act12 彼女の資質
早朝、町の南端。初日にフェリシティの通った門が大きくハの字に開かれている。
曜日市と呼ばれる週に三度の卸市。日曜日の今日は野菜、果物、肉、まれに魚などが町の外から集まり、小売業者と取引を行う。
駐車場には売り手のトラックが並び、買い手が来るのを待つ。ほとんどが迷うことなくお決まりの位置に止まり、同じ人間が買うという。組合があるわけではないが暗黙の了解で決まっているらしい。
「おお、マリサ! 待っていたぞ!」
古ぼけたトラックの傍らで髭の立派な老人が両手を広げて待っていた。
「ミッチェル! 久しぶりだねぇ、元気だったかい」
マリサが嬉しそうに言いながら腕の中に収まった。しばし抱き合うと、老人ミッチェルはトラックのシートをはぐった。木箱の中に様々な野菜が収まっている。
「どうだ! どれも新鮮だろう!」
「みごとだねぇ……」 マリサが感嘆の声を上げた。「待たされた甲斐があったよ。さすが働き者だよあんたは」
「ここらじゃこれ以上の野菜は育たんよ。本当は自分で食べたいぐらいだが、あんただから売るのさ」
ミッチェルは車に向かって叫んだ。
「カート! 荷を降ろせ!」
トラックの反対側からひどく痩せた青年が出てきた。頬はこけ、窪んだ瞳は淀んで見える。土の染みだらけの服から伸びる細い腕で木箱を下ろしていく。フェリシティとサミールで木箱をさらに重量計へ運んだ。その間もマリサはミッチェルと楽しげに談笑していた。
青年が腕で汗を拭った時、擦り切れた服の裾から腹が覗いた。横腹いっぱいに奇妙な火傷の痕があった。彼もまた不当な契約で働かされているのだと思うと、いかなる理由で怪我を負ったのか、良い想像は浮かばなかった。
ミッチェルのように大量供給が出来る人間は市場で重宝された。他所へ移られたら困るのだから下にも置かない待遇となる。売値も色をつけて支払われた。青年を引き連れてミッチェルが満足気な表情で去って行くとマリサは地面につばを吐いた。
「また値が上がったよ。あそことの取引もそろそろ改めないといけないね」
何度か取引を行ううちに駐車場から車が減っていき、フェリシティとサミールで買い取った野菜を所定の位置へ移動させる。まるまると育ったトマトを見て、フェリシティは腹に痛みを覚えた。思えば昨日一日まともに食事をしておらず、空腹は苦痛へと変わっている。サミールも同じ状況だろうと思った。
門から駐車場を挟んでテントが立ち並ぶ。買い手がその中に集まり、今度は徒歩の客を待つことになる。
日が上がり朝の冷え込みがにわかに薄れたころ、門をくぐる人々が現れた。その姿は実に印象的だった。だれもが痩せていて太った人間は一人も居ない。薄汚れた服装で、口を開くこともなく黙々と歩いて来る。町の派遣する護衛が銃を持って脇を固めている。
捕虜の護送。死者の葬列。亡者の行進。そんな言葉を思わせる光景だった。
彼らの売る相手もまた、慣習と店側の談合であらかじめ決まっている。やがてそれぞれのテントで繰り広げ始めた交渉は、どこでも似たようなものだった。
「形が悪すぎる。こんなものを基準価格で売るつもりか?」
「害獣に襲われたことなど私は知らん。これっぽっち運ぶだけ時間の無駄だ」
「この野菜は最近人気が落ちている。前と同じは無理だ」
市場は一見開放的に見える。だが、自由市場経済とは口が裂けても言えない。買い手の権力が絶対だからだ。
椅子に腰掛け青い果物をかじるマリサの前に、一組の母娘が籠いっぱいのタピオカを運んできた。二人とも肌は日に焼け、履き潰れた靴からは指が覗いている。
マリサが顎をしゃくると、重量計のついた鉄製の椀に黒い粒をザラザラと移していく。
「ふうん……」 目盛りをみてマリサが唸った。「三〇ドルだね」
母親が絶句した。経験の浅いフェリシティでもわかる。安すぎる。当然抗議の声があがった。
「な、なぜですか? 前は同じ重量で四〇ドルだったはずです」
「色が薄いね。前と同じじゃない」
「そんな……。いくらなんでも安すぎます」
「なら他へいっとくれ。うちはこの値段じゃないと買わないよ」
取り付く島もない様子だった。母親は粘り強く交渉したが、マリサは頑として応じない。やがて母娘は鎮痛な面持ちでタピオカを籠に戻しだした。マリサが立ち上がり、フェリシティの袖をひっぱり少し離れた場所でささやいた。
「他に買うなと言ってきな」
これが、自由市場を殺す原因の一つだった。青果店は青果店同士、肉屋は肉屋同士横で繋がっている。
「……でも、なぜあんなに安くするんですか」
