act14 遥かな月
もう太陽は登りきり、昼を少し過ぎている。だが、フェリシティの引く台車には野菜が残っている。
ガラガラと車輪を鳴らしながら細い路地を進む。今日はまた、特別暑い日らしくローブの中は蒸発した汗が篭って不快極まりなかった。
思考はとっくに停止している。なにも考えずひたすら台車を引き続ける。
マリサはセッターと喧嘩したあの日から様子がおかしくなっていた。終始いらいらと落ち着きがなく、些細なことで怒鳴り散らす。フェリシティとサミールへの仕打ちも目に見えて悪化し、今日もまた配達範囲を広げられた。
――ずいぶん痩せただろうな。フェリシティは人事のように思った。実際、星に降りる前から比べたら全身の肉はごっそりと削がれている。もし、本国に戻って担当医に見せたら卒倒するだろう。
空腹にはずいぶんと慣れた。最近は少し食べただけで満腹を感じている。胃が縮んでいるのだろうかと思う。
セッターの言うとおりだった。
あの女に少しでも同情した自分に腹が立った。強欲で、意固地で、血も涙もない。
今となってはセッターの提案を魅力的に感じていた。
――もし権利書が盗み出せたら?
少し考えて、力なく首を横に降った。その思考が罠の入り口かも知れない。この世界にそんなに甘い話がないことは、いい加減に覚えなければならない。
結局、すべての家を訪問し終えた時には日が傾き始めていた。店の裏に台車を置いて、裏口から店内に入った。マリサがカウンターに伏せてうつらうつらとしていた。無防備な頭が目の前にある。
側に置かれた売上を入れる金庫を持ち上げ、渾身の力で振り下ろしたら。
少なくともこの生活は終わるだろう。
すべてが終わるかもしれない。
フードの中で、頬に汗が一筋流れて――
「オババ。配達が終わりました」
その一言でマリサは目を覚ました。一瞬呆けたような表情して、すぐににやりと笑った。
「……ずいぶん遅かったね。昼飯はないよ。当たり前だろう? お前は時間を無駄にしたんだからね」
フェリシティは黙って財布を差し出した。マリサは受け取るとカウンターの上に金をまいて丁寧に数える。不足はなかった。
「ふんっ」 それでも不機嫌そうにいった。「こんなのは当たり前なんだよ。調子に乗らないことだね。さぁ、次は水汲みだよ。汚れていたから釜も湯船も空っぽにしてある。嬉しいかい? 夕方までに満杯にしておきな」
返事もせずフェリシティは店を出た。左右を塀に挟まれた狭い道を歩いて一分。小さな家の並びに一軒だけ大きな建物が見える。嫌味な家だと思った。少し先には空き地があり、初日に眠ったぼろぼろの小屋がみえる。土地が空いた時に買ったが使い道がないために放置しているのだと言う。
家に戻ると、リビングから廊下を通って中庭に出る。いつものようにローブを脱ぐと下着になり水を浴びた。口にも運ぶが、真水は水分補給には適していないと聞いたことがある。あまり体は楽にならなかった。
着ていたローブと服を桶のなかでじゃぶじゃぶと洗うと物干し竿にかけて、下着姿のまま自分の部屋に着替えを取りに行く。家のどこかにサミールが居るはずだが、その程度の羞恥心はとっくになくなっている。
着替えを済まし、中庭に戻るとサミールが井戸の側の木陰で座っていた。なにか嬉しそうにニヤニヤとしている。
「どうしたの?」
「これ、食べよう」
サミールが自分の後ろに隠していたらしい紙袋を出した。近づいて中を覗くと、野菜と肉を挟んだパンが強烈な匂いを発していた。思わずよだれが零れそうなほどに美味しそうだった。
「……こ、これ、どうしたの?」
「買ったんだ」
「お金は? 高かったんじゃないの?」
くすくすとサミールはイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「今朝、練炭を市場に買いに行かされたんだ。火曜日だからさ」
曜日市の火曜日は、北東の山側にあるパラモレと言う町から石炭が届く。他の町から石油関連も届くが、マリサは石炭しか買わない。
「それで、いつもの量を買おうとしたら値が下がってたんだよ。なんだっけ? もっと北の方が暖かくなり過ぎてるとかで。だから、結構お金が余ったんだ」
「だ、大丈夫なの……? ばれないかな?」
