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act22 青い星

 どれだけ走っただろう。

 雨上がりの地面はぐちゃぐちゃとぬかるんで、なんども足をとられた。

 転んで、ローブを泥だらけにしながらフェリシティは走りつづけた。足を動かす時だけは右手の痛みを忘れられた。

 南の壁を越えて、南東へ向かった。

 死ぬなら砂浜で。職員の言葉を思い出していた。

 だが、もう方角の感覚はない。本当に目的地に向かっているのかわからなかった。

 息が上がって肺が限界を訴えた。それでも立ち止まらなかった。

 薄雲にまとわりつかれた月の光は弱々しかったが、なにも見えないほどではない。

 自分はなにをしているのだろうと思った。

 もう体も心も疲れ果てている。一つわかっていることは、あの小屋で死にたくないということだった。

 セッターとマリサに自分の死体を見られるのは嫌だった。

 死ぬなら、静かな場所で。

 だれもに知られず、ただ孤独に。

 それは自由だと思った。老人の言葉は本当だった。死の選択。それが奴隷に残された自由。

 しかし、行けども行けども荒野が続いた。景色は変わる様子がなかった。

 頭がぼうっとして、悪寒を感じていた。風邪を引いているのだと思った。母星では簡単に治るのに、この星では命に関わる病気。

 そんなことはどうでも良かった。ただ、目的地に着けないことが残念だった。

 足が止まった。

 両膝をついて空を仰いだ。月はまだ薄雲に隠れている。

 ――せめて、月を見ながら。

 そう思った。だけど、願いは叶いそうになかった。

 ぴしゃり、ぴしゃりと足音がした。

 いや、ずっと前からしていた。ずっと気配を感じていた。それが、近づいてきた。

 振り返ると、犬が一匹。相変わらず醜悪だと思った。体に対して大きすぎる顔。ぎょろぎょろと開かれた瞳。だらしなく舌が垂れている。

 牙が見えた。人間の肉など簡単に引き裂けそうな、長く鋭利な牙が並んでいる。

 ――終わりなんだ。これで。

 素直にそう感じた。恐怖はなかった。生まれた時から決まっていたことが、時刻通りにやって来た。そんな気分だった。

 犬はしばらく距離をとってこちらを見ていた。警戒しているのだと思った。

 ――怖がらなくていいよ。

 もうなにも出来やしない。

 犬は、突然走りだした。四肢を地面に叩きつけ、フェリシティに迫った。

 ――風の音が聞こえる。

 びゅーびゅーと、空を渡る鳥のように風切音が聞こえる。

 自由はそこにある。あと数歩。

 鼓動が聞こえる。どくどくと心臓が鳴り響いている。

 泥穿つ爪の音が聞こえる。

 ――そしてもう一つ。

 遥か遠くで、声が聞こえた。

 声は次第に近づいているようだった。

 近づいて、離れている。薄い膜を隔てた違う世界に響く声。

 犬が眼前に迫った。

 フェリシティの目が大きく見開かれた。

 耳元で、声が、炸裂した。

「……ぁぁぁあああああああああああああああああああああ!!!」

 それは、自分自身の絶叫だった。

 ナイフを持った左手が突出されていた。切っ先が犬の喉に突き刺さり、そのまま指ごと埋まっていた。鮮血が腕を濡らした。焼けるように熱かった。

 犬が体の支えを失い地面に倒れた。引きぬいた左手が真っ赤に染まって、ぬらぬらと月明かりを反射している。

 心臓が全力で動いている。がくがくと震える両足は、それでも大地を踏みしめている。肺が空気を求め、喉がぜえぜえと鳴った。叫びの残響がまだ大気に漂っている気がした。

 ぴしゃり。また足音が聞こえた。振り返ると、また犬が立っていた。ぴしゃり、ぴしゃり。その数は二頭、三頭と数を増した。

