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8-4

 誰もいない、廃墟の箱庭。

 空っぽの部屋を空気が通り抜ける音が響く幽霊団地の一角にハルはいた。

 野良猫のようにするりするりと壊れかけた建物の影をくぐり抜けながら、彼は騒がしい街の方へと足を向ける。

 

 同じ景色をつい先日も見たはずなのに、ハルの眼には全く別のモノに映っているようだった。

 押し広げられた雲間から覗く少し薄暗い青色は、まるで宝石のように鮮やかに映える。

 イヤホンの外された耳に届く風の音は、心臓を直に撫でるように響く。

 吸い込む息の一つ一つでさえ、こんな場所にいるのに新緑に囲まれているかのように清々しい。

 

 五感全てが受容する感覚に浸るように、静まり返った廃墟群を慣れた足取りで、だけどゆっくりと感触を楽しむように歩を進める。

 その感覚は久しぶりで、そして長くは続かないことを知っていたから、殊更その時間と空間を愛しむ。


「………?」


 顔に出ることのない密やかな彼の幸福感に水を差したのは、獣の匂いだった。


「よーぅ」


 細い路地裏を通せんぼするかのように、大きな影がハルの目に入る光を邪魔した。

 マガミ。

 こんな日には一番会いたくない人間だ。


「ちっ」


 先程までの興を一気に削がれ、ハルは小さく舌打ちをする。

 そんな彼の様子に気付いているのか否か、黒いコートの裾をなびかせて佇む王様は、ハルに向かって軽く片手を上げた。

 しかめた顔をマガミに顔を向けて、本日の危険度を窺う。


「今日はサーチ&デストロイ率が一割の方か?」

「あん?」


 どうやら珍しく、王様は闘争心が無いらしい。

 街で出会った瞬間即殺傷モードに切り替わる九割に入らなかったようだ。

 いつもの獣の笑みがその顔にはなく、鋭い目は静かに詮索するような光を見せている。

 マガミがこういう顔をするときは、大概決定的な何かを胸に秘めていることをハルは知っている。


「なんでもねぇよ。

 つーか何その顔、腹でも下したか?

 調子悪いなら帰ったほうがいいぞ。

 ほら帰れ今すぐHurry Up」

 

 いつもとは違う王様の様子に悪い予感を感じたのか、ハルが長い袖を振って帰還を促す。

 そんな様子に、やっとマガミが口にニタリと笑みを浮かべて自分の耳の辺りをくるりと指さす。


「お前の方は随分と機嫌がよさそうだなぁ?

 そういえばいつも付けているイヤホンはどうした?」

「ほっとけ、クソキング」


 楽しみを邪魔されたことに加えいつも通り目ざといマガミに、苛立ちを隠そうともせずにハルが毒づく。

 よく見ると、マガミは灰色の布を小脇に抱えるようにしている。

 ハルの見違えではなければ、以前城に乗り込んだ際にマガミに掴まれて置いてきてしまったパーカーだ。

 洗って返せとは言ったが、まさかそれを忠実に守ってここに来るわけもない。

 やっぱり、と悪い予感は確信に変わっていく。


「なにか用か?

 用がないならどいてくれ。俺は忙しい」

「嘘ばっかりだなぁ、ハルちゃんは。

 さっきからずっと散歩してたくせに」


 なんで知ってるんだよ気持ち悪い、とばかりに再びハルが舌打ちをする。

 ハルの態度を気に留める訳でもなく、マガミが続ける。


「別に用ってわけじゃねぇんだがな。

 ちょっとばかりハルちゃんとお話ししてぇなぁって思ってよ」

「俺はしたくねぇ。

 ほれ帰れ、ハウスハウス」


 しっしっと犬を追い払うようにハルが再度長い袖を振る。


「つれねぇな。いいじゃねぇか、雑談くらいよぉ。

 そのために俺ぁ仕事抜け出して会いに来たんだぜ?」

「仕事抜け出して暇こいてるのは、いつものことじゃねぇか。

 人のせいにするんじゃねぇよ」

 

