act9 野良犬の眠り
木のこすれ合う音でフェリシティは目を覚ました。
強烈な光に目が眩み、手で目を覆った。
ぼんやりとした意識の中で、状況を思い出す。
昨夜、フェリシティは偶然みつけたぼろぼろの小屋に避難した。木の板とトタンを組み合わせて作っているらしく、雨音はうるさいが雨風はしのげた。物置らしく木箱が積み上がっておりかなり狭い。
服を絞って再び着るのは気が滅入った。火を起こしたかったが火種すら持っていないかった。
生乾きのローブに身を包み、木箱を背に座って眠った。
まるで捨て犬だ。そう思った。本国で野良犬は捕らえられて殺処分される。薬で眠るように穏やかな死を与えられる。
この世界ではどうだろうか。
いや――。フェリシティは自嘲ぎみに笑った。どの世界でも同じだ。
笑いが止まらなかった。なにもおかしくはないのに、衝動が体を揺すった。
人は安心すると笑うのだと言う。一体、この状況でなにに安心したのか。
結論を待たず、そのあとすぐに意識は沈下した。
立て付けの悪い木の扉が悲鳴を上げながら開く。そのたびに太陽の光が飛び込んできた。
「……あんたは」
扉を開けたのは老婆だった。白髪頭に布を巻いているが顔は隠していない。日に焼けたしわだらけの顔に驚きが浮かんでいる。
――小屋の持ち主?
焦りが生まれた。今の状況は不法侵入だ。
「どうしたんだい? 大丈夫かい? なんでこんな所に……」
老婆は怖じけることもなく小屋に足を踏み入れ、手を伸ばしてきた。
フェリシティは咄嗟に後ずさった。
だが、老婆はもう一度手を伸ばし、フェリシティの肩に触れた。
「こんなに冷えちまって、かわいそうに……。サミール!」
入り口に向かって大声を上げると、少年が顔を出した。一〇歳程度だろうか、浅黒い肌をしており表情はまだあどけない。
「風呂を沸かしておくれ! 大急ぎだよ!」
少年とフェリシティは目が合った。幼いが、なにを考えているか判らない不思議な輝きだった。なぜかウォルターを思い出した。彼は、なにも言わずに駆け出した。小気味よい足音が去っていく。
「起き上がれるかい?」
問われ、フェリシティは身を起こした。体は動くが、寒気が止まらない。
「あの、勝手に入ってすみません……。わたしは……」
老婆が首を振った。
「いまはそんなことは構わないよ。まず体を温めな。お腹は空いているかい?」
フェリシティは頷いた。
「わたしの家はすぐそこだよ。歩けるね?」
老婆が手を握ってきた。まるで皮と骨だけの手のひらが、温かい体温を伝えてきた。フェリシティの視界が滲んだ。嗚咽が喉を塞ぎ、もう一度頷いた。
お湯に浸かってもしばらく震えは止まらなかった。ガタガタと体を揺らしながら湯船の中で身を丸めた。
昨夜は体のあちこちが傷ついていた。特に手は固い葉を払ったせいか切り傷だらけだった。しかし、一晩のうちに跡形もなく治っている。医療用分子剤が体の中にあるかぎり、たとえ心臓に穴が空いても死ぬことはないと言われている。
ただし、そう長くは持たない。あまりにも微細なためか分子剤の活動時間は長くない。数日のうちに停止し、排泄物と一緒に体外へ出てしまうだろう。
土壁の中に湯気が充満している。金属製の湯船は底に板が入っていた。外では少年が火を起こしてくれているらしい。彼は湯加減など聞かずに、最適な温度に調整してくれていた。相当慣れているのだろう。
あの老婆はマリサと名乗った。いまは食事の用意をしてくれていると言う。
この親切にはどんな理由があるのだろうか。フェリシティは迷っていた。この世界に無償の施しがあるのだろうか。
なにかを要求されるかも知れない。だが、だとして自分はいま選択できる立場なのか。
ルークに会いたい。彼は必ず生きている。生き延びて自分を探している。それまでは、生きなければならない。
――ほんとうに?
