8-9
空を見上げると、厚い雲が切れているのが目に入る。
きっとあの切れ目からは明るい光が漏れ出し、初夏への晴れ間を垣間見せるのだろう。
それなのに。
ハルの目に映るのは薄暗い灰色の景色で、その耳に聞こえるのは絶え間ない雨の音だ。
四年前の事件以来、ハルの五感は両極端なものとなった。
彼が強く意識すれば、一時的に驚異的なまでの五感を得ることが出来る。
以前、後藤文一が被害にあったゴミ捨て場で、僅かな髪の毛を発見したりや血の匂いを嗅ぎ取ったように。
だがそうでもしなければ、彼の世界は常に灰色で雨音が響いていた。
人を殺した時。
あの『ジャック』と同じ人間を殺した時だけ、四年前と同じ感覚が返ってくる。
雨に溺れた日々の中から現実への息継ぎをするためだけに、ハルは人を殺し続ける。
ハルはゆっくりと目を閉じて、薄く開く。
「………」
そこに映るのは、いつもと変わらぬ灰色の世界だ。
失望をため息とともに口から吐き出す。
軽く拳を握ると皮膚とは違う、気味が悪いほどに滑らかな感触が指に触れる。
四年前に刻まれた苦痛の跡は、刻印のように白い肌を這っている。
手の平まで達した手首の傷を隠すため、ハルはパーカーの袖を手繰るように引っ張り、その手で蓋をするように嵌められたイヤホンを、奥に押しこむ。
そうして、彼にしか聞こえない雨の音をごまかすために、音量を上げる。
身を隠して蓋をして、ハルは四年前からそうやって自分自身を守ってきた。
外から誰も、何も入れないように。
今この瞬間も、乾ききった喉を潤すのと同じように、笑いながら誰かを斬りたくて仕方がない。
そんな本性を出さないように。
狂ってるわけではない。
二重人格なわけでもない。
自らの感情が家族への愛情を上回った時、彼はそれを自覚してしまった。
いや、きっと。
ずっと分かっていたからこそ、異常なまでに弟に愛情を注ぎ、自らの異常性から目を逸らしたのだ。
だからこそ彼は、先に進み安定と幸福を手にした弟から手を離すしかなかった。
先に進み、仲間とともに新しい街を創造しようとする友の前から姿を消すしかなかった。
どこにも動けない暗い場所から彼らに手を伸ばすには、彼の手はあまりにも血で汚れ過ぎた。
ハルの灰色の世界の中で、彼らだけが彼らの色と音を持っていた。
それを失いたくなかった。
自分の手で消してしまうようなことがあってはならない。
そうやって、いつも誰かの背中ばかり見てきた。
そしてきっとこれからも。
暗い傷を乗り越えて前へと進んでいく仲間たちの背中を、彼は見送り続けるのだろう。
四年前の雨の中、たった一人で。
錆びついた鉄の階段を伏せ目がちで一段ずつ登る。
彼の部屋がある二階に着くと、部屋に大きな人影があった。
膝を抱え蹲るようにして背中を扉に預けていた人物は、階段から現れたハルを見とめると、待ち焦がれていたようにぱっと顔を上げて、瞳を輝かせる。
「兄貴!」
リクが立ち上がって、軽い足取りでハルに寄る。
真っ直ぐ兄しか見ていないその顔は、ハルが知っている昔のままだ。
リクは通路にできた水たまりも気にせず、飛沫を上げて靴を濡らした。
どこかスッキリしたような顔をした弟を見るだけで、ハルは弟とミズキの間で何があったのかを悟る。
畑山とミズキの関係に気付き、そして、少なくとも最悪の状況から友人を救い出すことが出来たのだろう、と。
「良かったな」
「え?
あぁ、うんっ!」
リクは一瞬きょとんとしたが、ハルに悟られていることを悟り、破顔する。
「でも大丈夫かなぁ?
あ……畑山先生の親って権力者でしょ?
色々調査されたりして、ミズキの事、ばれちゃったりしないかな?」
今回の事件の発端となった過去の切り裂き事件の被害者である櫻谷奈々を調査されてしまったら、きっとミズキとの関係性も分かってしまう。
ミズキが今回のコードハントのディーラーであると分かってしまった場合、権力者である畑山家が何をするか分からない、とリクは危惧しているようだ。
しかしハルは鼻で笑って返す。
「彼女の父親なら、今はそれどころじゃねぇよ」
「へ? どういうこと?」
「偶然にも昨日の夜、未成年との淫行事件と隠し子、それから秘書の自殺数件分と数億円の使い込みがリークされたところだからな」
「……凄い『偶然』だね」
それが偶然ではないということを、流石のリクも理解した。
ハルを含むクーガの一味が、コードハント:ネイビス切り裂き事件のために最後の仕事をしたのだろう。
「そもそも彼女の父親が問題児の娘を庇い続けたのは、愛情からではない。
世間体だ。
でなければ、娘の売春やら裏社会との関係やらを黙認するわけがないからな。
あの女が父親に切り捨てられるのも時間の問題だろう」
ハルの言葉を聞いて、畑山もまた、愛情に飢えていたのだろうとリクは想像した。
だからといって同情するわけでもなく許せるわけでもない。
だが愛情に満たされていたリクには考えられない彼女の闇も、確実に存在していたのだろう。
ともかく、そんな弟の杞憂もハルはとっくに解決していたということになる。
「ありがとな、兄貴」
頭ひとつ以上も大きなリクが、子どものような顔をする。
「何が」
対するハルは、いつものように感情のない声で返す。
「協力してくれてありがとう。
兄貴のお陰で、全部終わったよ」
「お前のためにやったわけじゃない」
ハルは彼を避けるように、大きな体を押しのけるようにして横をすり抜ける。
そっけない態度だったが、リクは気にせず小さな背中を意味ありげな笑みを作って追いかける。
「へぇ?