 数年前に彼自身に背負わされた苦労と、最近カラスに愚痴られて知っているさぼり癖のある王様に、ハルは呆れた顔をする。

 しかし対するマガミは真剣な顔でそれに応える。


「いやいや、今回はマジで忙しい中で来たんだぜ。

 なんせ、部下の一人が『青い蝶』に襲われたんだからよ」

「!」


 さすがにその言葉には、ハルもはっと反応を示した。

 その反応に、なぜか満足そうにマガミは口に笑みを浮かべる。


「……仲間が? それにしては随分と落ち着いているな」


 後藤文一の時は、数日間マガミ自ら街に出て犯人探しをしていた。

 ロックらのように怒りを顕にはしていなかったが、彼の貼り付けられた笑みが獣独特の闘争心からくるものだと誰もが分かっていた。

 それに比べて今回のことに関しては、マガミはどこか傍観者のような余裕がある。

 彼は銀縁の眼鏡を摘んで外すと、埃っぽい空気で汚れたレンズをふっと吹く。


「まぁね。必要ないからな」

「ふぅん?」


 意味ありげにマガミは肩をすくめて眼鏡をかけ直しながら、件の部下の説明をする。


「やられたのは武井崎っつー末端構成員なんだけど、フミちゃんが襲われた場所に捨てられててさぁ。

 つっても見つかったのは、右足と首から上だけなんだけどな。

 生体反応って知ってるよな?

 首が切られた時にゃ、まだ武井崎は生きていたみたいだな。

 カワイソー」


 武井崎の最期は生きながらに首と足をもがれるという凄惨なものだったというのに、言葉と裏腹にマガミはそこに何の感情も抱いていないようだ。

 無論ハルもだが。

 マガミは続ける。


「足は死ぬ前に散々ナイフで抉られた跡があって、頭は開かれて脳の一部が切り取られてた。

 そのやり口から見て、犯人は『青い蝶』だと判断したワケよ。

 フミちゃんの事件を調べてたロックが首と足を見つけたのはラッキーだったな。

 変な探り入れられる前にいろんな場所の口を塞げたから、きっとニュースにもならねぇと思うぜ」


 武井崎の脳が切り取られたところを示しているのか、右手の人差指を右耳の上の方に持って行き、くるくると円を描きながらマガミは説明する。

 対するハルは興味が有るのかないのか、どこか遠い目をして問う。


「後藤文一の時とは随分違うんだな。

 血眼になって蝶々狩りでもするかと思ったが」


 マガミは腰に手を当てて肩をすくめる。


「形的にはやってる。

 事情を知らねぇ奴らは納得しねぇだろうからさ。

 でも形だけ。意味が無ぇ」

「どういうことだ?」


 先程から武井崎に関して「必要ない」「意味がない」と繰り返すマガミにハルが訝しがる。

 その意味と、それを自分に告げる意図を探る。


「『青い蝶』を恨んじゃいねえってこった。

 武井崎自身を殺したのは別に構わねぇよ。

 ……あぁいや待て、構わなくはねぇな。

 一言恨み言くらいは言ってやりてぇな」

「恨み事?」


 不可解なことを言うマガミを訝しげな目で見るが、彼は眼の前にいるハルに当然のように返す。


「そ。『人の獲物を獲ってんじゃあねぇよ』って」

「………」


 付き合いは長くないながら、ここ数年で最も濃い時間を共有していた相手だ。


 うっすらとマガミの思惑をハルが嗅ぎ取る。

 マガミがここに来たのは偶然じゃないのだろう。

 この場所、この時間をいつからか狙って来たのだ。

 頭を巡らすハルに構わずマガミが続ける。


「ハルちゃん、黒狼の切り裂き魔事件を調べてたんだろ?

 フミちゃんの事件。

 ならもう分かってんよな?

 アイツ、武井崎大輝が犯人だったんだろ?」

「なぜそう思う? またケダモノの直感か?」

「直感と言われると少し違うんだよな。

 確信はあるが、それを説明できねぇだけだ」


 言いたいことは何となくハルにも分かった。

 要するに使っているマガミ自身も経緯を測れないような、彼の脳内スーパーコンピューターが大活躍したようだ。

 何とか噛み砕いて説明しようとしているのか、うーんと唸っているマガミを見ながら、本当に厄介な人間だと、ハルはつくづく思う。


「労せずゴミ処理が出来たんなら、お前にとってもそれで良かったんじゃねぇか。

 つーか、お前らの事なんかどうでもいい」


 会話を早く切り上げたいハルが興味無さそうに吐き捨てる。

 マガミが眼鏡の奥で不思議そうにハルを見る。


「そっか?

