act16 巡る因果
寒さに体を震わせるうち、夜が明けた。
フェリシティとサミールの二人はほとんど眠れず、井戸で顔を洗うと台所でマリサの食事の用意をした。調理された野菜、穀物、肉を食卓に並べていく。
それが終わると、フェリシティは台所の隅に置いてある木製の箱を開け、ため息をついた。そこは使用人が一日に食べる食料を置いてあるのだが、中には黒く変色したポテトが二つ転がっているだけだった。
サミールに起こされてマリサがリビングに現れた。二人はさっさと店の準備をしようとすると、マリサが呼び止めた。
「お前たちは私の視界から消えるんじゃないよ。なにをするかわかったもんじゃないからね」
思わず拳を握りしめた。だが、サミールがその手を押さえた。
「小娘、お前に仕事を与えるよ」
マリサは懐から布を取り出すと地面に投げた。
「これを着て店頭に立ちな」
それは、どうみても布切れにしか見えなかった。破れ、擦り切れ、酷く汚れている。
もう限界だと思った。我慢の限度を完全に越えていた。頭に血が登ってクラクラとした。
「……こんなもの、着れません」
「そうかい? だったらなにを着るんだい?」
「それは、どういう……」
「おまえの着ている服はだれのものだい!」 マリサは机を叩いた。「その服はわたしのものだよ。それを貸して上げていたんじゃないか。ええ? わたしはおまえたちの面倒を見てあげているのに、それが気に入らないというのだろう? 警察に訴えるぐらいにね。それならこっちだって余計な施しを与える理屈はないだろうよ。そうじゃないのかい?」
フェリシティはうつむき、歯を食いしばりながら答えた。
「ですが、私たちの生活を見る契約の義務があるはずです」
カチャン、とマリサがスプーンを置いた。
「ずいぶん偉そうな口を利くじゃないか。だからおまえたちに本なんぞ必要ないと言うんだよ。義務を果たしていないのはどっちだい。大した仕事も出来ないくせに屁理屈ばかり叩く。そういうお題目は立派に稼ぎを上げてから唱えるもんだ」
私たちは十分に勤めを果たしている。フェリシティの頭の中にいくつもの反論が浮かんだ。だが、同時にそれを言ったからどうなるものでもない、そういう諦観も感じていた。
これ以上事態を悪くしてはならない。しかし、これ以上悪い事態とはなんなのだろうか。
そう思った時、扉がノックされた。
マリサに目線で合図され、サミールが扉を開けた。そこには群青色の制服を着た警察が二人立っていた。
「オリベイラさんのお宅はこちらですか?」
警官の一人が尋ねると、マリサは椅子から立ち上がった。
「なんのようだい?」
その言葉を肯定と受け取ったのだろう、警官たちが部屋に入ってきた。続けて、濃紺の制服を着た男が現れた。フェリシティはその男を覚えている。名前はレイノルド・メサ。雇用契約時に立ち会いを務めた法制官だった。
「こ、これはこれは……」 マリサが驚きつつ頭を下げた。「法制官殿がこんな所になんの用で?」
「検分だ」
レイノルドはそれだけを短く言った。マリサは心当たりがないようで頭を傾げた。
「検分? 一体なにの?」
「雇用契約が正しく履行されているかの検分だ」
「えっ……」
マリサが絶句した。フェリシティも驚倒する思いでサミールと目を合わせた。彼も、全く事態が飲み込めていない様子だった。
「匿名の通報があった。オリベイラ家の使用人が劣悪な環境で働かされていると」
フェリシティの手がサミールに強く握られた。みると、少年の瞳が歓喜に満ちあふれた。
だが、フェリシティはまだ懐疑的だった。法制官にそんな職務があるとは考えられない。町で働く使用人を全員見て回るほど暇ではないはずだ。これは、本当に吉兆なのだろうか。
肩を怒らせてマリサが詰め寄った。
「そんなはずはないよ! 私はしっかり面倒を見ている。あんたらにとやかく言われる筋合いはないんだ!」
「なにを焦っている?」 レイノルドは微塵も揺らがず冷静に返した。「しっかり面倒を見ているのなら問題ないだろう。それと、筋合いで言えばお前の結んだ契約を認めているのは俺だ」
マリサはぐうの音も出ない様子だった。
レイノルドはフェリシティとサミールの前に立った。しげしげと二人を眺めて声をかけた。
「ずいぶん痩せているな? 食事はとっているか?」
「も、もちろんだよ!」 マリサが慌てて言った。
「なら、なぜ痩せている?」
再び黙るマリサ。そこからはもう、レイノルドの独壇場だった。
「彼女はなぜ男物の服を着ている?」
「使用人になにを着せようと勝手だろう」
「勝手ではない。彼女には着たい服を着る権利がある」