フェリシティは頭を振った。希望はある。いつだってどこにでも。諦めてはいけない。
――でも。
湯船から身を起こした。
震えは止まっていた。
「なにも……、覚えていません」
食後、茶の入った鉄製のコップを握りしめてフェリシティは嘘をいった。それが最善だと思ったからだ。食卓を挟んでマリサは悲しげに目を細めた。
黄土色の煉瓦作りの家には、驚くことに電気が通っていた。といっても電灯以外の電化製品は見当たらない。今は点灯しておらず、窓から漏れる明かりが室内を照らしている。
いま着ている服は紺色のパンツと、灰色の上着は裾が長く膝まである。マリサに借りたもので、随分と大きい。息子のものだといった。
「気がついたら砂漠に。それでトレーダーに助けられてこの町に来たんです」
「トレーダーが?」 マリサが目を見開いた。「それは……、珍しいね」
「そうなんですか?」
「ああ、トレーダーは渡り鳥だよ。他人との交流は避けるのさ。例え行き倒れが居ても気にしない人種だね」
声に侮蔑が含まれているのを感じる。彼女だけの感情だろうか、それともこの世界がそうなのか。
「まぁ、それでも人間だから、色々居るんだろうさ。それで、それからどうしたんだい」
「町で彼らとは別れました。腕時計を売ったんですけど、そのお金を盗られてしまって……」
買取屋と兄弟の一件を話すべきか逡巡した。兄の言葉を守るつもりはない。だが、それでお金が戻ると思えなかったし、厄介事を引き起こすことになりかねないとも思った。結局、それ以上は喋らなかった。
「大変だったねぇ……」
マリサは乾いた瞳に涙を浮かべてくれた。
フェリシティは言葉に詰まった。安堵でつい涙が出そうになるのをこらえた。
「それで、これからどうするつもりだい?」
答えたくない、考えたくもない質問だった。頭がひどく疲れていて、思考がまとまらない。ほのかに苦い茶を喉に流し込み気持ちを落ち着けた。
「トレーダーに会う前、はぐれてしまった仲間がいるんです。彼を探そうと思います。きっと、近くにいるはずなんです。もしかすると、この町に着いているのかも知れない」
マリサは考え込んだ。
「それは、容易じゃないね」 重々しい口ぶりだった。「ドリスの人口は五万人だよ。ひと一人を探すには広すぎる」
「……それでも、探します」
フェリシティも簡単じゃないことはわかっている。だが、他に道は存在しなかった。今日でさえ何度も死にかけたというのに、一人であとどれだけ生きられると言うのか。ルークは死んでいる? そんな確証はない。あるはずがない。
「お金は持っているのかい?」
「ありません……。すべて、盗られました」
強盗の弟の顔を思い出し、思わず両肩を抱いた。フェリシティは自分の心の均衡が崩れ始めているのを悟った。疲労で感情が昂ぶり制御が効かない。
「なにかあてはあるのかい?」
「なにも……」
「じゃあどうやって探すんだい?」
「まだ、わかりません。この町のこと、この世界のこと、なにも知らないんです!」
まるで言い訳のように感じた。本当はわかっていた。本当のことはわかっていた。だが、それは認められない。受け入れてしまえば終わりだから。
「金もない。あてもない。どうやって生きていくのさ」
「わかりません!」
フェリシティは思わず激高した。突然涙が溢れてどうしようもなかった。
「わかるわけないじゃないですか! ひとりぼっちで。なぜわたしはここに居るのか、そんなことも知らないのに……!」
胸を締めあげている悲嘆を吐き出すように、フェリシティはわめき続けた。
「なんでこんなことになったんですか? わたしになにが出来たの? どうしてわたしだけ……、こんなに苦しいのに……」
顔を覆う手のなかで、子供たちがこちらをみていた。
骨の浮き出た体で瞳だけは大きく、すがるでもなく、悲しむわけでもなく、ただ彼女をみつめていた。
