act8 生命の暴露
風切音が鳴っている。フードはめくり上がり、雨が顔を濡らしている。
用水路側の歩道を駆け抜けながら、フェリシティはちらりと後ろをみた。兄弟との差は三〇メートルほど開いている。
有史以来、人類はいかに体を動かさず目的を達成するかに叡智と心血を注いできた。現代においては、やろうと思えば着替え、歯磨き、洗顔、メイク、通勤、夕食の支度、掃除、洗濯、すべてを機械に委ねることが出来る。しかし、人間の体には運動が不可欠で、使わない機能はあっという間に衰えてしまう。投薬や電気治療で擬似的な負荷を筋肉に与えることは出来るが、おそろしく効率が悪い。結局、単純な運動が必要となる。
フェリシティも週に二回のトレーニングを欠かしたことがない。走ることにはそれなりの自信があった。
だが、濡れたローブは重く、体にまとわりつくため相当な体力を浪費してしまっている。加えて、追ってきているのは軽装の男二人。いつまでもリードを保てるとは思えなかった。
雨水はフェリシティを追い越して水路を流れている。歩道には行けども行けども階段が見当たらない。壁はほぼ垂直に二メートル。登れないことはないが、その間に追いつかれるかも知れない。リスクは犯せなかった。
なぜ兄弟はフェリシティを女性と知っていたのか。フードは常に深くかぶっていたし、ローブは体のラインを隠している。考えられるのは買取屋の店主だけだった。
後方で怒鳴り声が聞こえるが、風と雨音で上手く聞き取れない。
思い返せば顔を見せたのは迂闊に過ぎた行為だった。どう考えても不自然な話なのだ。金を持つ女がひとり。絶好の鴨だった。
呼吸が苦しくなってきた。心拍数と酸素供給が吊り合っていない。あとどれだけ走れるか。
緩やかなカーブを曲がったところで、突然水路が途切れた。
目の前に、広大な畑があった。
背の高いもの低いもの、さまざまな種類の作物がブロックごとにわけられ、チェック柄のように大地を染め上げていた。
地平線と言えば大げさだが、遥か畑の向こうには大きな池が見える。水路から勢い良く飛び出た雨水は二メートルほど落下し、さらに下の水路に受け止められ、ひたすら真っすぐに進んでいき池に合流している。
右手には壁があり、その先は何もない。左を向くと、農業従事者の家々なのだろうか小さな建物が密集している。あそこまで辿り着けるか。
下の水路は土を固めたもので、落水に削られたせいか広がっている。歩道からまっすぐに飛び降りれば水の中に落ちる。斜めに飛ばなければならない。落差二メートル、距離は三メートル程度。
迷う時間はない。フェリシティは少し後退し、ローブの裾を抑えて助走をつけ跳躍した。
着地の瞬間、ブーツが地面にめり込んだ。慣性の力に踏ん張ることが出来ず、泥化した地面に体が投げ出される。起き上がると、右足にするどい痛みが走った。
関節の許容限界を超えた動きに靭帯が損傷を負ったらしかった。骨は大丈夫だろうか。
じっくりと確認する暇はない。再び走りだすが、踏み込むごとに右足は抗議の痛みを発し、まともに前へと進まない。
後ろでばしゃっ、と泥を打つ音がした。
目の前に畑がある。緑の葉をフリルのようにまとった低木が等間隔に植えられている。あの中に逃げ込めば。
もはや動かない右足を引きずって畑の手前まで来た時、フードを掴まれてすさまじい力で後方へ投げ出された。ローブが喉を圧迫し、一時的に呼吸が止まった。
尻もちをつき、喘ぎながら見上げると弟が立っていた。荒々しく肩で呼吸し、顔は怒りにゆがんでいる。
弟がなにかを言おうと口を開くが、呼吸が乱れて声にならない様子だった。緩慢な動きで手を伸ばし、フェリシティは髪を掴まれた。
「いっ!」
髪を持ち上げられ、抗議の声を上げるひまもなくフェリシティは無理やり立ち上がらされた。
