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9 接ぎ穂



 タクシーで楓の家の近くにあるコンビニに着いたとき、すでに曇り空から注ぐ日光が頼りなくなっていた。山からの吹き下ろしは日没にかけて強くなりはじめる。午前中にサーキットから響いていた排気音は止んでいた。車道がうすら広く、歩道が一人分の幅しかない道を僕らは縦に並んで歩いた。

 岬が楓の家を指さした。楓の家はほとんど立方体に近いシンプルな箱状をしている。屋根には太陽光発電のパネルが敷き詰められ、加飾のない外観はいかにも堅牢に見える。木の電柱が今も電線を支え、潰れたホンダのディーラーがそのままになっている風景の中で、その現代建築は周りから浮いていた。

 インターホンを押しても反応はなかった。僕も岬もスマートフォンで楓に呼びかけてみたが、電源は切られていた。門から見える砂利敷きのエントランスはところどころ雑草が伸びている。家の正面には大きな窓はなく、中は伺い知れなかった。

 僕と岬はコンビニへ行きって温かいコーヒーを買い、門の前に戻って肩を並べて飲んだ。インターホンを再度鳴らしたが、反応はない。日没は確実に近づき、風が強くなりはじめている。岬は震えはじめていた。厚着をしてきた自分ですら、肌寒く感じるほどだ。

「日があるうちに、廃屋の方を覗いてみるか」僕は言った。「ここから歩いてすぐだから」

「ドーナッツは持っていく?」

「持っていこう。もし楓がいたら、ベランダで三人で食べようよ」

「コーヒー、三つ買えばよかったね」岬は微笑んで、両手をコーヒーの紙コップにすり合わせた。

「寒いでしょ、服貸そうか」

「ううん、大丈夫」岬は微笑んで言った。


「売物件」の看板が掛かった玄関から右手に回り、建物の裏へと進んだ。辺りに街頭はなく、目で見える範囲が狭まっている。後に続く岬のこわごわとした表情も、うすぼんやりとして見えづらい。岬が庭の雑草に足を取られ、小さく声を上げる。同時に、階上から物音がした。誰かがいる。

「楓、いるのか」僕はとっさに言った。岬も続いて呼びかける。

 返事はない。その代わり、部屋の奥へと進む足音が数回だけ響いた。僕は持っていたドーナッツを岬に預け、廃屋の庭に足を踏み入れる。

 廃屋の引き戸を開ける。中は暗闇に覆われ、視界がなかった。物音はしない。楓はじっと息をひそめているのだろうか。スマートフォンのフラッシュを付けて、一回のロビーを横断していく。奥に雉の死骸がある、と楓が言っていた事を思い出す。

 フラッシュが切り取る空間以外はまるで見えなかった。自分の足音が異様な響き方で聞こえる。二階の螺旋階段に足を掛けると、そのくたびれ具合に寒気が走った。午前中に廃屋を去った後、急に五十年分は劣化したんじゃないかと思うほど表面が傷んでいる。踏み抜かないように手すりに体重を乗せて慎重に登って行く。登りきると、個室からベランダが見えた。引き戸の四角い枠に外の光が切り取られ、やけに明るく見える。幾分安心した心地でベランダに歩を進める。

 いや、待て、廃屋に入ってから物音はしていない。建物の内部へ進む足音が聞こえてそれっきりだ。ベランダに向きかけた足を止め、室内をライトで照らす。個室の入り口の陰にスニーカーの爪先が二つ並んでいるのが見えた。そこにいる。

「楓、いるんだろ」僕は呼びかけた。爪先は電流が走るように小さく動いた。

「出てきてくれよ。かくれんぼなんてやめよう」

 爪先は動かない。僕は顔がひとりでに引きつるのを感じながら、すこしずつ個室へ向けて進んでいった。こういう時に限って、いくつも冗談の文句が浮かんでくる。もちろん口にできる訳がない。すこしずつ距離を無言のまま詰めていく。