「そんな金はないよ」
「お前が買う必要はない。彼女が自分で買えばいい話だろう」
「だから、どこにそんな金があるんだい。文無しだよこいつらは」
「ということは、賃金を支払っていないのだな」
「賃金……? 馬鹿らしい。私はこいつらの生活を守ってあげているんだよ。それが賃金の代わりじゃないか」
「それは違う。賃金の支払い義務は市法にはっきりと明記されている」
「そんな馬鹿な話があるかね! わたしは聞いたことがないよ!」
「知る知らないはそちらの勝手だ。もっとも、経営者なら知っていて当然のことではあるが」
「そんなのは納得出来ないね。他の店も調べておくれよ。どこも賃金なんて支払っちゃいないんだ」
「仮にそうだとして、法がなくなるわけではない。私の前で市法に違反するつもりか?」
「そ、それは……」
「どうやら」 レイノルドは嘆息して腕を組んだ。「改善の必要は大いにありそうだな」
「ちょ、ちょっと待っておくれ……」
急にマリサは態度を変えた。愛想笑いを浮かべて媚びへつらうようにレイノルドに擦り寄った。
「勘弁しておくれよ……。そんなことをされたら商売が成り立たなくなっちまうんだ」
「それは我々の問題ではない」
冷たく言い放たれてもマリサはめげずに懇願を続けた。
「ねぇ、お願いだよ。うちだけこんな仕打ちを受けるのは不公平じゃないのかい」
「仕打ち? なにを勘違いしている。この検分は契約が正しく果たされているかを調べるものだと言っただろう。もし使用人の二人に問題があればそれも是正する。わざわざお前への嫌がらせのために来たわけではない」
「そんなこと言わずにさぁ。わかっているんだろう? 改善はこっちでするから、今日のところは引き取ってくれないかね」
「断る」
「しゃ、謝礼は十分にするよ。そっちの方々にも、悪いようにはしないよ」
「それはなんだ」 レイノルドの声に怒気が宿った。「賄賂の宣言か?」
「と、とんでもない!」 慌てていった。「ここまで足を運んでくださったお礼がしたいだけだよ。ね? いいだろう? こんなこと、法制官ともあろうものがわざわざする仕事じゃないんだ。あとで報告には行くからさ」
「黙れ」
さほど大きな声ではなかった。だが、万物屈服せしめるといった迫力のある一言にマリサが思わず肩をすくめた。レイノルドは続けて告げた。
「法制官の職務遂行に対して、お前の指図は受けない」
その一言で大勢は決した。
レイノルドは使用人の労働環境、生活水準を徹底的に洗いだした。フェリシティもサミールも、この期に及んでマリサを庇い立てする気は一切なく、すべてを正直に報告した。
不正は眩いばかりの光に照らされ、影は明確に炙りだされる。
変わることのない日常。止むことのない非情。明けることのない夕闇。
まるで永遠だと思っていた世界は、たった数時間で変革を遂げた。
殻から這い出た小鳥のように呆然と立ち尽くすフェリシティとサミールの前で、レイノルドは次のことを告げた。
「使用人の労働時間は八時から一八時まで。さらに、週に一日の休暇を取らせること。これは市庁が推奨している労働基準に沿う。労働時間外の炊事洗濯風呂焚きその他もろもろの家事については差し許すが、強制は禁じる。賃金についてはドリス市の平均日給から生活費を抜いて、一日二五ドルを最低額とする。もちろん生活費の中には食費も含む。飯を抜くなんて行為は、虐待であると同時に賃金未払いの意味を持つことを忘れるな」
魂が抜けたように力なくうなだれるマリサに、レイノルドは「こっちを見ろ」 と顔をあげさせた。
「これらの改善項目は強制ではない。多少違反したからといって犯罪にはならない。だが、指導を行なったのが法制官であることを頭に刻んでおけ」
マリサは表情に不服を充満させた。悔しくてしかたない様子だった。だが、再びうなだれるしかない。
法制官は契約に対し絶対的な権力を持つ。彼らが正当性を持って無効、と一言唱えれば、どんな契約も効力を失う。それは雇用契約だけでなく、土地の権利、店の営業許可にも及ぶ。
レイノルドは改めてフェリシティとサミールに向き直りいった。
「お前たちの部屋に案内してくれ」
「ちょっと待っておくれ」 堪らずマリサが止めた。「その部屋は、少し汚れていて……、掃除が必要なんだよ」
「そんな部屋に人間を住ませているのか」
マリサが立ちくらみのようにふらりと椅子に座った。レイノルドは無視してフェリシティたちを促した。
「お前たちはここに残れ」
指示を受けた警官二人はさっと敬礼を返した。昨日の警官とはまるで違う態度に、法制官の力が伺えた。
