act5 岩陰にて
オアシス、と呼ぶには程遠いものだった。
泥の水たまりの周囲に、枝だけになった草木が枯れ果てている。元々池だったものが干上がったあとかも知れない。
それでもその場所は岩陰になっており、いくぶんと涼しい。岩肌は少なくとも自分の体温より冷たく、しばらく抱きつくように体を預けた。やがて、背をつけて座り込む。
あの泥水をなんとか飲めないか思案を巡らせた。服を通してろ過すればどうだろうか。濃い泥水になるだけのような気がする。だが、やってみる価値はあると思う。
よろめきながら泥の池に近づき、膝をついて泥をすくった。
「……ダメだ」
泥というより粘土に近い。これではろ過のしようがない。
ため息をついて顔を上げると、池の反対側になにかがいた。
それを見た瞬間、フェリシティは発狂するほどの恐怖か感じた。全身が逃げろと悲鳴を上げている。だが、指の先まですくみ上がり微動だにすることが出来ない。
最初は犬かと思った。たしかに四本足の生き物で、尖った耳と切れ長な目はキツネを思わせ、砂漠に溶け込むような黄色い毛はところどころ赤く染まっており、怪我をしているらしかった。手負いの獣は凶暴だと言われている。
しかし、フェリシティが感じる恐怖は、種類が違った。
その犬らしき生物は決定的ななにかが欠けている。それでいて、あり得べからざるものを持っている。生物学者でないフェリシティには具体的になにがおかしいのか判らないが、一目見た瞬間から”これは自然のものではない”と直感した。
まるで人の悪意そのものに対峙したかのように、嫌悪感が溢れて止まらない。
池の反対といっても距離は近い。一〇歩も離れていないだろう。
犬もどきがこちらを向いた。そして、口の端を広げた。まるで笑っているように見えた。にやりと、そして砕け散った。
打ち上げ花火のように赤い欠片が四散する。上に乗せるものを失った首から血が噴水のように吹き上がり、体は置物のようにどさりと横に倒れた。ぱちゃぱちゃと薄気味悪い音を立てて肉片が泥たまりに降り注ぐ。
完全に思考が停止した。ただ、無意識に首が周り周囲を見回すと、遠くの岩の上に人影を見つけた。岩、といっても相当大きい。人影が本当に人ならば、岩は四階建てほどの高さがある。
人影はしばらく立ったままだったが、おもむろに岩から飛び降りた。自殺としか思えない距離を落下して、何事もなかったかのようにこちらへ歩き始める。
逃げるべきだろうか、という考えがフェリシティの脳裏にちらりと浮かんだが、もはや事態に対処する気力も起こらず、そのまま待つことにした。
しばらくすると人影の姿がはっきりと見えて来た。
黒っぽい中折れ帽子を目深に被り、膝ほどまである薄汚れたブラウンのコートを着ている。ブーツと手袋も合わせて、徹底的に太陽光の直射を避けているようだ。
もっとも目を引かれたのは、手に持っている銃だった。職務で軍による教育プログラムを一週間積んだフェリシティだが、これほど大きな銃は見たことがない。その人間の身長と同じぐらい長く、銃身も太い。それをスコップでも持つように軽々と片手で肩に担いでいる。
距離がさらに縮まると、顔が見えた。男性だが、病的なほど青白い。目鼻立ちはすっきりとしていて端正だが、まるで生きている人間とは思えない肌色とどこか茫洋とした表情は不気味だった。
男性ははじめからこちらに気づいていたようで、目線を寄こすと左手を少しだけ上げた。まるでジョギング中、知り合いに会った時のような気軽さだったため、フェリシティは一瞬その動作が挨拶だと気付かなかった。
「……こ、こんにちは」
慌てて返事をすると、男性は微笑を浮かべた。たったそれだけの変化だが、なぜか不気味さは消えて親しみが湧く。そういう表情だった。
この男に頼るしかない。そう思いフェリシティは立ち上がった。
「あの、すみません。私は……」
そこまでいうと男は左手の平をこちらに向けた。制止の意味だと理解した。