 個室に足を踏み入れ、僕は爪先の主にフラッシュを照らした。爪先から膝、膝から胴体、そして頭へと。

 そこには長い両腕を顔に巻きつけるようにして表情を隠す楓がいた。体をこれ以上ないほど縮め、背中を丸めて震えている。僕はフラッシュを消した。

「楓、まぶしかったか」僕は言う。楓は応じない。腕で顔を隠したままだった。まぶしいから顔を隠しているわけではないのだ。

「お兄さんと会ってきた。全部聞いたよ。ごめんな、お前の事なんにも考えてなくて」

 楓は顔を隠したまま小さく首を振る。怯えきっているように見える。

「心配するなよ。悪いのはこっちの方だったんだ。お兄さんは楓が罪悪感で苦しんでいるって言ってた。友達として、心を開ける相手になってやってくれって、約束したんだ」

 楓は身を丸めたまま竦んでいる。子供に体罰を与える親になった気分がしていたたまれない。穣さんが言っていた事を思い出す。母親は、穣さんの見ていないところで楓につらく当たっていた。

 僕は他に言うべき言葉を見つけられず、時間だけが過ぎた。そこで震えているのは、小中学校時代の楓そのものだ。無口で、根暗で、先生に当てられても一言も話せない。楓は高校に入っても、毎朝のように早朝のベランダで佇んでいた。そこはこの廃屋のベランダとよく似ているのだ。

 どれくらいの時間が無言のうちに過ぎたか分からない。楓は唐突に暗闇の中で身を起こした。僕が何か言う前に、すぐ横を走って抜けていく。とっさに振り返り、足音を聞き逃さないようにしながらフラッシュで辺りを照らす。一階へ降りる螺旋階段に影はない。二階の別室へつながる廊下を走る足音がする。僕は後をすぐ追った。見失えばもう一度見つけるのは難しい。楓は十年間、この廃屋に通っていると言っていた。どこか抜け道を知っているかもしれない。

 廊下を照らすと、楓が奥の廊下で曲がるのを見えた。僕は勢いよくその後を追う。

 不意に、底が抜ける様な感触がした。

 バランスを崩した時にはすでに床が腰の高さまで来ていた。螺旋階段の古びた床材の感触を思い、それから廃屋の天井の高さを思った。楓が何かを言った声が聞こえる。それははるか頭上へ遠ざかり、体は自由の効かない空中を落ちていく感触に包まれた。

 程なく、破裂音の予感が聴覚を駆け抜けた。木の板を水の中で叩き割るような、そこにあるべき激しい音がくぐもって伝わる響きがする。何度か体を激しく打ちつける衝撃は遅れてやってきた。僕は知らなかった。人が墜落する時、音も衝撃も時間差でやってくるのだ。

 目の前の暗闇は、意識の終わりによるものか、単に室内が暗いのか判別できなかった。体は身動きが取れない。誰かが何かを叫んでいる。横向きの体の左半分に、強い衝撃の実感がある。痛みはない。首の下には左手が入っていた。指を動かすと床の破片に触れる。眼球だけであたりを見回すと、右半身から上はおぼろげながら室内の様子が見えた。明りと暗闇の境目には、床の破断面がある。僕は左手に力を入れ、首を起こした。一階の床も、僕が落ちた衝撃で抜けたのだと分かった。

 上半身を起こすと、体に酷いきしみがあった。衝撃で鈍くなった体を少しずつほぐし、ダメになった関節がないかを一つ一つ確かめた。息はしづらいが、骨に問題なさそうだ。旋階段を駆け下りる音が聞こえる。背後で庭の引き戸が勢いよく開かれるのが聞こえる。本能的な冷静さの中で、僕は冗談を思いついた。こんなこともあろうかと今日は厚着してきたんだよ、と.

 最初に駆け付けたのは楓だった。顔を涙で歪ませながら大声を出している。

「大丈夫、動ける、動く?」楓は僕の肩や膝をせわしなく触る。「嘘でしょう、もうやだよ」

「落ち着いて楓、たぶん大丈夫」

 楓が僕に伸ばした手が、尋常ではないくらい震えている。楓がかつて腕に包帯を巻いていたのは、兄を事故車から引きずり出そうとして火傷を負ったからだ。楓の中でフィードバックが起きているかもしれない。

「大丈夫だ楓、ちゃんと動く。な、上半身も、足も」僕はきしむ体を動かして見せた。楓は僕の肩に顔をうずめると、声の限りに大声を上げて泣き出した。子供が母親に追いすがるような泣き方だった。頭への衝撃か、楓への戸惑いかで、どんな言葉を掛けるべきかまるで思いつかない。

