5 廃屋からは見えないもの
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楓に送るメールの文章を考えるのに一時間掛かった。それを送るのにさらに一時間ためらい、結局日付が変わる前に送ってしまおうと思い切って送信を押した。送ってしまうと、何となくそれ以上スマートフォンに触れていられず、ベッドに放り出してしまう。
岬は楓と一緒に戻ってきた。「支えて家まで帰らせて、今まで落ち着かせていた」と岬は言った。僕の中の楓は、そんな風に取り乱して人に迷惑を掛けるタイプではない。気さくで落ち着いていて、自然な親しみを込めてフラットに話す、中性的な女子生徒だ。何かがあったに違いないが、それが何かまるで分らない。
楓からは深夜三時に返信があった。僕はすぐにスマートフォンを手に取ったけれど、本文を確認するメールのアイコンを、しばらく押すことができなかった。
翌朝、楓は僕の家まで自転車で迎えに来ることになった。元々、小学校の学区は同じだから、自転車なら十五分と掛からない。僕は服を選ぶのに迷って、いつも着ているミリタリー風コートの下に厚手のカーディガンを着込むことにした。昨日、岬が僕に体を預けたとき、僕が厚着をしていれば、彼女に上着を掛けてやれたのだ。楓に対してそんなことはしないだろうが、今日のどこかで岬に会わないとも限らない。
玄関に現われた楓は心なしか疲れて見えたが、劇的な変化は見られなかった。少なくとも昨日の岬ほどではない。言葉少なに挨拶を交わすと、「ちょっと行こうか」と言って楓は僕の前を自転車で走った。ペダルを漕いで休耕期の田んぼ道を進み、三年に一度は名前の変わるスーパーマーケットの駐車場を抜け、廃車が積み重なる修理工場の坂を上った。厚着をした体は汗ばんできている。背後からは、今日もサーキットからくぐもった排気音が響いている。
楓はコンビニの隅に自転車を停めて、歩こうか、と僕を促した。僕と楓は何も話さずに細い歩道を縦に並んで歩いて行った。ほどなく白いペンキが禿げかけた木造の廃屋が見えてきた。玄関のドアには不動産屋のブリキ看板が張り付いている。
楓は建物を回り込んで、特に柵のない庭から敷地の中に入って行った。庭に入り込む足取りも、廃屋の引き戸を開ける手つきもまるでためらいがない。間違いなく不法侵入だったが、僕は楓について中に入った。
廃屋の中は広く、静かだった。天井の高い二階建てだ。体育館とまでは言わないが、バレーコートなら一面は置けるくらいの床面積がある。
「ここがお前んちか」僕は言ってみた。
「馬鹿言うなよ。ここから近い事は近いけど」楓が応じた。響きは明るくないが、気軽なやり取りは出来そうだ。
「不法侵入の趣味があるとは思わなかったな」
「もうこの道十年になるんだ」楓は右手を水平に伸ばして指さした。「そっちは行かない方がいいぞ。雉が死んでる」
僕はなるべく指さした方を見ないようにして首をすくめた。
建物は風通しがいいのか、肌に空気の流れを感じる。悪臭や密室特有の息苦しさはなかった。一階は大きく二分割され、半分を占めるロビーが二階へ吹き抜けになっている。中規模なペンションのような作りだが、家具は何もかも取り払われていて元は何だったのか伺い知ることができない。真新しい割に長いあいだ人の手が入ってなかったのか、壁の白さや窓ガラスは古さを感じないが、二階へ延びる螺旋階段やフローリング張りの床はところどころ崩壊している。
楓は木製の螺旋階段を先に登り、二階の個室へと入って行った。僕が後に続くと、殺風景な個室の先にベランダがあった。外に出れば、あたりは休耕期の田んぼと畑が一面に広がり、奥には小高い丘にまばらに住宅が並んでいる。通学路に山おろしを吹き付ける山は建物の背後にあるから、通り過ぎる風は穏やかだった。
「いい所だろ」楓は言う。
「ここから家は見えるのか」