男は首のない犬もどきに歩み寄ると、コートの中からロープを取り出し手際よく後ろ足を束ねてくくりつけた。
ロープの逆側を左手に巻きつけると踵を返して歩き出す。少し進むと、顔だけをこちらに向けた。
「えっと……、着いて来いということですか?」
こくりと頷き、男は歩き出す。フェリシティは疲労の声を無視してあとを追いかけた。
男は巨大な銃を担ぎ、犬を引きずっているにも関わらず、重さなどないかのようにすたすたと歩いて行く。一方フェリシティの足は限界に来ていた。辺りは岩山に囲まれていて、まるで迷路のように入り組んでおり、はぐれるわけにはいかないがなかなか歩が進まない。
だが、ある程度離れると男は立ち止まってくれた。一言も話さないが、こちらの状況をある程度理解してくれているのだと思った。
そんなやりとりを何度か繰り返すうちに、歌声が聞こえてきた。フォークギターと美しい女性の声。まったく知らない曲だけに、幻聴とは思えなかった。どうも古い英語で歌っているらしく内容は理解出来なかった。
歌声はしだいに近くなり、ひときわ狭い岩と岩の間を抜けると、そこは紛れもなくオアシスだった。
周囲を岩山に囲まれて、ふちを草で緑に染め上げた池がある。水は少し茶色く濁っているが、思わず乾ききった喉がごくりと鳴る。
池のそばには大きなトレーラートラックが停車している。ところどころ塗装が剥げおち古びても見えるが、錆びはなく頑丈な古強者といった印象だった。その隣にパラソルが張ってあり、小さなテーブルを一組の男女が囲んでいる。
歌声は女性から発されていた。木製のギターを鳴らしながら、伸びやかに歌っている。
最初にこちらに気付いたのは男性の方だった。ブラウンのズボンとよれた白いシャツの上に黒いベスト。磨き上げられた革のブーツとツバの深い帽子は、映画で見たカウボーイと呼ばれた人たちにそっくりだった。ただし、瞳が大きく子供っぽい顔に立派な髭が不釣り合いだ。
「なにやってんだウォルター!!」
突然の大声にフェリシティはすくみ上がった。音楽は止み、岩山に男の声が木霊する。
「俺は食い物をハントしろって言ったんだぜ!? どうして女をハントしてくるんだ!」
どうやら青白い青年の名はウォルターで、女とは自分のことを指すらしい。フェリシティはそう思ったが、青年は無視して無言のまま池に歩いて行った。
視線をパラソルに戻すと、女性の方が手招きしている。タンクトップと短パンだけの格好だが、いやらしさはなく小麦色に焼けた肌は健康的だった。フェリシティより少し若い。おそらく十代だろう。しかし、髪の色は白地を所々赤に染め上げ、瞳の回りを大きく隈取しているのが異様だった。本国にも似たような格好を好む若者は多いが、一般的に不良と呼ばれる人々で、フェリシティが関わりあいになることはなかった。
「あの……、こんにちは」
恐る恐る歩み寄りながら挨拶をすると、少女は笑顔で迎えてくれた。
「こんにちは、お姉さん。どこから来たの?」
「おい、ピア。こいつはきっと悪魔だ。うかつに喋るんじゃねぇ」
割り込んできた男は訝しげな視線をこちらに向けている。
「たいちょー。あんたさっき自分で女って言ったんだよ?」
「女の悪魔だよ。考えてみろ。どうして人間の女がこんな所に、こんなふざけた格好で居るんだ? しかも丸腰だぞ?」
「それを今から聞くんでしょーが」
少女ピアはフェリシティに向き直し、人懐こい笑顔を浮かべる。
「お姉さん、この辺の人間じゃないよね? 南から来たの?」
「馬鹿か」 隊長と呼ばれた男が再び割り込む。「この服装で砂の海を渡って来ただって? そりゃ砂漠に対する侮辱だな。俺が知るだけで十六の人間が砂漠横断に挑戦したが、半分は行方不明。もう半分は究極のダイエットでカラッカラになって砂浜に打ち上げられた。彼らに哀悼の意があるのなら……」
「いい加減黙らないと踏み潰すよたいちょー」
ピアが一段低い声でそういうと、隊長は鼻を鳴らして黙った。