「お前はそんなこと考えなくていいんだよ!」
思わず大きな声を出してしまったためか、マリサは周囲を見回した。母娘は籠に移し終わろうとしている。
「いいかい。あの女の旦那は前に死にそうな顔をしていて、今日は来ていない。きっと病気なんだ。だとしたら、次からは栽培出来ないだろうよ。だから今、安く買い上げるんだ」
つまり、あの家族は終わりだと言っている。夫が病気ならばますますお金が必要だろうに、止めを刺すようなものだ。
「早くおいき。一日飯抜きにするよ」
その言葉はフェリシティに重くのしかかった。すでに空腹は限界に来ていた。だが、マリサはすると言ったらするだろう。丁寧に監視まで行うかも知れない。
「なにをぐずぐずしてるんだい。配達の範囲を広げたいかい。土の上で眠りたいかい。お前はなにも考えずに言うことを聞けばいいんだ」
迷いはあった。母娘を哀れに思わないわけではない。だが、フェリシティはいまの自分にそんな余裕がないことを自覚していた。母娘はタピオカが売れなくても、すぐに倒れるわけではない。
フェリシティは駆け足で市場を回った。
他の店主たちはいつものことだとばかりに、すぐに承知した。
マリサの元に戻る時、母娘とすれ違った。娘と目があった。サミールとそう変わらないが、栄養が足りていないのか唇はひび割れ顔色に生気はない。だだ、瞳だけが何も知らない権利のようにキラキラと光っていた。
ドリス市には大きな格差が存在する。フェリシティの想像でしか無いが町の外は相当過酷な状態で、それを助けるものはいない。この世界で弱いものは当然のように搾取される。
虐げられるものたち。逃げることは許されないのだろう。もし逃げれば――
「また居るよ」
フェリシティの引く台車の上でマリサは唾棄するようにいった。
大通りの一角に掲示板がある。町民が探しものや待ち合いなどに使ったりする木の板の下に、老人が座っている。骨の浮き出た体をよれよれのシャツに収めて、顔の半分を覆う白髪の髭は汚らしく黄ばんでいる。頭には灰色のボロ布が巻かれており、わずかに覗く瞳は白く濁りどこを見ているのかわからない。前には小さな木箱が置かれており、いかにもな物乞いだった。
前まで来ると、マリサがわざと老人に聞こえるように愚痴をこぼした。
「不衛生だよまったく。警察はいつまで放おっておくつもりだい」
警察は老人に手が出せないらしかった。理由は、”ただ座っているだけだから”らしい。木箱にはなにも書かれていないし、だれかに声をかけるわけでもなく、ゴミを漁るわけでもない。そして、夜になると煙のようにどこかに消えてしまう。狭いといっても複雑な町のため、隠れる場所はいくらでもあるのだろう。
――もし自分がマリサから逃げたら。
辿る道は荒野で犬に食われるか、老人のようになるかのどちらかだとフェリシティは思った。
それだけは――
台車を引く手に力を込めて、フェリシティは一歩一歩進み続けた。その後ろをサミールの引くもう一台の台車が続いていった。
店に戻ると、フェリシティとサミールは崩れ落ちた。台車は明らかに積載量を越えており、二人の体力は限界を超えていた。
マリサにどやされて、よろよろと商品を店先に並べていく。余った分は店の奥にある倉庫へ運んだ。特別に厚い土壁は外気を遮断し、さらに野菜を入れた箱の上に土や籾殻などを乗せる。フェリシティにも理屈はわからなかったが、こうすることで長く新鮮さを保つ。
フラフラになりながら倉庫を出ると、ブロマンジュが来ているらしくマリサに裏口から家に戻るよう指示された。
渡りに船だと思った。これ以上働かされたら倒れるに違いないからだ。
家の掃除も命じられていたが、マリサの目がないのに真面目に従うつもりはなかった。半裸になると井戸で水を浴びて、喉を十分に潤すと一息ついた。
やがてサミールが朝食の分の野菜と穀物の粉を持って現れた。
野菜は簡単に炒めて、穀物の粉は練って鉄板で焼いた。二人は夢中で食べると、物足りなさを主張する腹を押さえた。サミールが店に戻り、フェリシティは家の掃除をはじめた。
テーブルに窓枠に床、毎日磨いているために特に汚れてはいない。だが、マリサの機嫌次第では砂粒一つが逆鱗に触れるため手は抜けなかった。
リビング、といえるほど立派な空間ではないが大きな食卓の置かれた部屋で床を磨いていると、足音が聞こえた。
部屋はそのまま外に繋がっており、開け放たれた扉の前に男が立っていた。
三〇前後。擦り切れたジーンズに革のベストを来ており、腰のベルトには拳銃の収まったホルスターが見えた。一瞬ウォルターを想像したが、見ると全く違う。背は低く、出っ歯でねずみにそっくりだと思った。