 やがて顔に強い光を感じ、目を背けた。引きつった顔をした岬が、スマートフォンのフラッシュを切るところだった。僕と目が合うと、耳打ちするように小声で言った。

「智生くん、大丈夫なの?」

「俺は問題ないよ」僕も小声で応じる。岬は励ますようにうなずくと、岬の肩に手を置いた。

「大丈夫だからね、楓。泣かないで」穏やかな声で岬は言う。

「ごめんなさい、私なんかと付き合ったばかりに」楓の激しい声は震えている。か細く、高い声だ。「もう、これ以上振る舞えない。いつか見抜かれるってずっと不安だった。もうできない」

「そんな事言わないで。私は前に言った通り、何があっても楓の味方なんだよ。約束通り、ちゃんと二人で迎えに来たんだから」

 楓は泣き続け、岬は楓が何か言うたびに姉のように楓を慰めた。僕の知らない約束が二人にあり、岬は無事にそれを果たした。僕はきしむ体で楓の泣き声を聞いて悟った。もう二度と、気さくで自然な親しみを持った楓は戻ってこないし、僕も岬も楓にそれを求めてはいけないのだと。

 


 翌日の昼近く、楓はようやく眠りにつき、僕と岬は楓の家を出た。楓が一人で眠る堅牢な一軒家を振り返る。

「壁が厚くて良かった」僕は独り言のように言った。

「言わないの」岬が力なくたしなめた。



 昼前の普通電車には、乗客はまばらだった。僕は岬を送る為に一緒に電車に乗った。僕の付添いの申し出を、岬は断らなかった。

 体には暴力的な疲労が溜まっていた。人は体に衝撃を受けると、翌日になって疲れが噴き出してくるのだと初めて知った。僕らは言葉少なに、電車に揺られている。車窓から、石油コンビナートの丸いタンクが並んで通り過ぎていくのが見える。話すことは何もないけれど、一緒に居続けたいような、眠りたいような、妙な感覚の中にいた。

「私ね、進路をぼんやり考えてるの」岬は言う。「事故に遭った人をサポートできる仕事に就けたらいいなって。大学じゃなくて専門学校に行って資格を取る。作業療法士とか言語聴覚士とか、いろいろあるんだよ」

「いいと思う」僕は言う。岬はこれを僕に話したくて、付添いを断らなかったのかもしれないと、おぼろげに考える。

「それだけ?」岬は言う。

「とても、いいと思う」僕は言う。

「もう」

 岬は冗談交じりに僕の手の甲をはたいた。疲労に満ちた力のない手つきだった。

「智生くんは、将来何か考えているの」

 僕は半分飛んでいる意識の中で、思いつくことは何かないか頭の中を探った。

「造園関係のお仕事」僕は言った。

「なにそれ」岬は力なく笑う。

 さっきから僕らは独り言を言うように話をしている。僕は言葉が口から出るままに任せた。

「岬と楓を探してるとき、あまりに手掛かりがないから図書館で岬と楓の事を調べたんだ。検索端末に岬、とか楓、って入力して。手掛かりが見つかる訳もないのにね。それでたまたま、植物としての楓について書かれた本を手に取ったんだ。楓って、どうやって増やすか知ってる?」

 横目で見ると、岬は両手を口元に当てている。黙っているので、僕は続ける。

「楓は接ぎ木で増やすんだってさ。大きな切株に接ぎ穂を括り付けると、そこから一本の木になるんだ。今思うと、楓がやったことを同じなんだよな。そんな事調べて覚えたのは、ただの気まぐれだったのに。不思議な事が起こるもんだ。」

 話をしながら、段々意識が眠りに飲まれていくのを感じた。岬はまだ何も言わない。このままでは眠ってしまう。

「岬?」僕はうわごとの様に声を出す。

 遠のく意識の中で、岬の穏やかな声が聞こえる。

「立派に育てようね。私も一緒に手伝うから」

 岬が僕の手を握った。残った意識の一滴は眠りの中に溶けて行く。


 岬、君の手はなぜそんなに濡れているんだろう。













ご通読、ありがとうございました。

hitoiki

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