 犬たちはフェリシティを取り囲み、徐々に幅を狭めてくる。

「うわああああああっっ!!」

 がむしゃらに叫んでそのうちの一頭に飛びかかったが、やすやすと避けられ泥のなかに転がった。すぐに半身を起こし、周囲に刃を振りまくった。

 犬たちは近づいてこない。立ち上がろうと思わず右手をついた。激痛が走り、肩から地面に倒れた。

 傾いた視界のなかで犬が走りだした。

 フェリシティの手前で大きく跳躍すると、――砕け散った。

 粉々になった肉片をまき散らし、残った下半身だけがべちゃりと落ちた。

 一瞬だけ遅れて轟音が荒野に響き渡った。

 犬たちは棒立ちになり、そのうちの一匹がピクピクと短い耳を動かし、消し飛んだ。

 身を翻した犬が真っ二つに千切れ飛んだ。

 その度に轟音が空気をビリビリと震わせた。

 周囲に動くものがいなくなった。血と、肉と、骨の欠片が散乱している。

 フェリシティはぼんやりと座り込んでいた。ローブはすでに泥と血に染まっていて、尻が濡れるのは気にならなかった。

 地平線の向こうに明かりがみえた。二つの丸い光源が、騒音を伴って迫ってくる。

 光は手前でとまった。眩しくて血まみれの左手で遮った。

 明かりが消え、正体を現したそれはトレーラーだった。屋根から影が飛び降りて、どしゃ、と着地音が聞こえた。

 先端から湯気を上げる巨大な銃を担いて、ウォルターが駆け寄ってきた。

 ピアの声が聞こえた気がした。視界がぼやけて、世界が滲んだ。

 だれかに抱きしめられた。

 温かい体温を感じながら、フェリシティは眠りに落ちた。



 パチパチと枝の爆ぜる音に目を覚ました。

 焚き火が月明かりのなか揺れている。すぐ傍でピアが鍋をかき混ぜて、周囲に甘い匂いが漂っていた。

 前方になだらかな岩の丘が見える。スロープのように下って、フェリシティたちのいる場所はほぼ平面。雨は流れてしまったのか、地面はそれほど濡れていない。

 フェリシティの体には温かい毛布がかけられ、地面にはマットが敷かれている。

「具合はどう?」

 こちらに気付いたピアが心配そうに聞いてきた。

 熱のためか、頭がぼんやりとしている。全身が筋肉痛かぎしぎしと悲鳴を上げている。だが、もっとも痛むのは右手だった。見ると、真新しい包帯が巻かれていた。

「汚れてたからね。ついでに服も替えたよ」

 毛布をはぐると、可愛らしいパジャマに着替えさせられていた。裾が足りないのは、ピアのものだからだろう。

「胸とか見ちゃったけどいい?」

「え?」

 思わず聞き返し、ピアの笑顔をみて冗談だと察した。ふっと体の力が抜けて、くすりと笑った。

「お姉さんのことは町で聞いたよ」 ピアは笑顔を絶やさないように、それでも悲しげな表情でいった。「わたしたちはお金を稼いでたんだ。お姉さんのためにね。大して集まらなかったけど……」

 お椀を手にして、鍋から中身を移しかえた。湯気が立ち上る。

「こんなことになってるなんて知らなかった。ごめんね。助けてあげられなくて」

 フェリシティは首を横に振った。謝ることなんてない。これは、自分の選んだ結末。

 左手にお椀が渡された。白濁した液体のなかに、刻まれた野菜がみえる。

「山羊の乳の蜂蜜スープ。トレーダーは風邪を引いたらこれを飲むんだ」

 お椀を持ち上げて一口すすった。とても甘く、暖かさが喉から胸に広がった。

「どうして私の居場所がわかったんですか?」

「偶然だったんだよ」 ピアは苦笑いを浮かべた。「町に行ったら警官が門の所に集まってて、お姉さんが逃げたって知った。右手のこともね。そしたらたいちょーがさ、砂浜に向かったんだって言い出して。人はそこで死ぬんだって。むちゃくちゃだよね」