「見えない。そこがいい」
廃屋のベランダは、どことなく教室にあるベランダにも似ていた。楓は学校に早く来ては、よく教室のベランダから景色を見て佇んでいた。
「ちゃんとこうして会うのは最後だ」と楓は切り出した。「まずは、まだ学校にいた時の事から話そうか」
僕はうなずいて続きを促した。僕も楓も向かい合う事なく、ベランダに手を付いて作物のない田んぼや畑を見ていた。話の途中、時折楓はこちらを見た。僕は目を合わせる。そして互いに前に向き直る。
「岬と智生が付き合っていない事はすぐに分かったよ。それについてはとやかく言わない。三人の友情を維持したかったがための事だったんだし、私はうまくいけば嘘の関係も本当になると思っていた。そのとき岬は何かに悩んでいたし、智生が悩みをサポートすればチャンスになるかもしれないから。けれど、どんどん懐いてくる岬に、自分の気持ちが惹かれていくのが分かった。智生の手前なんとか自制していたけど、必死だったよ」
楓は両手を擦り込んでから、息を吐きかけた。軽く下の唇を噛んでから、話を続ける。
「話していくにつれ、岬の悩みとは、まさに同性である私の事が好きになった事だと気づいた。きっかけは誕生日プレゼントだったんだ」
そこで楓は言葉を切った。僕は言葉の続きを待ったが、すぐに察しが付いた。
「しまったな」僕は強く目をつむっては開き、首を振った。楓が横で軽く笑う気配がする。
「以前智生に、岬から誕生日プレゼント何をもらったか聞いたよな」
「お前、カマ掛けやがったな」
「智生が私と誕生日が近いからいけないんだ」
「むちゃくちゃ言うなよ」
僕と楓は笑い合った。楓は続ける。
「智生がもらったのは、リトマス試験紙だっけか」
「リトマス試験紙型の付箋だよ。岬渾身のユーモアなんだ」
「私には高度すぎてよく分からない。こっちにはペアリングをくれた。週末に二人で遊びに行って選んだんだ」
「楓ってさ」僕は言う。「自虐好きなのか」
楓は心底おかしそうに微笑んだ。笑いが収まると、今度は憐れむような笑顔が口元に残った。
「そうだな、私と岬は駆け落ちし損ねたんだった」
楓は眉を上げて、首をかしげた。僕は黙っている。楓はしばらく間を空けて、話の続きをした。
「岬は伝えたかったんだと思う。今の智生との関係は嘘で、本当に好きなのは私だと。私は岬にちょっとうるさい事を言った。智生が苦しんでいることを思うと、言わずにはいられなかった。本当は岬を叱れるような立場じゃないのにね。でも、その時にはもう、自分は岬に惹かれすぎていたよ。智生と岬が私に嘘の関係を取り繕ったことは悲しかった。でも自分たちはその後で、それ以上に智生にひどい事をしたんだ。恋人関係になったことを黙っていたんだから」
楓はうつむいて苦い顔をしている。今まで見たことのないような険しい表情だった。
「岬との関係は長くは続かないだろうと思った。長く続けてはいけないとも思った。だから岬に全部話すことにした。全部話すことで、すべて終わる事実があるんだ。私たちの関係は終わったよ」
楓は僕を見た。口元は引き締めているが、目は不安に翻弄されて視線が一定していない。
「これから智生にも全部知ってもらうことにする。私は確信しているんだ。私が裏切ったことも、心配を掛けたことも、智生なら全部許してくれる」
「いなくなることは許さないからな」と僕は言う。
楓は目つきを険しくして、足元に目線を落とした。
「いなくなって欲しくないと一番思っているのは、私だよ」
楓はその不安げな眼差しから唐突に涙を溢れさせた。泣き声も震えもない、ひとすじだけの涙だった。僕はベランダの柵から手を離したものの、所在なく手を宙に浮かせた。楓がこんな風に泣くなんて思ってもみなかった。肩をやさしく叩くべきなのか、手を力強く握るべきなのか、分からない。
「来てくれ」と楓は言い、ベランダを離れた。