「わたしにはなにもない。なにもできない。弱くて……、情けなくて……」
手の隙間から涙が流れている。いまさらなぜ昔のことを思い出すのか。ただ混乱と狼狽のなかで泣き続けた。
どれだけ時間が経っただろうか。土壁に木霊する嗚咽は鼻をすする音に変わっていた。
「それじゃあ、フェリシティ」
近くで声がした。顔を上げると、いつの間にかマリサが側に立ち、フェリシティの肩を優しく撫でながらいった。
「うちで働かないかい?」
「え?」 驚きが声に出た。
「大したものじゃないが店をやっていてね、人手が足りないのさ。ここに住み込みで働いてくれたら嬉しいんだけど、どうだい?」
突然の提案に言葉が出なかった。
「もちろん、そのお仲間が見つかるまでで構わないよ」
マリサはいたずらっぽい笑みを浮かべた。フェリシティは急に取り乱していた自分が恥ずかしくなって頭を下げた。
「すみません、泣いたりして。……本当に、よろしいのですか?」
「わたしからの提案だよ。よろしいに決まっているじゃないか」
少し拗ねたような言い方にフェリシティから笑みがこぼれた。
「それで、どうだい? 給与とかの待遇面に関してはあとにするとして、やる気はあるかい?」
「はい。やらせてください」
きぱっりと即答した。偶然目の前に降りてきた幸運の糸。手を放してはいけないと思った。
「オババ」
子供の声がした。少年が窓の外でこちらをみている。
「今日、お店はどうするの?」
「そうだねぇ……。昼から開けることにしようか」
「そんな。わたしは今からでも働けます」
慌てていった。負担にはなりたくなかった。マリサは笑って首を横に振った。
「この町では勝手に人を雇えないんだよ。きちんと契約をしなくちゃいけないんだ。それに、まだ顔色が悪いじゃないか。今日はゆっくりと休みをとるべきさ」
たしかに性急だったことをフェリシティは恥じた。それに契約とはどのようなものだろう。ここからはマリサに任せた方が良いと思った。
「じゃあ、おれはなにをするの?」
少年が聞いた。
「空き部屋を掃除してくれるかい。女の子が住むんだ。とびっきり綺麗にしておくれ」
ニコリともせず、少年は相変わらずの表情で去った。
「あの、彼は?」
「サミールさ。かわいそうに両親を病気でなくしてね、畑のなかで死にかけていたのを見つけたのさ。無愛想だけど許してあげておくれ」
「いえ、気にしていません」
――それならば。フェリシティは思った。彼は自分と同じだと。
「それじゃあわたしは店の準備をするからね」 マリサが席を立った。「フェリシティはここに居て、サミールが呼んだら部屋で休みなさい」
フェリシティも立ち上がり、コップを手にとった。
「これはどこで洗えばいいですか?」
「サミールが片付けるからね。そんな気を使わなくても大丈夫だよ。あの子を家に残しておくから、なにかあったら言いなさい」
フェリシティは頭を深く下げた。
「あの……。本当に、ありがとうございます」
マリサは微笑みで返し、出かけていった。
リビング、なのだろう食卓の置かれた部屋で一人になった。
――わたしが泥棒だったらどうするんだろう。
もちろんそんなことはしない。だが、それは自分自身でしか保証出来ないことだ。マリサがフェリシティを少しも疑っていないことに嬉しさを感じた。
窓から差し込む日の傾きから、まだ朝だろうと思う。準備には時間がかかるらしい。そういえばどんな店なのか聞いていなかった。だが、老婆と少年で出来るのだから、フェリシティに出来ない理由はないはずだ。
コップに残っている茶を飲み干した。もう冷めているが、安らぐ気持ちがした。
とても静かだった。時間というものが突然動きを弱めたように、穏やかな世界だった。
昨日までのことはすべて嘘で、自分はずっと前からここに居る。そんな心地よい錯覚を感じていた。
しばらくして少年が呼びに来た。
「早かったね」
案内されながらなんとなくそう言うと、サミールは眉をしかめた。