筋張った腕の向こうに弟の顔がある。長く走り続けたために酸欠で顔は土色に染まり、興奮状態にいるらしく目は異常なほどに見開かれ狂気の色を宿していた。岩場で遭遇した犬のように、理性がごっそりと抜け落ちた表情。
髪から手が放されたと思った瞬間、景色がぶれた。
雨粒を落とす曇り空が見える。
駆け寄る兄が逆さに見える。
体が泥を跳ね上げる。
――なぐられた……? まるで他人ごとのように感じた。生まれて一度も人に殴られたことなどなかった。頬がじんじんとしている。口の中で血の味が広がる。
体を起こそうと腰を浮かすと、左肩を足の裏で蹴られた。顔が泥に埋もれた。水っぽい土が口の中に入った。脇腹に衝撃が走った。息が止まり、吐き気がした。
「なんで逃げる!」
弟が叫んだ。説明など求めていない響きだった。逃げるからこうなった。そう言っている。
暴力とは。乱暴な力、行為。合法性や正当性を欠いた物理的な強制力。他者の身体や財産などに対する物理的な破壊力。
――……違う。
いま、はっきりと認識した。そんな文字の羅列など無意味だった。もっと原始的な、人の根源を圧倒する力。息とし生ける権利を踏みにじる靴底。
体が震え始めた。寒さではない。
怖い。そう思った。
怖い。思考が狂ったように同じ信号を発する。
怖い。それだけが体を支配した。
メイフラワーでも砂漠でも岩陰でもこれだけの恐怖を感じなかった。なぜなら、それらは想像の恐怖だったから。わずかに残った冷静な意識が教えてくれる。実際、弟は疲労の色が濃く、それほどの力ではなかっただろう。怪我など大したことはなく少し口の中を切っただけだ。だが、それがなんだというのか。
いま、体を守るものはなにもない。常識も法律もここには存在しない。剥き出しの生命が嵐のなか暴露している。
「な、なんで逃げる!」
同じことを繰り返した。相手を非難し、自分の正当性を主張する。暴力の前準備。目線を上げることが出来ない。弟の足が一歩踏み出される。
「やめろコーディー!」
兄の声がした。一対の足が弟に近づいた。
「落ち着け。おい、コーディー。コーディー!」
わずかに視線をあげると、兄が正面から弟の両肩を掴んでいる。
「に、に、逃げ、逃げたんだ兄貴。ここ、こいつは逃げたんだ」
「……おれを見ろ」 兄は必死に呼吸を整えた。「おれの目を見ろ。こいつはナーシャじゃない。おい、目を逸らすな。こいつはあの娘じゃないんだ。いいか、落ち着け。ゆっくり息をしろ。おれと同じように」
二人の荒々しい息がゆっくりと同調し、弟は落ち着きを取り戻し始める。ナーシャとはだれか。弟の豹変に関係がありそうだが、確かめる術はなかった。
「そうだ。いいぞ。吸って、……吐いて。よし、上出来だ」
憑き物が落ちたように茫洋とした目で呼吸を繰り返す弟をみて、兄はフェリシティを振り返った。
「こいつを怒らせるな。おれたちは怪我させるつもりなんてねぇんだ。おとなしくしてれば手は出さない。わかるな?」
諭すように言われ、フェリシティは素直に頷いた。もう逆らう気など少しも起こらない。
「金を出せ。全部」
命じられるままに、ローブの内側に入れておいた五〇〇ドル札二枚を取り出した。濡れてくしゃくしゃになっている。
「おいおい、よせよ」
兄は札を受け取ると苦笑した。
「もう一〇〇ドルあるだろ」
確信した。やはりこの兄弟は買い取り屋の店主と繋がっていたのだ。再びローブに手を入れ、小銭を差し出す。
「使ってしまって……、これしか残っていません」
兄は特に気にした様子もなく残りを受け取り、金額を数えながらいった。
「ローブを脱ぎな」
フェリシティは思わず襟元を握りしめた。兄は鼻で笑う。
「違う。そんなつもりじゃない。お前の持ち物を見せろって言ってるんだ」