 ハルちゃんなら知りたがると思ったんだがな」

「どうでもいいよ。

 わざわざ王様直々にそんなことを報告に来て下さらなくても結構なんですがね。

 暇なら少しは街の改善のために焦げカスみてぇな頭を使っていただけませんか、マジで」


 至極うっとおしそうな口調で慇懃無礼に言うハルに、マガミがまた軽く笑う。


「そう言うなよ。言ったろ?

 ただ雑談をしにきたって。

 ほら、これも渡したかったしな」


 そう言ってマガミは小脇に抱えていた灰色の服を右手で振る。

 思っていた通り、ハルのパーカーだった。

 なぜそれを今出すのか。

 その真意が掴めない。


「……わざわざ? 何が目的だよ」

「だぁかぁら、雑談だって。

 さっきから言ってるだろ?

 ハルちゃんてば、せっかちなんだから」


 子どものように口を尖らすマガミ。 

 それを見てハルが面倒くさそうに溜息をつく。


「どっかの王様と違って暇じゃないんだ。

 言いたいことがあるなら……」

「俺さぁ、ずっと気になってたことがあるんだよなぁ」


 ハルの呆れた言葉を無視してマガミが話し始める。


「おい、人の話を遮……」

「なぁハルちゃん。

 お前、この街の切り裂き魔に詳しいんだよな?

 なんで『青い蝶』は『青い蝶』っていうんだ?」

「……は?」


 一方的に投げかけられた唐突な問いかけにハルが眉を寄せる。

 問いかけた本人は腕を組んで首を傾げている。


 『青い蝶』というのは、数少ない生存者の証言が元となって名付けられた。

 曰く、「『青い蝶』に磔にされた」と。

 四肢が千切れるくらいに切り付けられ、脳を開いて切り取られ、精神を薬で侵されて、それでもまだ生かされた被害者が喋ることのできた、唯一の証言。


 マガミもその証言を思い出しているのだろう。


「誰も言わねぇんだけど、俺はずっと不思議だったんだよなぁ」

「何がだよ」


 どうやらその証言にマガミは納得いかないようだ。

 長い人差し指を教師のように振って抗議する。


「奴の手口は、被害者の四肢を傷つけるだろ?

 蝶の磔みたいに。

 それなのに、被害者は『青い蝶』に磔にされたって言うんだよな」

「それが何だよ」


 相槌を打ちながら、ハルの口調が段々といつものように平坦になる。

 先ほどまでの満ち足りた五感の幸福感が、どこか冷え始めるのを感じていた。

 しかしマガミは続ける。


「おかしいだろ? 四肢傷つけられて磔にされているのは被害者の方だ。

 だから『蝶』が磔にされた、なら分かるのよ。

 でも『蝶』に磔にされるんだぜ?

 『蝶』なのは被害者じゃねぇの?

 なんで磔にしているヤツ自身が『青い蝶』だなんて名乗ってんだ?」

「知らねぇよ。

 そもそもが頭のイカれた被害者の証言だ。

 当てになるかよ」


 完全にマガミの思惑が分かった。

 だがハルは、敢えて何の興味も示さない口調で返事をする。


 ここから逃げることはできないだろう。

 ここまで来て逃げるつもりは毛頭ないが、知りたいのはこの先の展開だった。

 マガミはこうしてハルに問いかけることで、その終着をどこに持っていくつもりなのか。

 そこがハルには分からなかった。


「お前がそんな短絡的な思考をするなんて、らしくねぇなぁ?

 てめぇがパクられる危険だってあるのに、わざわざ被害者を生かしてまで、その言葉を言わせたんだ。

 意味もなく自分を『青い蝶』だなんていうのか?」

「へぇ。

 お前はその意味とやらが分かったのか?」


 マガミは分かっているのだろう。

 だからこそ、この場所にいるのだろう。

 ハルが挑戦的にそう言うと、マガミが真正面から射抜くような視線で応える。


「簡単だろ。

 つぅかよ、分かってるはずだぜ。

 『青い蝶』も被害者たちも、同じように磔にされた『蝶』なんだ。

 というより、過去に磔にされた『青い蝶』が、今は他の人間を『蝶』の磔にして回ってんだ」


 いつかこうなる日が来ると思っていた。

 そしてそれに気が付くのも、やはりこの男だと思っていた。

 それがマガミから離れた理由の一つでもある。

 だがやはり、嗅ぎつけた。

 どこか納得するような思いで、マガミの次の言葉を待つ。


「切り裂き魔『ジャック』の資料が一部、『不慮の事故』で警察のデータベースから消去された事件を覚えてるか?

