4-5
土の匂い。
ペンキの匂い。
雑多なものが、いくつも詰め込まれた匂い。
その中で、幼いリクは膝を抱えて座り込んでいた。
目の前には、薄く冷たい鉄の引き戸。
あぁそうだ。
ここは物置だとすぐに思い当たる。
よくかくれんぼをして、ここに隠れていた。
四畳以上あるスペースには家電や本など様々なものが置かれ、その隙間によく入り込んでいた。
リクにはこれが『今』ではないことは分かっていた。
これは夢だ。
なぜなら、もうこの物置は存在しないから。
ここ数年間、たまにこの夢をみる。
物置の中に座り込んでいる夢。
いつも鉄の扉を一枚隔てたその外側では、雨の音が聞こえる。
何かしなければ、といつも思いながら、結局この場所に座り込んだまま。
思い出せないのだ。
何かをしなければならないのに。
いつも、もやもやとした不安をかかえながら、じっと雨の音を聞いていた。
だが今日は違った。
いつもの夢の中には存在しない、大事な要素が入り混じった。
濃い鉄の匂い。
それから、兄の匂い。
(あぁ、そうだ。僕は……)
リクは、狭い物置の中ではっと顔を上げる。
何をしなければならないのか、それを思い出した。
思い出すべきことを、思い出した。
この夢は、あの日だ。
ただのかくれんぼの夢じゃない。
いや夢ですらない。
これは四年前の、あの事件の日の記憶だ。
リクはそっと立ち上がり、冷たい鉄の扉に手を掛けた。
「ハル!!」
泣きそうな叫び声が急激に、リクが意識を引き戻す。
薄く開けた彼の目の前に、弱い光が当たる。
リクが認識できたのは、灰色の柔らかい生地が頭から被さっていること。
そしてその布の端からは、冷たく重そうな鉄の棒が見える。
体中がしびれて動けない。
思考が働かず、状況もまったく分からない。
分からないのに、自分を覆う温かさが、眠ってしまいそうなほどの安心感をリクに与えている。
「ハル、しっかりしろよ!」
その言葉とともに鉄柱が目の前から移動し、重い金属が床に無造作に落とされる音がした。
視界には無機質な工場の天井が広がり、その一角から白い髪の毛の少年が顔を出す。
彼はリクの方に、正確にはその上にあるものに手を伸ばす。
ずるり、と心地良い温かさがリクから引き離された。
それが離れてやっと気がついた。
「兄、貴?」
覆いかぶさっていたのは、ハルだった。
崩れる鉄柱から、リクを突き飛ばすだけの時間がなかった彼は、庇うようにして自分の身をリクの上に投げたのだろう。
脇下から手を入れ、アキに軽々と引き上げられたハルは、糸が切れた人形のように重力に任せて項垂れる。
目を閉じた真っ白な顔には、額から2本の血筋が走り、ぱたりと落ちて灰色のコンクリートを濃く色づけた。
「痛っ!」
小さなハルの体では庇いきれなかったリクの脚を直撃した痛みが、急激に蘇る。
しびれは今や痛みとなってリクを襲った。
しかしそれどころではなかった。
彼は急いで身を起こしてハルとアキを見る。
「ハル! ヤダよぉ!
死ぬなよぉ!
目ぇ開けろよ!!」
座り込んだアキがハルを抱きかかえ、頬を軽く叩き続けている。
リクがいるのも構わず、アキは子供のように泣きながらハルの名前を呼び続けている。
まさか、とリクの背筋がぞくっと寒くなる。
まさか、目が覚めないのか。
自分を庇って、そのせいで。
「ハル! ハルッ!! ハ――」
「うるっせぇ!」
ぐったりと横たわっていたハルの左腕から、目にも留まらぬストレートがアキの顎に繰り出される。
一瞬だけ瞳がカッと光った。
「キャンっ!!」
それをもろに食らったアキの頭が、後ろにガクンとのけぞる。
「……あれ?」
その行動は無意識だったのか、横たわったままハルがぼぅっと視線を彷徨わせている。
そして彼は状況を把握するように一度しっかり目をつぶると、静かにまぶたを開いてゆっくり上体を起こす。
「ハルッ!!」
しかし注意深く起こした上体は、のけぞった状態から勢いをつけて抱きついてきたアキに早速倒される。
「良かったぁ!
死んじゃったかと思ったよぅ!
お前が死んだら化けて出てやるんだからな!!
ばかぁあ!!」
「……なんでお前が化けるんだよ」
大きな猫のようにじゃれつくアキをそのままに、ハルは自分の体の状態を確認するように、手を握ったり脚を伸ばしたりしている。
ふむ、と一通り確かめ終わると、ぐりぐり頭を押し付けるアキを押しやって裾を払い立ち上がり、足を投げ出して座り込んでいたリクの方を振り向く。
「怪我は?」
どちらかといえばリクが聞きたかった。
だが有無を言わさぬ短い言葉に、
「大丈夫、だと思う」
そう首を縦に振りながら答えるしか無かった。
「ハルこそ平気なのかよ。
頭大丈夫か?」
押しのけられ、袖で涙を拭いていたアキがハルを見上げながら問う。
「てめぇ、喧嘩売ってんのか」
「そういう意味じゃないよ。血! 血が出てる!」
中身じゃなくて怪我のことだと分かり、ハルが自分の額に手を伸ばす。
指先に固まりかけた黒混じりの血液が付着したのを見ると、彼は無造作に袖でぐいっと一拭いする。
「あわわわ、そんな乱暴にすんなよ!
