8-7
「……あの日」
ハルは震える手で握りしめたナイフに一度力を入れ、だがそのまま力なく手を下ろす。
その腕は重力に任せてだらりと揺れる。
眉を寄せて目を閉じ、感情を再設定する。
やがて動悸がいつも通りの早さに戻ると、ハルは静かに口を開いた。
「俺はあの日、一度死んだ」
あの悪夢を見ない日はない。
あの夢は、ある意味で現実でもあるのだろう。
自分の死と弟を失う恐怖から逃れるために、その根源たる対象を消そうとする。
夢の中で、殺すことと殺されることを繰り返す。
終わらない悪夢を、彼自身はそう解釈した。
「あの『ジャック』とかいう野郎も死んだだろ。
……あぁそうか、だからか。
お前が人を襲うのは、切り裂き魔が死んだからか?」
自分自身の言葉に答えを得たマガミの考えは、相変わらず的を射ていた。
ハルは答えず、少し苦しげに唇を噛む。
「ハル、お前は死んだ男を探しているのか。
お前の中の全ての感情を、その男に会って返さなきゃいけなかったんだろう?
だが切り裂き魔は、その一歩前で死んだ」
あの事件の後、傷だらけの体と精神を引き摺って、ハルは切り裂き魔『ジャック』の情報を掴んだ。
そして追いかけたその先で彼が見たのは、パトカーに囲まれた中で海から引き上げられた一台の乗用車と、その中で焼死していた、あの男『ジャック』だった。
それを見た瞬間、ハルは膝から崩れ落ちた。
あの男が死んだことに対する安堵や喜びではない。
吐き気を催すほどの、絶望だ。
この感情をどうすればいい。
苦痛を、遺恨を、恐怖を、叫びを、怒りを、どうすればいい。
それをぶつけるためにここまで来たのに。
その感情は全てそのまま、ハル自身を打ちのめすようにして返ってきた。
二度目の絶望は、彼の世界を殺した。
色のない雨の世界。
あの日の情景。
灰色が網膜を支配して、鳴り止まない雨音が鼓膜を揺らす。
「俺は死んだ。
俺の世界も死んだ。
あの日、一度全てが死んだ」
夢の世界でも、現実の世界でも、ハルは溺れて死に続けている。
「その死んだ世界で、なぜお前は人を襲う」
マガミの問いにハルは視線を宙に浮かせるが、それも力なく伏せられる。
まるで寝言のように、喉の奥からかすれた声でハルは答える。
「……あの日に、戻るんだ」
「は?」
「アイツらを殺せば、俺はあの日に戻れる。
うるさい雨の音も、溺れるような息苦しさも全部消えて、俺の世界に色が戻る」
きっかけは偶然だった。
『ジャック』死後、ハルに一つの癖ができた。
突発的な自殺癖。
だが、その全てに彼は失敗した。
全てを万能にこなすハルだったが、死ぬことは苦手だったようだ。
用意周到にしていればもちろん可能だが、その衝動がいつ起こるか分からないせいで、常に中途半端に失敗している。
衝動的に五階から落ちて死ななかったときは流石に自分の才能の無さを呪いたくなり、自棄になって街を徘徊していた時だった。
繁華街の路地裏で、二十半ばほどの一人の男に絡まれた。
理由なんて覚えていない。
もはや死ぬ気すら失せていたハルは、絡んできた男を返り討ちにした。
その時、気付いたのだ。
血。
赤い色。
手についた血が、灰色の世界の中で唯一鮮やかに色づいていることに。
その赤を中心に、世界が色を取り戻す。
気づいたらハルは笑いながら男を殴っていた。
あぁこれか。
彼は疑問も無く納得した。
あの悪夢と同じだ。
血が流れれば、世界が色を取り戻す。