言葉を真に受けるつもりはなかった。だが、逆らうことが出来ずローブを脱ぐと、兄は奪いとってポケットを調べる。もちろん、なにも入っていない。
「くそっ」
薄手の寝間着しか身につけていないフェリシティを睨みつけ兄は悪態をついた。
「なにも持ってねぇじゃねぇか。あのじじい、適当なこと言いやがって」
高価な腕時計を持っていたのだから、ほかにもなにか身につけていると思ったのだろう。首にはウォルターに貰ったネックレスがかかっているが、外からはみえないし、値が張るものとも思えなかった。
「ん?」
兄がなにかに気付いた。視線はフェリシティの足元に注がれている。
「良い靴だな」
泥まみれになったブーツは、それでも形を崩していなかった。水の侵入を防ぎ、逆に汗を放出している。栄えある星系連合の支給品なのだから、兄が想像しているよりはるかに良い靴だろう。
「おい、コーディー」 まだ半ば呆然としている弟に声をかける。「あの靴を脱がせろ」
「わ、わかった」
弟が足元に立つとしゃがみ込み、フェリシティの左の靴に右手をかけた。冷静さを取り戻しているように見えるが、むしろ落ち着きすぎている気がした。表情にはなにも現れておらず、不気味だった。
靴を脱がせようと弟の左手がフェリシティのふくらはぎにかかった。ゴツゴツとした感触に、背筋を冷たいものが走った。体がぶるっと震えた。
弟の手が止まっている。靴を見ていた目線は、いつの間にかフェリシティの体に注がれていた。降り注ぐ雨粒で服は体に張り付いている。焦点を失っていた弟の瞳に、色が戻る。
兄は、札を手ぬぐいで拭いている。
弟はまだ無言でフェリシティの体を眺めている。
体の震えが止まらなくなってきた。弟の手が、ふくらはぎを掴んだまま這い上がってきた。つられて裾がずり上がり、真っ白い肌が露出した。弟の唇が歪み、壮絶に笑った。
「……いやっ!」
限界だった。体が勝手に拒絶していた。跳ね上げた左足が、弟の顔をなぞった。
両手を地面について後ろへ下がった。弟の鼻から赤い線が流れた。雨にまじった血を手で拭い、まじまじと見つめている。
一瞬で顔が真っ赤に染まった。眉を吊り上げ、立ち上がった。
「お、……おお、お前、蹴ったな」
どしどしと歩み寄り、乱暴にフェリシティの頭を掴んだ。
「なんで蹴った!? お、おれは靴を取ろうとしたんだ! く、くく、靴を!」
顔が地面に押し付けられる。泥に埋もれて呼吸が出来ない。
「やめろコーディー!」
兄の声が聞こえた。だが、頭を掴む力は緩まなかった。
「く、靴だ! あ、ああ……、兄貴、おれは靴を取ろうとしたんだ! なんで蹴った! なんで蹴った!?」
叫ぶたびに押さえつける力が強まる。このままでは頭が押しつぶされる。そう思った時、圧迫が消えた。
弟が兄に腰を抱え込まれ倒れこんだ。二人はもつれ合うように泥の中を転がった。
「蹴った! け、蹴ったんだああ兄貴!」
「よせっ! そんなことはしなくていい! くそっ、落ち着けって!」
兄が弟を羽交い締めにしてフェリシティに叫ぶ。
「ちくしょう! いっちまえ! 早く!」
慌てて体を起こそうとしたが、全身が強張って上手く動かせない。
「はやくしろ! くそ、落ち着けコーディー!」
それでも立ち上がり、落ちているローブを掴むと畑のほうへ走った。後ろで声がしている。
「いいか! 警察にいうんじゃねーぞ! 顔は覚えてるんだ! わかったな!」
振り返りも、頷きもせず足を引きずりながら走った。畑に足を踏み入れ、木の間をひたすら進んだ。顔に葉が当たるが、目をつぶって進み続けた。途中なんども転び木をなぎ倒した。それでも、すぐ後ろに弟が迫っている気がして足を止めなかった。
畑を抜けた。
いつの間にか日は落ち、雨に濡れる家々がほんやりとしか見えない。
フェリシティは泥だらけのローブを着てフードを下ろすと、ふらふらと町の中へと入っていった。




