ。

それを、ぐっと飲み込んだ。


「……そう、ですよね。分かってます」


声の最後が、少しだけ揺れた。

ミルデ様は、それに気づかないふりをしてくれた。


やがて、日が丘の向こうに沈みかけた頃。


「そろそろ帰りなさい。ハンナが心配するわ」


ミルデ様が立ち上がり、服についた土を払う。

カイも、のろのろと腰を上げた。


「はい。……ありがとうございました、ミルデ様」


頭を下げて、顔を上げる。


その時、ミルデ様の視線が、ふっと下がった。

カイの顔ではなく、もう少し下。

胸元のあたりに。


「カイ」


「はい?」


ミルデ様は、何かを言いかけるように唇を開いた。

けれど、言葉は出てこない。


「……いいえ。なんでもないわ。気をつけて帰るのよ」


それだけ言うと、ミルデ様は背を向け、村のほうへ歩いていった。

カイは、その背中が見えなくなるまで見送った。


何を、言いかけたんだろう。


訊けばよかったのかもしれない。

けれど、訊いてしまったら、もっと聞きたくない答えが返ってくるような気がした。


風が吹いて、トネリコの葉がざわりと鳴る。

カイはもう一度だけ、空っぽの手のひらを見下ろして——ゆっくりと、握りしめた。




その日から、カイは村でただ一人の「加護なし」になった。


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