俺を助けるために公園や工場で闘ってくれたのも?
俺を庇って自分が怪我をするのも?
勝手なことしないように傍に置いてくれたのも、学校で襲われないようにライカ先輩につけさせてたのも、ミズキのことを誰にも言わないで、守ってくれたのも?
全部俺のためじゃなくて兄貴自身のためなんだ?」
「……言うようになったじゃねぇか」
振り向きもせずに小さな舌打ちと一緒にハルが返した。
その答え方に顔中で笑い、その後で少し真剣な声でリクが言う。
「兄貴のお陰で、これ以上『Ripper』や『BlueButterfly』の被害者が出なくてすむんだ。
みんな……俺もずっと怖い想いをしてたのに、兄貴がそれを終わらせたんだよ」
「畑山やミズキについては?
全て終わって良かったね、とは言えないんじゃないか?」
ハルが止まって言うと、さすがにリクも少し苦い顔をした。
自分と他人を傷つけながら、必死に闘っていたミズキに気づいてあげられなかった。
親しみを感じていた畑山の本性に気づけなかった。
何もなかった頃にはもう戻れない。
もし事件が解決されなければ、あの頃のままでいられたかもしれない。
ハルが言っていたとおり、真実だけが全てではないのかもしれない。
だが、それでもリクは後悔はしてなかった。
失ったものもあったが、事が落ち着く場所に落ち着いたとリクは思っていた。
それはミズキの涙を見ても分かる。
溜まりきって行き場を失くしていた彼の黒い感情を、ほんの僅かでも救ってやれたのだ。
それだけでもこのゲームを終わらせた甲斐があった、そうリクは確信している。
「これで良かったんだ」
リクの言葉に嘘はなかった。
見上げるようにしてハルが後ろのリクを振り向く。
正反対の光を灯す視線が重なる。
兄は弟の全てを理解し、しかし、何も言わない。
弟は兄を理解できず、しかし、その手を伸ばして全てを掴み取ろうとする。
想い合っても、それが交わることはなかった。
ハルはすっと視線を逸らして、静かに「そう」と呟くだけだった。
「あのな、兄貴。俺思ったんだけどさ」
ドアに鍵を差し込みながら、ハルが視線だけを向ける。
「俺はずっと、兄貴の後を追ってきただろ?
ずっと兄貴に縋って生きてきた。
それで今回も……いや今までずっと兄貴の負担になってきた。
兄貴は俺の代わりに、いつも傷ついて苦しい想いをしてきた」
ハルとリクの間にある水たまりをつま先で弾きながら、伏し目がちにリクが言う。
「だから俺、もうちょっと強くなるよ。
本当はもっと早く気づかなきゃいけなかったんだよな。
兄貴がいなくなる前に。
……今更だけど」
ハルはカギを握ったまま次の言葉を待つ。
水たまりを見ていた視線が、ハルに向く。
「兄貴言ってくれたよな、俺が北極星だって。
俺の場所まで行くから待ってて欲しいって。
でもさ、当の俺がこのままじゃ駄目だよな。
だから俺、強くなって、ちゃんと兄貴から見えるようにするからさ。
だからまた……」
真っ直ぐに自分の目を見つめるリクを、ハルが目を細めて見る。
くすんでしまった世界で、数少ない色がついた景色だった。
そして、四年前と何も変わらない景色でもあった。
「また、な。兄貴」
ひまわりのような笑顔でリクがにっと笑う。
そして照れたようにハルに背を向けると、水たまりを蹴飛ばすように早足で歩き出す。
一瞬、その背中にハルが手を伸ばそうとする。
「……っ」
伸ばしかけて、思い出す。
四年前、目覚めた病室に来たリクの背中を。
切り裂き事件の後の病床で、ハルは悪夢と恐怖で混乱に支配され、弟の顔すら見ることができなかった。
一言も発せずにいたハルの様態を慮った医者の言葉で新しい家族とともに病室を出ていこうとする弟の背中に、今のように縋るように手を伸ばしかけた。
だが彼には、その手が肌の色も見えないくらいに、血に濡れて真っ赤に染まって見えた。
夢であの『ジャック』を殺した時のまま、現実に出てきてしまったように。
だが、その血はすぐに消えた。
『夢』が『現実』として現れたのを見て、ハルは愕然とし、同時に明確なまでに理解してしまった。
弟の新しく暖かな絆で繋がれた世界に、その手を伸ばしてはいけない、と。
だから、呼ばなかった。
呼べなかった。
泣いて叫んで名前を呼んで、その汚い手を、壊れてしまった自分を押し付けるわけにはいかなかった。
だから、全て飲み込んだ。
この場所で、一人でもがくことを選んだ。
家から離れて生きていくことを選んだ彼を、泣きながら呼ぶ弟の声を今でも思い出す。
振り返り駆け寄って抱きしめたい衝動を、耳をふさいで、唇を噛み切って振り切った。
そんな兄を迎えに来た弱虫な弟の姿も、鮮明に思い出せる。
隣にいる弟を、帰りの電車の中で揺れる所在無げに揺れる弟の手を、見てしまわぬように背を向けた。
弟を守るために。
他でもない自分自身から。
その先に救いなど存在しない、醜い快楽殺人者の手から。
上げかけた手を、ハルが強く握って下ろす。
階段に向かうリクの背中が、曲がり角に消える。
軽快な音を立てて、足音は少しずつ小さくなる。
そして、その音が消えた頃。
「そんなに先に行かれたら、追いつけねぇよ。馬鹿」
小さく吐出された言葉は、彼にしか聞こえない暗い雨に溶けるようにかき消された。
雨はまだ、止まない。