 紙ベースの資料は火災で完全に燃え尽きちまった。

 そのせいでウチの警察は、随分世間様から責められていたっけな。

 まぁ奴らは元々頭が痛くなるくらい無能だったから、それはいいんだが。


 だから『ジャック』の事はおろか、被害者たちについての情報もあまり分かっていない。

 『不慮の事故』を起こした、俺とお前以外は」

「………」


 マガミの言葉で思い出す。

 まだ黒狼が黒狼として成立する前、街に巣食う裏社会の組織とその繋がりを知るべく警察署に忍び込んだことがある。

 勢力争いと汚職に塗れた警察に乗り込むのは苦ではなかった。

 そして欲しかった敵の情報と一緒に、ハルは切り裂き魔『ジャック』の情報を手に入れた。

 それだけではなく、彼はその一部を抹消した。

 紙の資料もオンライン、オフラインに存在するデータベースも全て。

 ついでに既に解決済みの事件を幾つかカモフラージュとして消し、ヤクザとの癒着で巨額の賄賂を受け取っていた警察幹部に麻薬を打ってコンピューター室に転がしおけば、目の前の『作られた』真実だけが事実として世に出回る。

 金欲しさか、ヤクザに脅されたか、薬でイカれたのか。

 世間はいろんな角度から彼を責め上げた。

 そしてその警察幹部が全てを背負って死に至るまで、そう長くはなかった。


 マガミは続ける。


「きっと病院とかのカルテにも手を出してんだろうな、お前は。

 そうやって自分の過去を消して回ってんだろ。

 自分の体がどうやって切り開かれたのか、その事実をお前は葬り去りたいんだろ?」

「……やめろ」


 ハルは拳を握って喉から唸るような声を出す。

 握った手の平には、他の皮膚を押し上げるようにして過去の傷跡がミミズのように這っている。


「俺は、覚えてるぜ。

 右手の平まで続く手首に垂直な傷、左上腕、右内腿に左膝。

 そうやって体の動きを奪ったお前の腹を開いて、『ジャック』は……」

「やめろ!」


 遮ったのは、悲鳴のような声だった。

 ハルが着ているパーカーの中に手を入れ、太もものベルトからナイフを抜く。

 前にマガミに向けた黒いサバイバルナイフではない。

 もう一本、逆側のベルトに留めてあったのは、象牙のように白い柄のナイフだった。

 能面のはがれたハルの顔には、憎悪と恐怖が浮かんでいる。


 歯を噛みしめて瞳孔の開いた眼を向けられたマガミは、どこか納得したように小さく頷く。

 ハルしか知らない、マガミの顔。

 マガミの知らない、ハルの顔。

 この街の王がかつての友に向ける顔は、案外静かなものだった。

 そんな彼に向けられたかつての友の顔は、爆発するような憎悪の塊だ。

 

 ハルから目を背けることなくマガミは持っていたパーカーに手を伸ばし、そのポケットに手を入れて指で中を探る。


「ずっと前に教えてくれたよなぁ?

 お前の名前、面白い読み方するんだって」


 グローブの嵌められた長い指がつまみ出したのは、ポケットに入れていたがためにパーカーと共に置いてきてしまったハルの学生証だった。

 それを胸の前でかざすようにして、ハルに見せる。


 そこには顔写真とともに、彼の本名が漢字で書かれていた。


「……っ」


 自分の名前を目に入れると同時に、ハルの耳にはノイズのような膜がかかる。

 今まで鮮やかだった色も音も、全てが『四年前』に巻き戻される。


 僅かに息苦しそうに息を吸ったハルを見て、マガミがゆっくりと口を開く。


「『青い蝶』か。

 やっと見つけたぜ、お前の中の怪物を。

 なぁ、『八柄 青』」


 雨なんて降っていないはずなのに。

 ハルの耳には、終わらない無数の雨が叩き付けられる音が響いた。

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