8 失恋
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病院へ出たあと、僕と岬は近くのミスタードーナッツへ行き、無言でドーナッツを食べた。病院を出たときは昼の二時を過ぎていて、お互い昼食を摂っていなかった。一応何かを食べようかと僕が言い、岬は迷ってから、それならとミスタードーナッツを選んだ。
重い沈黙だった。もっとも、病院の近くにあるミスタードーナッツにはふさわしい沈黙なのもしれない。
「楓にも買っていこうか」僕は言った。
岬はかすかに頬を緩ませてうなずいた。
地元へ戻る電車を待つ間、岬は小声で教えてくれた。穣さんはきわめて怪しい自動車の事故に巻き込まれ、楓は火のついた車内に取り残された穣さんを救おうとして両手に火傷を負ったのだと。母親はそれきり逃走してまだ行方が分かっていない。
「もっとも、再婚で血の繋がりの人だったし、関わらないで済むなら知ったことではないって、穣さんは言ってるけれど」
岬はこの数週間で顔つきが大人になってきたように見える。憂いを帯びた表情が板についてきたのかもしれない。
電車に揺られている間、僕はこの一年の楓の様子を振り返っていた。楓はクラスに友達のいない孤立した女子生徒だった。楓とは小中も同じ学校だが、もともと根暗で猫背で怯えがちな生徒だったのだ。六月の初旬に不登校になり、夏休みが明けると両腕に包帯をして保健室登校するようになった。性格は別人のように気さくになり、教室に戻ってからは隣の席の僕と親しくなった。岬もほどなく僕たちの輪に加わり、三人はクラスで一番打ち解けあった男女になった。楓が僕をからかい、僕が大げさに切り替えし、岬が笑う。そんなやり取りがいつまでも続いて途切れなかった。これほど充実した友情はそうはないと、三人がそれぞれ自負しているように感じられた。けれど僕も岬も、楓の包帯や変化の理由について心配をしなかった。互いの胸中の恋心に夢中で、楓はいつも隣で気さくに笑っていた。
岬は失踪から戻ってきたとき、「わたしたち、何にも考えてなかったんだ」と言った。
本当に、その通りだった。
病院の最寄駅を出発した普通電車は、繊維工場の古い社宅を通り過ぎた。
僕は岬に、楓が打ち明け話をした廃屋について話をした。白いペンキが剥げかけた洋館で、教室と似たようなベランダがあって、窓の外には田んぼと畑が広がっている。楓は幼いころから忍び込み、そこで佇んでいる。
「きっと、智生くんに廃屋を見せたかったんだよ」
話の間、岬が発した言葉はそれだけだった。
繊維工場の区画が車窓の後方へ消え、代わりに知らない街の校庭が広がった。葉が枯れきった木々が冬の風に揺れている。
岬が茫然と言った。
「楓は、失踪中に私と何をしていたか、言った?」
横目で見ると、岬は膝に掛かったワンピースの生地を握りしめている。
「何も言っていないよ」僕は言った。
岬が深く長い息を吐いた。握っていた手をほどくのが見える。
「それなら、いいの」岬は微笑んで言う。
その時になって、ようやくなぜ岬の口数が少ないのかを悟った。
岬はこの瞬間も失恋で悲しみ続けているのだ。そしてそれは正確には恋ですらなかった。