サミールがはりきってレイノルドを案内すると、まるで宝石でも見せるかのように部屋の扉をあけ、レイノルドが失笑を漏らした。
「豚小屋にしても酷いな」
部屋に入ると、レイノルドは布と紙切れを踏みしめて窓枠に腰掛けた。二人に視線でベッドに腰掛けるように促す。
「あと、扉を閉めてくれ」
フェリシティは言われたとおりに扉を閉めて、サミールとともにベッドの縁に腰掛けた。
「まず言って置きたいのは、これは特別だということだ」
二人は頷いた。フェリシティにしてもそれぐらいの常識はある。
「申し訳ないが、これを特権とは思わないでほしい。たった一度きりのサービスだ。今後なにがあっても俺に直接泣きつくようなことはするなよ」
再び二人は頷く。フェリシティが疑問を口にした。
「あの、匿名の通報とは一体だれなんですか?」
「それは言えん。匿名だからな」
少し肩を落としたフェリシティをみて、レイノルドは苦笑して続けた。
「だが、伝言を一言。”今度会ったら宴会をやろう”だそうだ」
予想はしていたが、感謝で胸が詰まった。望外の喜びをどう感謝すればいいのかわからず、堪らない思いになった。
「あいつとは古い縁があってな。迷惑極まりない縁だが、まぁ、仕方ない」
法制官と知り合いとは、一体どういう人物なのだろうと思う。はっきり言って全くタイプも職種も違う二人にどんな関係があるのか。だが、それはプライベートなことで、あえて聞くことは憚られた。
「それにしても」 フェリシティは別に浮かんだ疑問を投げかけた。「彼と会ったのは昨日です。その時は青果店で働いているとしか言っていません。なぜ、私の状況を知っていたんでしょう?」
レイノルドは苦笑して答えた。
「それだけやつれていて、気づかない方がどうかしている」
はっと息を呑んだフェリシティから、自然と笑いが漏れた。そんなこと、当たり前過ぎてすっかり忘れていた。レイノルドも親しげな笑みを浮かべた。
人は、安心すると笑うという。
「あの、……結局どういうこと?」
一人置いてけぼりにされたサミールが不満を漏らした。
レイノルドは立ち上がり、その頭に手を乗せていった。
「因果は巡るんだよ」
その週の土曜日。
サミールは朝からはしゃぎ通しだった。それも当たり前で、彼にとっては三年間の使用人生活で初めての休日だった。
「最初に服を買うだろ。靴も欲しいな、姉ちゃんみたいなかっこいい奴。飯は……、一度行ってみたい店があったんだ。前を通るたびにいい匂いがしてさ。何回も夢にみたんだよ」
フェリシティは笑って答えながらテーブルに食事を乗せていく。ポテトが一個ということはもうない。前から食べたかったヤギの乳で練ったパンのサンドイッチ。それに、香草と肉を煮詰めたスープ。
マリサの分も用意してあるが、部屋からいっこうに出てこない。
あれからずっとその調子で、顔を合わせても言葉は少なく、すぐに恨みがましい目をして去っていく。主人が出てこないため、店もほとんどフェリシティとサミールの二人で回すことになった。今日は二人の休日に設定されており、当然店は休みとなる。
こうなると、少しかわいそうだという思いあった。だが、こちらから譲歩するつもりは全くない。別にお互いの立場が逆転したわけではなく、ただ対等に近くなっただけなのだから。
マリサの食事に布をかぶせると、二人は食器を洗って片付け、家を出た。
なにかのイベントがあるわけではない。ただ、はじめて貰った給料を使おうと言うだけのものだった。
宣言通り、サミールは最初に服屋に飛び込んだ。色とりどりの布や革に目を回しながら、何度も何度も試着して最後には店員に少し怒られた。
買ったのは、ごく普通のジーンズに革のベストと、ツバの深い帽子。まるでロンダートさながらだった。フェリシティもいくつか選んだが、そもそも目立つ格好を避けているため、いつもの服装を女性向けにした程度の地味なものだった。
サミールは靴屋でもカウボーイが履くようなブーツを買った。
昼になり、軽食屋台の前で串に刺さった肉を食べながらフェリシティは聞いた。
「トレーダーって、そんなに凄いの?」
「凄いに決まってるだろ。世界中を走り回ってるんだぜ」
「でも、マリサは嫌いみたいだった」
「あいつにわかるもんか」
サミールは吐き捨てるようにいうと、腕を組んで考え始めた。フェリシティの串から肉が消えた頃、少年は瞳を輝かせて語りだした。
「トレーダーはさ、自分の力だけで荒野を生き抜くんだ。町の外ではだれも守ってくれない。それどころか、一片のパンを巡って殺し合いなんかもある世界なんだ」
フェリシティは神妙にして聞いた。助けがない。それは、かつての自分自身だと思えた。