「ごめんね、うるさくて。とりあえず座ったら? 水、飲む?」
――水! フェリシティは何度も頷いた。
「お、お願いします。ずっと……、なにも飲んでいないので」
椅子に座ると、ピアが擦り傷だらけのコップに水を注いでくれた。少し濁っているが、泥にくらべたら清水のようなものだ。
両手でコップを握り、そっと口に水を流し込んだ。どうやらなにかの果実が混ざっているらしく、少しだけ甘みと酸味がある。ゆっくりと喉を潤そうと思っていたつもりが、つい喉を鳴らして飲み干す。
「良い飲みっぷりだね。もしかして本当に砂漠を渡ったの?」
一息ついて、冷静になった。この答えは慎重にしなければならない。自分が星系連合体から来た事実を、彼らがどう受け取るか判らないからだ。せっかく人間と出会えたというのに、回答次第で崖を転がるように事態が悪化する可能性もある。しかし、かといって嘘をつくことも憚られる。
「……言いたくない事情でもあるの?」
「実は人間じゃないんです、とかな。あいたっ」
テーブルの下でピアが隊長の足を蹴ったらしい。フェリシティは彼らが悪い人間には思えなかった。ならば、嘘はつけない。
「あの……」 しかし、どこから話そうか頭の整理がつかない。「わたしは……」
そこで沈黙してしまった。まだ心の奥で迷っているらしかった。ピアが黙って水を注いでくれたコップを握りしめ、言葉を絞り出そうとするが、声帯に力を入れれば入れるほど強張ってしまう。
「どうでもいいんだ、そんなことは」 隊長が言った。「お前が何者なのか、興味が無いわけじゃないが、無理に聞こうとも思わない。それが俺たちのやり方だ。そうだろ、ピア」
ピアは細い眉をしかめながらも頷いた。
「まぁ、そうだけど」
「だったら話は終わりだ。もっとも、水を恵んでもらって事情一つ話さないってのもオレたちの流儀じゃないが、他人に押し付けるほど心が狭いわけでもない」
フェリシティは驚いた。迂遠な言い回しだが、彼は怒っているらしかった。
「す、すいません。そんなつもりでは」
「かまわんさ」
鼻を鳴らして髭を撫で笑顔を浮かべるが、目は笑っていない。
「ところで我々はトレーダーだ。オレが隊長のロンダート。このクソ生意気な小娘がピアで、あっちの喋らないのがウォルター。ビッグホーンで荷を積んで、ドリスに向かう途中だが、いや、構わない。オレがそんな説明をしようがあんたに名乗る義務はないし、もちろんこの場に居る説明も不要だ」
「たいちょー、性格悪いよ?」
ピアが諌めるとロンダートは再び鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「まーでも、名前ぐらいはいいでしょ?」
「は、はい」 思わず声が大きくなった。「フェリシティ・コディといいます。あの……、事情を言いたくないわけではないんです。ただ、話が混み合っていて……、どう話せばいいのか……」
「いいんだってば。私たちは流れ流れてトレーダー。他人の事情に深く関わらないのが掟なんだから」
「でも、本当に……」
言いかけた所で、影がフェリシティを覆った。見やると、いつの間にか傍にウォルターが立っていた。手には肉の塊。さきほどの犬もどきなのだろうか、剥き出しの筋肉はグロテスクではあるが、それ自体はストアで売っているものとそれほど違いはなく不快感はなかった。
「痩せ犬め。大した量じゃないなぁ」
ロンダートが毒づきながら立ち上がる。
「撤収だ。ドリスに向かうぞ」
ウォルターはこくんと頷き、パラソルを畳みはじめた。ピアも立ち上がり、ギターを肩に担ぐ。
「それとあんた、どうする?」
問われ、フェリシティは、え、と口ごもる。
「街まで送って欲しいのかってことだよ。もちろん、その格好で荒野を突っ切るつもりならオレたちに止める権利はないがね」
「い、いえ!」 慌てて答えた。「お願いします。……すみません」
恐縮するフェリシティを見てピアがうめいた。
「たいちょー、性格悪いよ?」