「練炭買いに行くのはいつもオレだから、オババは値段なんか知らないよ。それよりさ、早く食べよう」
浮かれるサミールを見て一抹の不安は拭えなかったが、袋の中から現れ差し出された巨大なサンドイッチを見ると、そんなものは吹き飛んだ。
ただ、一口一口を噛みしめるように食べた。パンも、肉も、野菜も、タレもなにもかもが口の中で大地の恵みを謳歌した。
最後の一切れを食べ終わっても、しばらく飲み込むことが出来なかった。
水を飲んで一息つくと、フェリシティはお礼を言おうと思った。だが、うまく言葉にする事ができなかった。そんな様子を感じ取ったのか、サミールは笑って立ち上がった。
「仕事に戻ろうぜ。オババに見られたら二人共半殺しじゃ済まない」
「うん」
頷き、フェリシティも立ち上がる。そして、中庭をあとにする少年の背中をみて、力が湧くのを感じた。
――恩はかならず返すからね。
ひさしぶりに感じた人間らしい感情だった。
最後の水を台所の釜に注ぎ終わる頃には夜になっていた。井戸の側に桶を戻すと、廊下の奥でサミールの声がする。
「オババー! 湧いたよー!」
いつもより少し遅くなったためか、風呂場から中庭を挟んで反対に部屋があるマリサは気付いていない様子だった。サミールのためだと思い、仕方なくフェリシティが呼びに行くことにした。
廊下に出ると、マリサの部屋が少し開いていた。
「オババ。風呂が沸きました」
そういって扉を開けると、化粧台の前に居たマリサが驚いてこちらをみた。そして一瞬で鬼の形相に変った。
「勝手に扉を開けるんじゃないよ! お前はどんな教育を受けたんだ!」
うんざりした。罵らなければ話せないのかと思う。フェリシティは謝罪を口にしながら扉を閉めた。
「すぐに行くとお言い! まったくはしたない女だね! 品性もなにもありゃしないよ!」
「申し訳ありませんでした」
それだけを言い残し、中庭に戻った。後ろから呪詛のように罵詈雑言が聞こえてくる。
慣れたとはいえ、気分は良いはずもない。毎日マリサの声を聞くたびに心に黒いシミが生まれているような感覚を覚える。生まれてこれまで人を呪ったことなどなかったが、最近は常に憎しみを胸にかかえている。
こんな生活が続けば、いつか精神が病むだろうと思う。現に今も、精神が圧迫感を感じて呼吸が苦しくなることがある。
だが、今のフェリシティには希望があった。
マリサが就寝した夜深く、部屋に差し込む月明かりが照らす文字列。闇に浮かび上がる知識の湖畔。
夜になって法律書を読むのは日課になっていた。ハイシノンの月は大きく、晴れた日は半月でも文字が読めるほど明るい。
サミールも最初は興味津々で覗きこんでいたがすぐにやめてしまった。そもそも、ほとんど文字の読み書きが出来ないのだという。
書には”判例法律全書”とタイトルがついていた。法律の専門家が持つようなものではなく、一般市民に関係のある条文だけが判例とともに載っている。それでもこの国のことを知るには十分な情報量だった。
この星には四つの国があり、フェリシティが今いる国をヘイブンと言う。
ヘイブンの法律は大まかに分けて”国法”と”市法”の二つ。
国法は首都オーバーキャスト市にある政府が定めているもので、ヘイブン国民の人権、つまり生存の権利、労働の権利、参政の権利、国務請求の権利などが条文化されている。概念としてはほとんど憲法に近い。
市法は、ヘイブンの中にある二一の市がそれぞれ制定しているもので、国法を細分具体化しており刑法や民法に近い。
全約七〇〇ページをひと通り読んでみたフェリシティの感想は一つ。
稚拙だった。
地球時代からの流れをくむ星系連合条約や、連合に参加する国々の法律とは比べるべくもないが、それにしても穴だらけだった。
まず、国法が基本的人権を保障していない点。確かに人権については書かれている。だが、どう守るかがほとんど書かれていない。そのくせ、”市法は国法に沿わなければならない”と言う部分はやたらと詳しく明記されている。
フェリシティは理由を簡単に予測出来た。恐らく、各地で定められた市法を政府が都合よく運用するためだ。なぜなら、市法が国法に沿っているかどうかを判断するのは政府、つまり法制局なのだから。