「ちゃんと掃除した。手なんか抜いてない」
フェリシティは慌てて訂正した。
「そ、そんなつもりで言ったんじゃないよ。仕事が早いんだなって思って」
サミールは無視して廊下を歩いた。嫌われているのだろうか。
マリサの家は大きかった。外見からはわからなかったが、かなりの奥行きがある。しかし部屋数は多くない。ときおり開け放された扉から中庭がみえた。一階建ての建物の半分を占領しているらしく、干された洗濯物や野菜を植えた小さな畑がある。
扉の前でサミールが止まった。
「ここだから」
中はこじんまりとしていた。ベッドとクローゼットが部屋の大半を占め、机が空間に止めを刺している。だが、窓が太陽を向いており明るく温かい。不満はなにも湧かなかった。
「昼飯が出来たら呼ぶ。出歩かないで」
投げやりな言い方にむっとしたが、気持ちを抑えて出来るだけ愛想よく返事をした。サミールはなにも言わず出て行った。
フェリシティはベッドに腰掛けた。固い。マットらしきものは敷かれているが、低反発という概念はないらしかった。だが贅沢はいえない。
なにもすることがなかった。ただぼんやりと空を見ていた。
大雨のことなど忘れたように雲ひとつない晴天だった。あの空の上に、メイフラワー号の残骸が浮いている。多くの仲間も。
それほど悲しみは湧かなかった。現実感がなさすぎるからだと思った。
本国がこの異常事態に気付くのは何年後になるだろうか。
外宇宙探査船はある程度の距離で本国との繋がりが断ち切られる。遠すぎるからだ。
まず、星系連合はメイフラワー号がいつまで経っても戻らないことを疑問に思うだろう。半年ほどして、調査船が編成されるはずだ。だが、その船がハイシノンに到着するのは早くて五年後……。
しかし、希望は残っている。メイフラワー号の側にはアンカーがあるはずだった。ルークは設置が完了していると言った。ならば、起動は難しくない。ルークと合流して、それから宇宙船を探すことになるだろう。
――この星に宇宙船……?
あるはずだ。この星への移住に使われた移民船がどこかに残っている。記録によれば四隻。保存状態はどうだろうか。二六七年間も宇宙空間を彷徨った宇宙船が、機能を保ったまま発見された例がある。動くはずだ。
それを実行するためには、この星の政府の協力を仰ぐ必要がある。だが、どんな政治体制なのか少しも知らないのだから、迂闊には動けない。
働きながら情報を集めよう。知らないから不安になる。知れば、怖くない。
自分に言い聞かせて、フェリシティは立ち上がった。
サミールはどうしているだろうか。なにか仕事をしているなら手伝おうと思った。
扉を開けると、廊下の少し離れた場所でサミールがうずくまっていた。フェリシティに気付いて立ち上がる。
「なにをしてるの?」
「べつに」
にべもなく返され、質問は一方的に打ち切られた。
「トイレ?」
逆に問われ、慌てて否定する。
「ち、違うよ。なにか手伝おうと思って」
「いらないよ」
ここまできっぱりと断られると言葉も無い。
「部屋に居て」
「う、うん」
しかたなく頷き扉を閉めようとすると、サミールが口を開いた。
フェリシティは手を止めて待った。だが、なにも言わない。ただ表情にわずかな変化を感じた。どこか悲しげで、なにか訴えているようにみえる。
「あの……、どうしたの?」
サミールは答えない。うつむき加減で沈黙し、踵を返すと振り向きもせず去っていった。
わけが分からず、フェリシティは再びベッドに戻った。寝転んで、ぼんやりと天井をみつめた。
相変わらず穏やかな時間が流れている。外からはしゃぎ合う子どもたちの声が聞こえた。
世界は平和だった。屋根の下では、だれかの庇護の元では、野良犬も静かに眠る。
「諦めなくてよかった」
それは、どの時のことを言っているのか自分でも分からなかった。だが、そう心から思った。