これで、俺は元の世界に戻れる。
色があって雨音がしない、なんの苦痛もない世界に。
溺れ続ける世界で、唯一呼吸が出来る世界。
絶望は希望に、そして彼にとって最も強い欲望に変わった。
希薄になった全ての欲望の代わりに、たった一つ、誰か傷つけて血を流しながら怯える顔が見たい。
誰でもいいわけではない。
『ジャック』に近い人間を。
あの男のように、笑いながら人を切り裂く人間たちを。
乾ききった喉を潤すように、強く強く、ただ一つ強く求めた。
しかしやはり他の欲求と同じように一度欲求を満たしても、時とともに世界は色を失い、雨音が蘇っていく。
だが色鮮やかな場所に留まり続ければ、いずれ本当に雨の音が止むかもしれない。
とあるきっかけで、この欲望が満たされ、元の世界に戻れる日が来るかもしれない。
切り裂き魔『ジャック』という怪物の死は、もう一人の怪物をこの街に生み出したのだ。
「生き延びるつもりなんて最初からないし、何度も死のうとしたけど、その度に俺は生き残った。
それはきっと、心のどこかであいつに対する復讐心が残っているからだ。
あいつがこの街にいる限り、俺は死ぬことすらできない」
宙をさまよっていたハルの眼が、くっと力が入る。
「俺の中からあいつが消えたとき、俺は俺に戻れる。
そこできっと、俺は俺の人生にケリをつけられるんだ。
だったら俺は、殺し続けるしかないだろう?」
「……それがお前の『怪物』の正体か」
マガミがハルの中に見ていたもの。
数年間傍にありながら、マガミはその実態を捉えることが出来ずに手放してしまった。
「これでも、お前は俺を理解できると言うのか?」
ハルが大きな何かを抱えているのは、マガミにも分かっていた。
マガミ同様に獰猛で血に飢えた怪物。
だがそれは、彼が思っていた以上に悲痛な叫びを以って生まれた怪物だった。
「あいつらは、お前を理解できるのか。
知ってるんだろう?
お前が『青い蝶』だと」
マガミが喉の奥に詰まるものを感じながら、問い返す。
あいつら、と言うのはアキ達のことだろう。
ハルの事を知っているのは、アキとカイ、クリス、そしてリサが全てだ。
「理解なんていらない」
「だがお前に協力しているんだろ。
お前の、人殺しに」
「あいつらは、俺と同じだ。
一方的に奪われて踏みにじられていた」
目をそらして言ったハルの言葉とその意味に、マガミが納得したように頷く。
「そうか、お前が助けたのか」
彼らを一方的に踏みにじった凶悪犯を喰らったのが、『青い蝶』だったのだ。
切り裂き魔を喰らう『青い蝶』。
他の人間にとっては怪物でも、彼らにとっては救いの神にも等しく、だからこそ心身を捧げるようにしてハルに従う。
そしてそれがクーガという組織として動いていた。
だがハルは首を横に振る。
「違う。
偶然俺の獲物だったんだ。
俺がやるのは、誰かのためじゃない。
俺が俺であるため。
そして、あの切り裂き魔、『ジャック』を殺すためだ」
「『ジャック』は死んだだろ」
「死んでない!」
マガミを睨むようにして見開かれたハルの目には、狂気にも似た光が走る。
息苦しそうにハルは胸の辺りを掴むように抑える。
荒げた叫びは、悲痛な色を滲ませていた。
「死んでねぇんだよ!
俺の中には、まだあいつがいる!
あいつが笑ってるんだよ!
何人も何人も、俺の足を掴んで引き摺り込もうとして、笑ってるんだよ!