「頼れるのは銃と、掟だけ」
「掟?」
それは、ロンダートがよく口にする言葉だった。
「トレーダーの掟は絶対なんだ。なんでかっていうと、流れ者ものっていうのは町じゃ信用されないんだ。信用されなかったらガソリンも弾も飯も買えないだろ? だから、掟を作った。トレーダーは掟に絶対背かない。それを知っているから、みんなトレーダーを信用する」
なるほど、と思った。だが、それは口で言うほど簡単なことではないだろうとも思う。決まりと言うのは、基本的に破られるためにあるのだから。
「どんな掟があるの?」
聞くと、サミールは手を広げて親指を曲げた。
「ええと、まず、商売で嘘はつかない。値段をごまかしたり、だましたりはしない」
続いて人差し指。
「丸腰の相手は撃たない。たとえ相手が親の仇でも、撃ってはいけない」
中指。
「トレーダー同士の喧嘩に銃は使わない。ナイフも禁止。素手だけでやること」
薬指。
「馬鹿にされないこと。受けた恥は、どんな手段を使っても相手に返さなきゃいけない」
だとすると、車屋は逆に命拾いしたのかも知れないと思った。
最後にサミールは小指を曲げていった。
「物乞いは助けない」
その言葉を聞いた瞬間、フェリシティの胸にすとんとなにかが落ちた。ずっと完成しなかったパズルに、最後のピースがはまった。
「物乞いを助けてもキリがないからね。死ぬまで世話をするわけにはいかないから」
サミールの説明はほとんど耳に入っていなかった。
思わずフェリシティは笑っていた。
「姉ちゃん?」
不思議そうに聞かれるが、構わず笑い続けた。彼女の胸に落ちたものは、納得だった。
「そうだったんだ……」
なぜか一筋の涙が頬を伝った。
「私は物乞いだったんだ……」
だからロンダートは助けなかった。ただ懇願するばかりで自分からはなにもしない、それどころか出された食事すら拒否する人間を、物乞いと言わずになんというのだろうか。
ようやくわかった。それがとても嬉しかった。
「なんだよー、説明してくれよ」
不貞腐れるサミールにフェリシティは微笑むだけだった。
「よう、お二人さん」
突然後ろから声がかかった。振り返ると、セッターが立っていた。
格好は前と変わらないが、髭が伸びてなんとなくやつれて見える。目にも生気がない。
「聞いたぜ。ババアをやり込めたんだってな。大したもんじゃないか」
フェリシティはすぐに頭を警戒に切り替えた。この男は危険だと本能が告げている。
「なぁ、一体どんな手段を使ったんだ? 教えてくれよ」
ニヤニヤと笑みを浮かべる姿をとても不快に感じた。
「あなたには関係ありません」
セッターは苦笑いを浮かべた。
「そう邪険にするなよ。オレとあんたたちは敵じゃないんだぜ。むしろババアと戦う味方同士じゃねぇか」
「権利書を手に入れたらあなたがご主人様なのでしょう? では、味方はと言えません」
「言うじゃねぇか」 一瞬苛立ちを見せたが、すぐ、にやけ面に戻った。
「なぁ、いまのマリサからなら簡単に盗める。そうなったら契約は無効だぜ。多少良くなったからって、三〇年も続けたくはないだろう?」
「それは、こちらでなんとかします」
「そういうなって。よく考えてくれよ。なんだったらいくらか現金も都合してやるからさ」
その態度に、フェリシティは焦燥を感じ取っていた。前のような余裕が感じられない。身なりも合わせて、相当金に困っているのだと思った。
それならば、ますます協力など出来ない
「お断りします」
「ああそうかい!」
セッターは苛立ち投げやりにいった。。
「だがな、一言いっとくぜ。あのババアはしつこいぞ。このぐらいで引き下がるはずがねぇ」
「それは承知しています」
「いいや、わかってないな」 セッターはフェリシティに顔を近づけて、耳元で囁いた。「油断してると殺されちまうぜ?」
耳に息がかかり、思わず手を振り払った。セッターの頬に当たったが、別段気にした様子はなく、踵を返した。
「じゃあな。次に会う時は、オレに泣きついても知らねえぜ」
そんなことがあるはずがない。そう思うが、彼の言葉は一度当たっている。
サミールもまた不安げな表情を浮かべていた。
まるで悪夢のような男。突然現れ、災厄を告げて去っていく。
「大丈夫だよね?」
そう問いかけられても、フェリシティは答えることが出来なかった。
――だけど。
前とは違うことが一つある。
もう自分は無力じゃない。なにも出来ない小娘じゃない。例えマリサがなにを言おうと、戦う知識がある。
そう言い聞かせて、フェリシティは拳を握りしめた。