そして、市法は市法でめちゃくちゃだった。フェリシティの持つ本にはドリス市法しか書かれていないが、頭を抱える法律ばかり出てくる。理由は明確に一つ。市法の制定は、たった十数人の議員で決められるからだ。議員に弱者の味方が多数入ればまだましかも知れないが、そんなことは有り得る話ではなく、支配者層の代表が市法を左右している。つまり、国法にさえ沿っていれば、いや、沿っているようにさえ見えれば議員たちの専横がまかり通る。
その最たる例が市法の持つ刑罰権の一つ、人権剥奪刑だった。犯罪者の人権を剥奪し、被害者の所有物と見なす刑罰。なぜこんなものが存在しているのか。読んでいるのが歴史書ではないために想像するしか無いが、フェリシティは判例などから仮説を組み立てた。
この悪法が定められたのは星歴二年。星系連合体、当時のアクエリアス条約機構から独立させられて二年後に作られたことになる。当時この星は、突然他の星から切り離されて未曾有の混乱にあったはずだ。
物資もなく、食料もなく、人々をまとめる法もない。そんな世界に国を作った人々が真っ先に欲したのは労働力だと考えられる。
早急に移民船の外に飛び出して開墾を行う労働者の確保、それが人権剥奪刑。そのなごりが、法の不整備をくぐり抜けて現在も生きていると考えれば説明がつく。
とはいえ、この市法はどう考えても国法の生存の権利を犯している。なぜ法制局は改善しないのか、出来ないのか、そもそもする気がないのか、理由はわからないが、この裏には星の巨大な暗部が見え隠れしている。
しかし、支配者にも弱者にも平等な法律もある。それが国法で定める契約法の存在だった。
この星で契約書の存在は絶対らしく、過去にドリス市長が”契約破り”、つまり”民間基本契約法違反”を犯し逮捕及び罰金刑に処された記録がある。三〇万の賃借契約を意図的に破った件で、簡単に言えば借りた金を返さなかったのだが、この罰金額がまた奮っている。実に一〇五万ドル。借りた額の三倍以上だった。
この”三倍返し”は市法で明確に定められており、賃借以外の様々な契約に対応している。
例えば、フェリシティが結んでいるのは三〇年の雇用契約なので、契約の価値は三〇年間の労働で得られる利益から計算される。計算法までは細かく書かれていないが、雇用契約時に法制官が契約の破棄は一五万ドルと言っていたのはそこから来ていると思われる。この場合、市外逃亡などの正規の手続きを踏まない契約の破棄は犯罪を構成し、罰金は四五万ドル以上になる。
では、一度契約を結べば二度と逃れられないかと言えば、そうとも言えない。
フェリシティは、前にサミールが「契約は契約書を持っている人間のもの」 と言ったのを思い出した。その発言は概ね正しい。
法制官が一年に認める契約書の量は膨大で、その管理責任は基本的に契約者自身が負う。例えば、一〇〇万ドルの賃借契約書でも契約者が書を紛失すれば全くの無効となる。この決まりによって不当な契約を結ばされた人間が契約書を盗み出して燃やすと言った事例は数多い。
ただし、土地の権利書や営業許可書といった市と個人の契約だとそれが出来ない。控えを市が保管するから、例え契約書を破棄したとしても権利自体は消失しない。
しかし、ここにも抜け道が存在する。
市が保証するのが契約者ではなく契約書だと言う点。つまり、なんらかの手段で他人の権利書を持って庁舎で手続きを取れば、権利者はその人間に移る。セッターが狙っているのはこれだった。
本をパタンと閉じて、フェリシティは考えた。
ここまでの知識だけで考えれば、セッターの案は有効な手段に思える。だが、それすらもなにかの罠に思えてならない。法律というのは所詮決まり事であり、一つの条文には一〇〇の抜け道があるのだから。
まだまだ知識が足りていない。また、蓄えた知識をどう活用していいかもわからない。
本を読むことで確かに前に進んでいる気はするが、結果はなにも出ていない。マリサの態度は日増しに悪くなっている。
ふいに眠気が来た。思えば、今日も朝から働き詰めだったのだ。
窓の外には巨大な半月が浮かんでいる。
目の前にあるのに、とても遠い存在。かつての自分なら行こうと思えばいつでも行けた場所。
ルークはあれからどうしているだろうか。自分を探しているだろうか。同じ月を見ているだろうか。
様々な考えが混ざり合い形を失い、フェリシティの意識は眠りについた。




