陛下と私の間にあるのは
あの夜以来、陛下は俺の部屋を訪れることはなくなった。
陛下を拒んだことで、使用人たちから軽んじられるのではないかと、内心で身構えていた。だが、実際にはそうした素振りを見せる者は一人もいなかった。むしろ以前と変わらぬ丁寧さで世話を焼いてくれる侍女たちの様子に、俺は密かに胸を撫で下ろしていた。
代わりに募っていったのは、罪悪感だった。俺があの場で拒絶したことで、陛下は今、誰の宮で過ごしているのだろう。もしかしたら、俺が来たことで、あの銀髪の側妃――リディア様から、陛下との時間を奪ってしまっているのではないか。
そんな考えが頭から離れず、幾日か悩んだ末、俺はある決心をした。
「リディア様に、お目にかかりたいのですが」
侍女にそう告げると、意外そうな顔をされた。それでも取り次いでもらえることになり、俺はリディアの宮へと向かった。
彼女の宮は、俺の宮とは対照的に、落ち着いた深い色調で統一されていた。応接間に通されると、リディアは優雅な仕草で椅子を勧めてくれた。
「カイン様がいらっしゃるとは、珍しいこと」
「突然の訪問、申し訳ございません」
「構いませんわ。何か御用でしょうか」
その落ち着いた物腰を前に、俺は用意していた言葉が上手く出てこなくなった。それでも、意を決して口を開いた。
「あの、俺が来たことで、リディア様から陛下との時間を奪ってしまっているのではないかと……申し訳なく思っていて」
リディアは、一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、小さく笑い出した。
「まあ。そんなことを気に病んでいらしたの」
「おかしいでしょうか」
「いいえ。むしろ、お優しいのねと思っただけですわ」
彼女はゆっくりと紅茶を一口飲み、それから静かに俺を見つめた。
「カイン様は、私が陛下を愛していると思っていらっしゃるの?」
「……違うんですか?」
思わず聞き返すと、リディアは少し困ったように微笑んだ。
「私はセイレス王国の娘。陛下と私の間に必要なのは、愛ではなく同盟よ」
淡々とした口調だった。それでいて、そこに悲哀のようなものは感じられなかった。むしろ、当然のことを語るような響きがあった。
「私の国は小さく、大国に挟まれています。竜王陛下との縁があってこそ、国の独立が保たれている。そのために私はここにいるの。陛下への感情は、恋愛とは別のところにあるわ」
「では、あなたは……幸せなんですか?」
思わず出た問いに、リディアは初めて表情を曇らせた。
「幸せ、というのとは少し違うかもしれません。でも、私には、私の役目があります。それを果たすことに、誇りを持っているつもりよ」
役目、誇り。その言葉の裏に、彼女がこれまでに飲み込んできたものの重さが滲んでいる気がした。
「カイン様は、変わっていらっしゃるのね」
「変わっている、ですか」
「ええ。奪ったなどと気に病むよりも先に、私のことを一人の人間として気にかけてくださった。この国では、あまり見かけない考え方だわ」
その言葉に、俺は何と返せばいいか分からなかった。ただ、この人が纏っている静かな諦念のようなものだけは、はっきりと伝わってきた。
「私たちは、陛下の妻という立場は同じでも、置かれた事情はまるで違います。カイン様が思い悩む必要は、本当にないのよ」
「……そう、なんでしょうか」
「ええ。それより」
リディアは、少し身を乗り出すようにして言った。
「カイン様が本当に望んでいるものは、何なのかしら」
その問いに、俺はすぐには答えられなかった。ただ、彼女の透き通るような視線に、心の奥まで見透かされているような気がした。
宮を辞して自室に戻る道すがら、俺の頭の中には、彼女の言葉が何度も繰り返されていた。
愛ではなく同盟。役目と誇り。この世界には、俺の知らない価値観が、確かに存在している。
それを間違っていると断じることは簡単だった。だが、リディアの静かな眼差しを思い出すたび、そう単純には割り切れない何かが、胸の奥に残り続けていた。




