帰ってください
宴が終わり、俺は侍女たちに導かれるまま、初夜のために用意された部屋へと通された。
広い寝室には、白い薔薇が至る所に飾られていた。天蓋付きの寝台には、上質な絹の敷布が張られている。本来であれば、心が浮き立つはずの光景だった。だが今の俺には、ただ息苦しいだけの空間に感じられた。
――側妃が、三人。
宴の間中、頭から離れなかった事実が、繰り返し胸の中で反響していた。
「カイン様、湯浴みの準備が整いました」
侍女に促されるまま、俺は形だけの支度を済ませた。窓の外はすっかり夜が更けている。心のどこかで、このまま何事もなく朝が来てほしいと願っていた。
その願いは、あっさりと打ち砕かれた。
扉の外から、複数の足音が近づいてくる。やがて扉が静かに開かれ、寝着に着替えた陛下が姿を現した。当然のように、まるで毎晩繰り返してきた習慣であるかのように。
「待たせたか」
穏やかな声で、陛下はそう言いながら寝台に近づいてくる。俺は思わず一歩、後ずさっていた。
「……お待ちください」
「どうした」
不思議そうに眉を寄せる陛下に、俺は自分でも驚くほど固い声で告げた。
「帰ってください」
一瞬、部屋の中の空気が止まった。
「なぜだ?」
陛下の声に、苛立ちよりも純粋な困惑が滲んでいた。おそらく、こんな拒絶を受けたことなど、これまで一度もなかったのだろう。
「なぜ、と聞かれても」
込み上げる感情を抑えきれず、俺の声は震えた。
「陛下には、既に側妃様が三人もいらっしゃると、今日初めて知りました。それなのに、こうして当たり前のように、俺の部屋にいらっしゃる。その意味が、俺には分かりません」
「側妃のことと、お前を迎えることに、何の関係がある」
その言葉に、頭の中で何かが音を立てて崩れた。
「関係ないと、本気でおっしゃっているんですか」
「私にとって、運命のつがいであるお前は、誰よりも特別な存在だ。側妃たちとは、そもそも意味合いが違う」
言葉自体は、優しさに満ちているようにも聞こえた。だが、その優しさの根底にある価値観が、俺には到底受け入れられないものだった。
「俺は、そんな風には思えません」
「カイン」
「誰かと生涯を共にするなら、一人だけを想い合いたい。それが叶う場所だと、勝手に期待していました。でも、違うんですね」
言葉にすればするほど、自分の中の失望の大きさに気づかされる。陛下は、しばらく黙って俺を見つめていた。その表情には、明らかな戸惑いが浮かんでいた。
「……お前の言う一人だけを想う、という考えが、私には正直、よく分からない」
その言葉の率直さが、かえって俺の胸を突き刺した。悪意も欺瞞もない。この人は本当に、俺の感じている痛みの正体を理解していないのだ。
「その"なぜ"が分からない人とは、寝られません」
自分でも思いがけないほど、はっきりとした声が出た。
陛下は、しばらく無言のまま、俺を見つめ続けていた。やがて、小さく息をつく。
「分かった。今夜は、下がろう」
それだけ言うと、陛下は静かに踵を返した。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
一人残された部屋で、俺はその場にへたり込むように座り込んだ。張り詰めていた緊張が解け、代わりに込み上げてきたのは、涙だった。
期待していた分だけ、失望は深かった。運命のつがい、という言葉の美しさとは裏腹に、この国の現実は、俺が思い描いていたものとはあまりにもかけ離れていた。
窓の外では、月が静かに、何も語らないまま輝き続けていた。