ちゃんと看てもらったほうがいいって!」
ハルのどうでもよさそうな態度に、アキの方が慌てて止める。
「問題ない。
頭は血管だらけだから、流血しやすいんだよ」
「でも頭打ったら色々やばいって言うじゃん!
なんか変なアレな感じになったらどうするんだよ!」
頭を打った際の後遺症について言いたいらしいが、語彙が及ばず雰囲気だけで伝えようとするアキを、ハルが哀れんだような冷たい目で見下ろす。
「俺はお前の言語能力のほうがヤバイと思うぞ。
安心しろ、例え頭からトラック突っ込んでも、お前の頭より百倍は使える」
「もー!! そんなこと言って!
ダメだってば!」
「そんなことより、色々報告することがあるんだろう?
さっさと言え」
「『そんなこと』って、もー! もー!!」
一度リクの方を向いていたハルの意識が、完全にアキの方に移ってしまう。
聞きたいことや言いたいことはいっぱいあったが、自分の入れない世界のようで、リクは押し黙ってしまった。
ただぼうっと座り込んだまま、リクが二人を見る。
ふと、自分の首筋にぬるりとした感触を感じて指を滑らす。
「……あ」
赤黒い粘着質のある血液だった。
リクは怪我をしていない、ということは、ハルのものだろう。
おそらくリクを庇った時にできた傷から滴ったのだ。
その時だった。
(………?)
ぐらりと、地震のように体が揺れるように感じた。
同時に、指先を見るリクの視界が、まるで上から砂を落とすようにして歪む。
歪んだまま、視界から色彩がにじむように奪われる。
灰色の世界。
工場の天井に落ちる雨の音。
コンクリートを叩きつける雨の音。
その音が、染みこむようにリクの世界を支配する。
色のない世界には、雨の音だけが聞こえる。
「……―で、二人……―」
「なら……―、ということ―……」
目の前で喋っているはずのハルとアキの声が、断線したスピーカーのように、雑音で切れ切れとなり、そして雨の音にかき消される。
二人は普通に会話を続けている。
リクだけが、突然透明な壁に阻まれた異世界に放り込まれたように、雨に支配された世界にいる。
手をついた先に目をやると、そこにも、鮮やかな赤が目に入る。
血だ。
指先だけではない。
ここにも、あちらにも。
灰色の世界で、まるで存在を主張するように、リクの周りに赤い血痕が散らばる。
小さい雨粒程度のものから、バケツをひっくり返したような大きいものまで。
(あ、また……)
もう一度ぐらりと視界が揺らぐ。
その世界がどこに続くか、リクは気付いた。
四年前のあの日。
気付いた瞬間、五感は過去に引っ張られる。
(思い出しちゃだめだ)
リクが軽く頭を振る。
過去に戻ろうとする記憶を、振り払おうとするように。
(思い出してはいけない)
しかし止まぬ雨の音が、拒絶するリクの思考をかき消し、さらに奥へと引き摺っていく。
ドクン、ドクンと自身の心拍がこめかみに響くのが分かった。
全身がまるで雨を吸ったかのように重くなる。
それが内蔵まで染みこむように広がり、彼の呼吸を妨げる。
溺れた時に似たその感覚に、リクの眼に涙が浮かび、思わず胸を掴む。
「……あ、にき」
リクは目を上げるが、ぼやけた視界に入るのは兄の背中だった。
必死で呼びかけようとするが、喉からは息が漏れるだけで、音を発することはできない。
頭の中で雨の音だけが大きくなる。
コンクリートを打つたくさんの水滴の音が、絶え間なく頭の中に響く。
それはまるで、永遠に続くかとさえ思えた。
視界がさらに霞み、両側から光が失われる。
助けて。
助けて。
雨に、血に、溺れてしまう。
リクが言葉にならない声で叫ぶ。
だが、目に入る兄は、未だ自分に背中を向けたままだ。
体の中をどんどん雨が浸食していく。
視界と音と、まとわりつくような寒さ。
それから。
それから、これは……?
――思い出すな。思い出してはいけない。
リクが必死で思考をこの場にとどめようとするが、感覚はそれを無視して過去へと引っ張る。
空いている手を床について支えるが、その手も震えているのが分かった。
指をコンクリートにめり込ませるようにして突き立てる。
――兄貴、兄貴、兄貴!
――助けて。
コンクリートに雫が落ちる。
二滴、三滴と床を濡らす。
それは、リクの頭の中に響く雨か、溢れて止まらない涙か、それとも。
雨の音は大きくなり、彼の視界は暗くなる。
それにつられるように、体が重くなり息が苦しくなっていく。
――助けて。
――お願いだから。
――こっちを向いて。
「……ん」
リクが声を絞り出す。
きっと昔だったら、すぐに気づいてくれたのに。
視界と共に霞んでいく思考の中で、絶望と悲しみが広がる。
「……にい、ちゃん」
ふと、ハルが何かを言いながらリクの方を向く。
そして、目を開き、叫ぶような兄の顔。
リクはぼやけた視界の中でそれを捉える。
たったそれだけで、苦味のように広がりつつあった絶望が不思議なくらい和らいだ。
――あぁやっぱり。
――兄貴だ。
気づいてくれる。
気づいてくれた。
いつだって、そうだった。
誰よりも、自分自身よりも理解してくれる。
だから、あの時だって。
「……兄ちゃん」
今度は叫びではなく、呼びかける。
あれだけ響いていた音が、痛みが、沈むように消える。
雨音も。
息苦しさも。
そして、不安と孤独と絶望を塗り替えるように安堵が体に広がり、同時にリクの視界がゆっくりと傾いだ。




