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幽霊団地廃墟群のさらに外れた場所に、一見崩れかけた二階建ての建物が存在する。
かつて薬品研究室として使用されていたその建物は、地面深くに地下室を保有していた。
つい先程までハルがいたその場所には、彼によって幾重にも鍵が仕込まれ、彼以外の何者をも拒むように閉ざされている。
薄い青のリノリウムが張られたその部屋は、様々な薬品の臭いと湿り気に満ちていた。
部屋の中は医療用のベッドと拘束具、四角いアルミの皿に載せられた手術用の器具、さらに外から持ち込まれた三つのドラム缶と、何十リットルにも及ぶ薬品を入れた立方体の鉄の缶が配置されている。
ここまで来た『青い蝶』の犠牲者は、これら用具によってほぼ完全に肉体を消されてきた。
一部を覗いては。
蛍光灯に照らされた壁際には鉄製の棚がずらりと並んでおり、そこには両手で包んで余るほどの大きさの透明な瓶がいくつも並んでいる。
僅かに濁った透明な液体に満たされたその中には、乳色の柔らかな物体が一つずつ漂う。
丁寧に切り取られた脳の一部だ。
この街の怪物たちの精神を、ハルは瓶に一つずつ閉じ込めていった。
そして新しい瓶が、また一つ。
中には武井崎の脳の一部が音もなく浮かんでいる。
今回、武井崎の本体は全て消さずに、その一部を第三者に発見させた。
それが危険なことであることを承知の上で、ハルは何度か意図的にこのように被害者を遺棄している。
精神を支配したメッセンジャーとして、外の世界に送り出すのだ。
武井崎の場合はそうすることで、今回の黒狼事件を収束させる意図もあった。
マガミならばその意図が分からずとも、武井崎が『誰』なのかは気づくと確信していた。
実際はそれ以上のものにも気づかれたが、それも時間の問題だと思っていたし、そもそもハル自身は黒狼時代に自分の正体に気付かれると考えていた。
それがここまで遅くなったのは、あまりにも彼らの距離が近くなりすぎてしまったからだろう。
近すぎたことで、マガミは相棒の本質を見失ったのだ。
実際はマガミがこの街の一番明るく高い場所を棲家としたように、ハルはこの街の一番暗く深い場所に安らぎを見出していたというのに。
棚に置かれた瓶は、一つの段に五つずつ。
彼らの外側も内側も、ハルはありありと思い出せる。
彼らが『何者』であったのかも。
一番左上に浮かぶ脳。
最初の獲物は、特によく覚えている。
自称、人権派社会ジャーナリストの中年の男。
その記者は四年前の事件のすぐ後、ハルの面会謝絶が解けた病室に初めて現れた。
彼を見た瞬間、ハルは匂いに似た『何か』を感じた。
ほぼ一方的に言葉を投げかけられた時から、その記者が平均より頭の良い男であることが分かった。
ただし、あくまで平均よりは。
人当たりの良い笑みが仮面のように張り付いた記者は、同じような柔らかい膜のような言葉にナイフを忍ばせるのを得意とした。
そういった類の人間は分かりやすい。
ハル自身がよそ者という立場から共同体の一部となるために、何度も同じようにして他人の精神に介入してきたから。
だがそんなハルに比べて、その記者は稚拙で短気で思慮が浅過ぎた。
人を操っていると思い込んでいる人間を操るのは、そうでない人間を操るより簡単だ。
自らの精神崩壊を復讐という柱で支えようとしていたハルは、その記者を利用することにした。
記者ならば、おそらく一般人よりも『ジャック』についての情報を持っていると確信したからだ。
時に混乱したように、時に激高したように、ハルは記者が思う『被害者』の姿を演じながら、逆に彼の様子を細かく観察した。
その結果、『ジャック』やリッパーズストリートの裏社会の事情を含む数多くの情報を知らずに漏らしていたことに、この記者は最期まで気づいていなかっただろう。
計算に計算を重ねた信頼関係という刃物で慎重に剥がした記者の仮面の下は、それは醜いものだった。
被害者の心理を浮き彫りにすると言う名目の裏では、犯罪被害者を執拗なまでに追い回し、時に彼らの周囲に根も葉もない噂を立てて追い詰め、弱らせて自分の筋書き通りの証言や写真を奪い取る。
彼の言動を元に調査すると、彼が取材した人間のほとんどが精神を病み、そのうちの何人かは自殺により命を絶っていることが分かった。
その後『ジャック』の遺体が海から上がり、ハルが再度世界に絶望した頃、その記者はもう一度ハルの前に姿を現した。
記者はハルの傷を見たがった。
体ではなく心の。
「あの怪物は死んで当然だ」と、喜び怒り悲しむ姿を見たがった。
優しい言葉で琴線に触れ、感情を乱して乾いた傷から血が溢れるのを期待していた。
それが分かったから、ハルは少し悲しそうな顔だけしてやった。
そして記者の思惑とは逆に、「彼にもきっと、なにか事情があったんだと思う」と『ジャック』に対しての赦しを見せた。
思った通り、その記者は更に傷をえぐり始めた。
段々と言葉から優しさを外し、いつの間にか刃をむき出しにした言葉をハルに投げつけるようになる。
両親が死んだ状況を、その傷の一つ一つを、致命傷を、息子であるハルに向かってまざまざと見せるけるように語り、それでも『ジャック』を憎まないのかと吐きかけた。
それでも『ジャック』に対して同情心を見せるハルに、最後の方は怒鳴りつけるようにして、ハル自身がどれだけの時間をかけ、どのようにして切り裂かれたかを説明する。
そして、目を切りつけられた弟の話を。
記者は言った。
次は君の弟に話を聞きに行こう。
ご両親と兄がどうやって襲われたかを、彼は覚えていないのだろう?
もし話したら思い出すかもしれない。
君より鮮明に『ジャック』について思い出し、彼に対する感情を私に教えてくれるだろう。
そう言った記者の顔を見て、ハルは納得した。
最初に感じた漠然とした何かは、今や完全にあの怪物『ジャック』と同じものになっていた。
記者の顔も声も匂いも全て、ハルを襲ったあの男と同じものに。
こいつの刃は『言葉』だ。
『ジャック』は生きている。
それに対して苦痛と、そして嬉しさを感じた。
あいつはまだ生きている。
まだ、復讐をすることが出来る。
今度は、俺の番だ。
暗い地下室で長い時間を掛けて記者の命を止めた時、予想もしない感情が沸いて出た。
どこかで見たシリアルキラーの話では、このような場合は性的興奮を覚えると書いてあったが、むしろ逆だった。
ただただひたすら、心の中に平穏が広がった。
もう二度と味わうことなど出来ないと思っていた安らぎ。
気道から体の奥まで、爽やかな風が通り抜けるような静穏。
光を失った記者の目を、ハルは愛おしくさえ思った。
だから、そっと語りかけた。
きっとお前は、またこの街に現れるのだろう?
だったら、ちゃんと俺の前に現れてくれ。
間違っても弟の前には行かないで。
お前が作った『青い蝶』はここにいる。
「俺は、まだ生きている」
灯りの消された地下に埋まった研究室には、光の一つも入ってこない。
壁際に並べられた鉄製の棚に置かれた瓶の中身も、今は何も言わない。
几帳面に一番上から並べられたその瓶は、既に三段目に入っていた。