だから。
だから俺は……探して、何度でも、あいつが俺の所に来るまで、俺があいつの場所まで行くまで!」
『青い蝶に磔にされた』というメッセージ。
ハルが落とされた世界に、死んだ切り裂き魔を引きずり込むために、彼は何度も呼びかけているのだ。
お前が磔にした蝶はここにいるのだと。
そうやって一人ずつ、この街が生み出した切り裂き魔を、凶悪犯を喰らっていく。
あの男と同じ顔をした人間を、一人ずつ喰らっていって、この街に復讐してやろう。
欲求の充足と復讐。
二つは相反すること無く、ハルの生きる糧となった。
開きっぱなしの傷口から、未ださらさらと流れだす血液を補うための糧。
「弟は? あいつは何も知らねぇんだろ」
「………」
マガミの言葉にハルが唇を噛む。
それこそ彼が抱えた最大の矛盾だった。
「……俺は」
ハルが震える手で顔を覆う。
既に何人もの血で濡れた手だった。
戻りたい。
戻りたくて仕方ない。
お日様のような匂いの弟と寄り添って生きてきた、あの時に。
抱きついてくる感触も、撫でた髪の柔らかさも、自分を呼ぶ声の温かさも、何もかも取り戻したい。
リク以上に四年前を夢見て焦がれてもがいているのに、もがけばもがくほど、彼の世界とはかけ離れた怪物となっていく。
だからこそ、一番大事だからこそ、手を離すしかなかった。
綺麗なままで強く成長していく弟の姿を見かけるたびに、ハルは何度も思った。
なぜ、あのまま殺してくれなかったのかと。
『戻りたい』なんて希望など抱かせないほどに、きちんと殺してくれればよかったのにと。
相反した手段と目的に、喉を掻き毟って叫び声を上げたくなる感情を殺したのも、一度や二度ではない。
「……分からない、から。
だから、手を離したのに」
「それでもまだ、お前は続けるのか」
「だって、そうじゃなきゃ、俺は溺れるしかない」
白い指の間から漏れた声は、子どものようにか細かった。
戻れない、戻りたい。
死にたくない、死んでしまいたい。
地獄のような世界を吐き出すようなハルの姿は、マガミの目にはいつもより小さく感じた。
「戻ってこい、ハル。
この街のためじゃない。
お前のために言っているんだ。
このままじゃお前、いつか自分自身に食われるぞ」
醜く歪みきった世界の一端を見せられも、マガミは正面からそう言った。
そんなマガミに、ハルは覆っていた手から顔を上げる。
涙こそ出ていなかったが、その顔は歳相応の、いや恐らく四年前に止まってしまった時の幼さで、泣きはらしたような顔をしていた。
その目でマガミの視線を受け止め、そして口に少しだけ笑みを浮かべてハルは首を横に振る。
「無理だよ」
「どうして」
「だって、俺の中に怪物がいるんじゃないんだ。
俺が、怪物なんだ。
狂ってなんてないし、正気を失ってるわけでもない。
これが俺なんだ。
……もう、遅いんだよ」
泣いているような声で、ハルが言う。
『もう遅い』という言葉は、ずっと傍にいたマガミにとっては重すぎた。
「お前はさ、楽になれるとか、受け止めてくれるとか言うけどさ。
もう駄目だよ、俺は俺になっちゃったから」
「……ハル」
「なぁ、どうしてもっと早く来てくれなかったんだよ。
俺がこんなふうになっちゃう前に、なんで来てくれなかったんだよ」
勝手な言い分だと、ハル自身も分かっているのだろう。
眉を寄せて泣き笑いの表情を浮かべるハルに、マガミは言葉を失った。
ハルは目を伏せて、ゆっくり歩を進める。
立ちすくんだマガミに静かに歩み寄り、その手からパーカーと学生証を取る。
マガミの胸元程しかない身長からは、その表情は見えなかった。
「なんでお前を『王』に選んだか、分かっただろ」
「そういう、ことか」
この街に復讐するための武器として。
そして、ハルの精神が更なる崩壊によって暴走を始めた時、それを仕留める牙として。
復讐すべき街を壊し、愛しい弟のため再築盛した街を守るため。
そのためにハルは、最高の相棒であり、最悪の敵対者としてマガミを選んだ。
「ごめんな……玲さん」
決してその手を取ることの出来ないかつての共犯者に、ハルは昔呼び慣れた名前を使って小さく告げる。
脇をすり抜けるようにして、ハルがマガミを通り過ぎる。
ひどく小さな後ろ姿が静かに去っていくのを、マガミは振り返り見る。
出会った時から、人に頼ることを知らない少年だった。
協力や利用という点では誰よりその伝を活用するのに、ただ拠り所としてその身を預けて頼るということを知らなかった。
悪夢から抜けようとして伸ばした手で、誰かを求めて手を掴む術を知らなかった。
だから彼に振りかかるものを、その影響する全てを、自身だけで受け止めてしまった。
そう、遅すぎたのだろう。
もっと早くに出会っていれば、その手に気づいて掴めたかもしれない。
ハルは、彼の世界は色を失わずに済んだかもしれない。
しかし、赤い雨の中で濡れて溺れた『青い蝶』が縋り掴んだのは、一振りの冷たいナイフだった。
「ハル、俺は変わんねぇぞ。
お前が何だって、俺は変わんねぇ。
お前がこっちに来るまで、俺は諦めねぇからな!」
小さくなった背中にマガミは強く言うが、最後までハルは振り向かなかった。