「誰だあんたは」
人の家の入ってきてだれだはないと思った。
「新しく雇われたフェリシティといいます」
瞬間、男が弾けるように笑った。体を仰け反らせて笑い続ける。とても不快な笑い方だった。
「勘弁してくれよ。まさかあのババアに騙される奴が現れるとはな。今年で一番の爆笑もんだ」
涙を拭う姿をみて、フェリシティは恥ずかしさより怒りが勝った。
「どちらさまですか?」
そういうと男は真顔に戻り歩み寄った。フェリシティと背が等しいため、真正面にねずみ顔が迫る。
「おれはセッター。あんたのご主人様の息子だよ」
確かにマリサは息子が居ると言った。だが、姿をみることはなく不思議に思っていた。親と同じく皮肉げな表情でフェリシティの顔を無遠慮にながめた。
「この辺の人間じゃねぇな。どこから来た?」
フェリシティはいつものように答えた。
「記憶喪失で覚えていません」
「嘘だな」
セッターはあっさりと否定した。
「人をだます時は命をかけろ。バレたら死ぬか殺すかだ」
どこかで聞いたセリフだった。たしか、ロンダートが言っていた。この地域特有に言い回しなのかも知れない。
「まぁ、それはどうでもいい。それよりここの暮らしはどうだ? 気に入ったか」
「気に入るわけ、ないじゃないですか」
からかっているのかと思い、強い口調になった。だが、セッターは不思議そうな顔をしていった。
「そうか? 随分馴染んでるじゃねぇか」
「なっ……」
思わず言葉を失った。自分の変化を自覚しつつあったからだ。だが、認める気持ちにはなれない。
「馴染むわけ、……そんなわけありません。絶対、抜け出します」
セッターは鼻を鳴らしていった。
「どうやって? ババアを殺すか? 老いぼれだからな、簡単に死んじまうだろうなぁ。でもあんたにゃ無理だ。かわいそうによ」
不愉快極まりなかった。なぜ出会ったばかりの人間にそんなことを言われなれけばいけないのか。なにより、人を軽蔑しきったセッターの表情は見るのも嫌だった。フェリシティは黙って睨みつけた。
「そんな顔で凄んだってちっとも怖くないぜ。どうせなにも出来ないだろ? そうだよなぁ?」
「あなたが……、わたしのなにを知っているんですか!」
思わず声が大きくなった。
セッターは微笑すると部屋に入って来て、いきなりフェリシティの顎を片手で掴んだ。頬を圧迫されて痛みが走る。
「ここに書いてあんだよぉ」 セッターはせせら笑いながらいった。「かわいいお顔にはっきりと出てるぜ。お前の本性が」
セッターの手を振り払い、後ろに下がった。
「本性……? なんのことですか」
「お前、安心してんだろ」
フェリシティは思わず体がびくりと震えた。
「図星だろう? そうさ、お前の顔にはちっとも悲壮感がない。苦しみがない。屈辱がない。今の暮らしがそんなに嫌じゃねえんだ」
「嫌です! 嫌に決まってます!」
必死に否定するがセッターは認めない。
「やめろやめろ。普通な、騙されてババアにこき使われたら、もっと暗い目になるんだ。世の中すべてを恨む、そんな目だ。だが、お前は間抜けそうにぼんやりとしてやがる。納得してんだよぉ、あんたの頭は。これがお似合いだってな」
「違う!」
「違わないね。あんたの前の奴もそうだった。その前も。おんなじような奴ばっかだったぜ」
「まえ……? 前にも……、居たんですか?」
それは聞いたことがなかった。ずっとサミールと二人だと思っていた。
「居るに決まってるだろ」 セッターは呆れたようにいう。「兵士が守る壁の中で、屋根の下で、飯もベッドもあるんだぜ。ババアにこき使われたからってなんだってんだ?」
フェリシティの脳裏に今朝の市場の光景が目に浮かんだ。そして、セッターの言葉を否定することが出来なかった。
まだ、自分はマシなのかも知れない。
恵まれているのかも知れない。
だが、そう思う度に自己嫌悪が荒れ狂う。頭を抱えてしゃがみ込みたいほどに胸の苦しみを覚えた。
「だがな」 セッターは続けていった。「そんな奴らは体が弱っちくてな。すぐに死んじまうのさ。契約書だって安くねーんだからもったいないよなぁ?」
「あなたは……、なにが言いたいんですか?」
ようやく、それだけが返せた。これ以上自分を抑える自信がなかった。
「べつに。ただ挨拶がわりにからかっただけだ。もう退散するさ」
フェリシティの様子を察したのか、セッターはあっさりと踵を返した。
「ババアはあと一〇年も生きない。そうなったら、お前のご主人様はオレになるわけだ。楽しみだなぁ?」