 フェリシティは偶然などではないと思った。たしかに自分は死のうとしていた。どうしてロンダートにそれがわかったのか不思議だった。

「あの、二人は?」

 姿が見えなかったので問うと、ピアはフェリシティの頭上を指さした。

「ウォルターはそこ」

 振り向くとトレーラーの正面だった。泥まみれだが、無骨なデザインにどことなく威厳を感じた。その上にウォルターが座っている。

 見張りをしているのだろうか、こちらの視線に気付くと小さく手を振った。

「助けてくれて、ありがとうございました」

 頭を下げると、ウォルターはこくりと頷き、再び周囲に目を向けた。

 まだ話したかったが、邪魔をしてはいけないと感じて食事に戻った。

 フェリシティはあっという間にスープを飲み干した。いくつかのパンも貰って食べた。空腹を感じないほど神経がまいっていたのだと思った。

「隊長さんは?」

「あっち」

 ピアが丘の上を指さした。

 フェリシティは体を起こした。頭がずきりと傷んだ。

「呼んでくるよ」

 不安げにピアがいったが、フェリシティは首を振って断った。

 足に喝を入れて立ち上がった。体は温もりと取り戻しているが、気温は低い。毛布をマントのように羽織った。

 丘を一歩一歩登っていく。頂上は展望台のように平べったい空間になっていた。ロンダートが胡座を組んでその先を眺めている。

「なにが見えるですか?」

 問うと、ロンダートは振り返ってこちらを見た。そして、大丈夫だと思ったのか、元の姿勢に戻っていった。

「まだなにも見えねえよ。夜明けまでもうちょっとだ」

 たしかに、空は白みはじめていた。フェリシティはロンダートの隣に腰掛けた。月が隠れているせいで丘の下は暗くてみえない。

 とても静かだった。まるで世界の果てにいるような、だれも知らない場所にいる気がした。

「逃げるなら……」 ロンダートが独り言のようにいった。「手を貸すぞ」

「……いいんですか?」

 それは、犯罪を意味する。奴隷はアクセサリーや宝石と同じ所有物で、財産とみなされる。フェリシティを連れて町を去るのは、窃盗罪が適用される。

「なに、二度とドリス市に来なきゃいいんだ。実際、それでもやっていける」

「でも、掟は?」

 そう言うとロンダートは苦い顔をした。サミールが教えてくれた以外の掟があり、それに触れるのだろうと思った。

「恩は返さなきゃいけない」

「それなら、もうしてもらっています。法制官に口添えして下さいました、ウォルターさんには二度も助けてもらいました」

 フェリシティは噛みしめるように言った。

「もう、十分返してもらいました」

 しゅっ、と音がして小さな明かりがロンダートの手元に灯った。煙草の煙吐き出し、聞いた。

「死ぬつもりか……?」

 答えなかった。その必要はないと思った。望む場所で、望むように死ねたらもうそれでいい。

 とても穏やかな気分だった。最後の最後に、良い人達に会えて良かったと思った。

 その時――

 地平線の彼方に、光の線が走った。

 空と大地をわけるように、真っ白な輝きがぐんぐんと横に伸びていく。

「夜明けだ……」

 ロンダートが呟いた。

 水に広がる波紋のように、光が大地を駆け抜けた。

 駆け抜けたそのあとに、朝が生まれた。

 丘から見えるのは 高く浮かぶ青い月と、それに寄り添うよう昇る太陽。

 眼下には、海があった。

 遥かな砂の海。

 生きているようにうねり、渦をまき、流れていく。

 左側には、砂浜があった。フェリシティの足元から続く岩の丘が、曲線を描いて地平線の彼方へ伸びている。

 水よりもゆっくりと、砂は岩に乗り上げていく。半ばで止まると、同じ速度で引いていった。岩に残った砂がばらばらと落ちた。

 傾斜の低い場所では、砂の線、波のあとがしっかりと残っている。中には、錆びた車の残骸もいくつかみえた。

 いつの間にか、フェリシティは立ち上がっていた。

 涙が顎を伝ってぽたぽたと落ちた。

「……どうして」

 どうして、そんなことを思ったのか。

「世界は……」

 こんなにも美しいのに。

 広がる世界には、法も、暴力も、理屈も悲しみもなにもない。

 手を伸ばせば触れ合うほど宇宙は近くて、遮るものは存在しない。

 なのに、どうして。

「……死にたくない」

 ――生きていたい。

 死ぬ必要なんてない。

 やっと見つけたと思った。それは、ずっとそこにあった。

 両手を顔を覆い、跪いた。肩が揺れた。

 笑い声が口から漏れた。涙が瞳から溢れた。

 どちらも、どうしてもとめることが出来なかった。

「コディ……」

 心配そうなロンダートの声が聞こえた。でも、嬉しくて堪らなかった。

 顔を上げて大声で笑った。泣きながら、口をあけて、子供のように。

 発作が止むと、フェリシティは立ち上がった。もう泣いていない。笑ってもいない。

「火を貸して貰えますか?」

 怪訝そうにロンダートがマッチを手渡した。フェリシティは右足のブーツを脱いだ。

 サミールが持ってきてくれた荷物には、無効になったため捨てられたのだろう、彼女に関わる契約書の一式が入っていた。

 ブーツの中から一枚の紙を取り出した。自身の雇用契約書。

 マッチを岩場でこすり、紙に火を着けた。

 あっさりと燃え上がると、指先を離れて風に舞った。

 ブーツを履き直し、フェリシティは告げた。

「私……、町に帰ります」

 ロンダートは不思議そうな顔をしていた。精神異常を疑っているのだとわかったが、気にしなかった。

「……いいのか?」

 問われ、フェリシティは大きく頷いた。

「決着をつけます」

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