価値観の衝突
「カイン、少し話がしたい」
陛下がそう告げて俺の宮を訪れたのは、リディアとの対話から数日後のことだった。あの夜以来、初めてのことだった。
応接間に通すと、陛下は珍しく居心地悪そうに椅子に腰を下ろした。
「先日のことを、ずっと考えていた」
「先日のこと、ですか」
「お前が私を拒んだ、あの夜のことだ」
俺は身構えるように背筋を伸ばした。陛下は少し言葉を選ぶような間を置いてから、続けた。
「お前を不安にさせているのなら、それは私の落ち度だ。だから、はっきり伝えておきたい」
「……はい」
「お前が第一位だ。側妃たちとは、扱いそのものが違う」
その言葉は、おそらく善意から発せられたものだった。だが、俺の胸には、期待していたような安堵は広がらなかった。むしろ、静かな失望だけが降り積もっていく。
「陛下」
「なんだ」
「順位の話じゃないんです」
陛下は、意味が分からないというように眉根を寄せた。
「順位ではない、とは?」
「俺が一番だとか、一位だとか、そういう問題じゃないんです。俺が望んでいるのは、そもそも比べる相手がいないことなんです」
「……」
「一位でも、特別扱いでもいい。でも側妃様がいる限り、俺は常に誰かと並べられている。それが、苦しいんです」
陛下は、しばらく考え込むように黙っていた。それから、諭すような口調で言った。
「側妃を寵愛することと、お前を愛することは、両立するはずだ」
「両立、ですか」
「そうだ。一つの心で、複数の相手を大切にすることは、決して矛盾ではない」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがはっきりと固まった。
「俺には、しません」
「何?」
「俺は、そういう両立を、自分に許すつもりはありません」
陛下の瞳に、初めて明確な困惑が浮かんだ。
「なぜだ。それが、この国では当たり前のことだ」
「あなたができるかどうかの話じゃないんです」
俺は、まっすぐに陛下を見つめて言った。
「俺が、嫌なんです」
短い沈黙が落ちた。陛下は、これまで一度も聞いたことのない言葉を耳にしたような表情をしていた。
「お前は、私の考え方そのものを、否定していると?」
「否定しているわけじゃありません。ただ、あなたの当たり前と、俺の当たり前が、根本から違うと言っているだけです」
陛下は口を開きかけて、しかしすぐに何も言わずに閉じた。反論しようとして、言葉が見つからなかったのかもしれない。この人は、決して悪意のある人ではない。むしろ、善良で、誠実であろうとしている。だからこそ、その価値観の根っこにあるずれが、余計にもどかしかった。
「私には……お前の言う"嫌"の重みが、正直なところ、まだよく分からない」
陛下は、静かにそう言った。責めるような響きはなく、ただ純粋な困惑だけがそこにあった。
「分からなくてもいいです」
そう言いかけて、俺は思い直した。分からないままにしておく方が、この先もっと苦しくなる気がした。
「陛下、一つだけ聞いてもらえますか」
「なんだ」
俺は深く息を吸い込んだ。ここまで話すつもりはなかった。それでも、今言わなければ、きっと一生言えない気がした。
「俺には、前世の記憶があるんです」
陛下は、一瞬、言葉の意味を掴みかねるように黙り込んだ。
「なに? 前世?」
「信じられませんか?」
「……いや」
陛下は、しばらく俺の顔をじっと見つめていた。やがて、静かに言った。
「番の言うことなら、聞こう」
その一言に、俺は少し驚いた。荒唐無稽な話のはずなのに、陛下は疑うそぶりも見せず、ただ真剣な眼差しでこちらを見ている。
「前世の俺がいた世界では、結婚は基本的に一人と一人でするものでした。誰かを大切にするなら、他の誰かと分け合うことは考えられない――それが、当たり前の価値観だったんです」
「そのような世界が……」
「だから、側妃という存在そのものが悪いとか、リディア様たちが間違っているとか、そういうことじゃないんです。ただ、俺の中に染み付いた"当たり前"が、この国の"当たり前"と、根本から噛み合わないだけで」
陛下は、しばらく黙って俺の話に耳を傾けていた。その表情には、これまでのような困惑だけではなく、何かを懸命に理解しようとする真剣さが浮かんでいた。
「その"当たり前"を、私はまだ、自分のものにはできていない」
「はい」
「だが……知ろうとすることは、できる」
その言葉に、俺は思わず陛下の顔を見つめ返した。
「ただ、分かろうとしてくれるなら、それだけで違います」
陛下は、その言葉に何かを考え込むような表情を浮かべた。それ以上、何も言わなかった。
やがて陛下は静かに立ち上がり、部屋を辞していった。扉が閉まる音を聞きながら、俺は自分の中に残る、もどかしさと、わずかな希望のようなものを、同時に感じていた。
この人と分かり合える日が来るのだろうか。まだ確信は持てなかった。それでも、今日の陛下の表情には、これまでとは違う何かが宿っていた気がした。