肩を揺らして笑いながらセッターは去っていった。
フェリシティはしばし呆然と立ち尽くし、よろめきながら椅子に座った。
まるで、悪夢のような男だった。突然現れ、災厄を残して去っていく。
気分の悪さに吐き気を催した。
立ち上がり桶から雑巾を取り出し、思考を停止させるようにやけになって部屋を磨いた。体を動かしている間は楽だった。
いつの間にか夕闇が迫り、マリサが帰ってきた。
家に入るなり、突然テーブルの花瓶を外へ投げ捨てた。そして、手負いの獣のようにうろうろと歩きまわると、窓枠をベタベタと触りだした。
そしてなにかを言いたげに口を動かすが、結局「風呂」 とだけ言って自分の部屋に戻った。
サミールがフェリシティに耳打ちした。
「セッターが来ただろ? あいつが来るとオババは荒れるんだ」
そしてため息をつくと、湯を沸かすために外へ出て行った。
結局、マリサは風呂を上がるとフェリシティの用意した飯を文句を言いながら食べ、さっさと自室に戻っていった。
フェリシティに嫌がらせをする気も回らないほど腹に据えかねることがあったらしい。自分の部屋へ帰ると、ベッドに寝転んで上の段のサミールに事情を尋ねた。
「セッターは三年前、おれが来てすぐに家を飛び出したんだ。店の金を盗んでね」
「仲が悪かったの?」
「うん、しょっちゅう喧嘩してた。オババは店を継がせようとしてたんだけど、セッターはトレーダーになりたかったんだ」
「トレーダー? どうして?」
「どうしてって……」 サミールは少し言葉に詰まり、「そりゃ、かっこいいからに決まってんじゃん」
その声には少年らしい弾みがあった。
「そんなにいいの? トレーダーって」
「あのなぁ……」 深々と溜息。「姉ちゃんトレーダーと会ったことあんだろ? 害獣や賊だらけの荒野を走り回る荒野の男たち。かっこいいに決まってんじゃん」
「女の人も居たけど」
「じゃあ荒野の男女たち!」
「ごめんごめん」 フェリシティは笑って謝った。「サミールくんも憧れてるんだ?」
「うん。ここを辞められたら、いつかなりたいと思ってる」
少し遠い響きだった。気落ちしそうになり、フェリシティは話しを戻した。
「それで、セッターはなにをしに戻ったの?」
「金だよ。あいつがここに来る理由はそれだけ。仕事が上手く行かなくなるとオババにせびるんだ」
「それでマリサが荒れるんだ」
「それだけじゃないよ」
サミールがベッドの縁から顔を出した。少し声を抑えていう。
「あいつの狙いは店の権利書だよ。あの店、相当高く売れるんだって」
「……でも、そんなのマリサが承知するはずないと思うんだけど」
「オババの許しなんか関係ないよ。権利書は持ってるやつのもんさ」
息が止まりそうになるほど驚いた。
「……それ、ほんと?」
フェリシティの考えていることを察したのか、サミールは首を振って顔を引っ込めた。寝転んだのだろう、ベッドが軋んだ。
「ダメだよ。探して奪っちまおうって思ったんだろ? おれが三年間それを考えなかったと思う?」
「……そうだよね」
落胆を隠さずに呟いた。権利書はこの家にも店にもないのだろう。
「サミールくんはどこにあると思う?」
「普通は銀行に預けるって聞いた」
それでは手が出ない。フェリシティはため息をついたが、権利書の存在を知ったのは重大な事実だと思った。
権利とはなにか。久しぶりに頭の中の辞書が開かれた。
権利とは、人間の行為に対する社会的正当性の根拠。権利は保証がなければ効力を持たない。保証するのは国家であり、それを定めるのは法律だった。
「法律……」
思わず口を突いた言葉に、フェリシティは突然頭の靄が晴れるのを感じた。
真っ暗闇の世界に一条の光が差し込んだ気がした。
法律。どれだけの時間を向き合ったことかわからない。
確かに、フェリシティは今の暮らしに慣れてしまっていた。セッターの言うとおり、自分より下の存在を見て安心する気持ちがないわけではなかった。未知の世界で自分を見失っていた。すべてを失った。自分はなにも持っていない。そう思っていた。だが、残っていた。
「……私の、資質」
「え?」
サミールに聞き返されたが、フェリシティは全く別のことを考えていた。
しばらく黙考して、改めて声をかけた。
「ねぇ、一つお願いしていいかな?」
「……なんだよ急に」
「必要なことなの。多分、絶対」
「どっちだよ」 サミールが笑う。「それで、なに?」
「うん……、あのね」
フェリシティは少し恥ずかしげに、それでもはっきりといった。
「お金持ってる?」




